見出し画像

[2024.5]【タンゴ界隈そぞろ歩き⑭】66年越しのプロローグ

文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura

恐れのない動き

現代のジャズ・シーンを牽引する人物の一人、サックス奏者のカマシ・ワシントンは今月 (2024年5月)、アルバム『Fearless Movement』をリリースした。娘が生まれたことで得た喜びやインスピレーション、自身の人生観の変化などが反映された、従来の彼の作品よりもオープンで親しみやすい印象のアルバムだ。アルバムのタイトルについて、彼はこう語る。

「Fearless Movement(恐れのない動き)」という概念は、「前に進むためには恐れないことが大事」という意味なんだ。次に進むべきところに到達するには、今まで自分が持っていたものを手放さないといけない。それがタイトルの意味だよ。

カマシ・ワシントンが語る、より良い世界に進むための愛と勇気とダンスミュージック (Mitsutaka Nagira - Rolling Stone)

CD2枚にわたる充実した楽曲群のラストに据えられているのは「Prologue」。「序章」を最後に置くのは「終わりは次の始まりだ」という明確な意思に基づくものだ。「我々の行く旅は終わりを目指す旅ではない。この旅は始まりを目指している。新しい旅を得るためには旅をする必要があった。こうして私は今自分がどこにいるかを見つめるのだ。」(参考:For Kamasi Washington, This is Just the Prologue)。
アルバムリリースに先行して3月にはミュージックビデオも公開された。

スピード感あふれる細分化されたリズム、テーマの荘厳な響き、トランペットとサックスのインプロヴィゼーション、そしてダンサーたちの美しい身体表現。8分以上に及ぶビデオは最初から最後まで目と耳を離すことができない。そして、お気づきの方も多いかもしれない。この曲はアストル・ピアソラの作品である。

現代ジャズ界のカリスマがなぜピアソラの作品を取り上げたのかは気になるところだが、ワシントン自身のSNSへの投稿によれば、この曲を演奏するアイディアをもたらしたのはベーシストのマイルス・モズレーだったのだそうだ。実は、セルゲイ・トゥマスという人物のプロデュースで米国で行われたピアソラ・トリビュートのショーにモズレーは音楽監督として参加しており、ワシントンもメンバーとして起用されている。下の映像は2011年の "Tango Nuevo Cabaret" と題されたショーからのもの。このあたりが彼等のピアソラの音楽との接点だったのではないかと私は想像している。

トゥマスはその後アルバムもリリースしておりいろいろと興味深いのだが、これについてはまた機会があれば掘り下げたい。

さて、そもそも "Prologue" とはどういう曲なのか。

荒々しいダンサーと循環する夜、あるいは情熱的なタンゴ

ピアソラは1988年に、『The Rough Dancer And The Cyclical Night (Tango Apasionado)』 というアルバムをリリースしている。このアルバムはキップ・ハンラハンのプロデュースによるピアソラの「アメリカン・クラーヴェ3部作」と呼ばれる作品の一つ。ニューヨークで上演されたミュージカル "Tango Apasionado" のためにピアソラが書き下ろした楽曲を再構成したコンセプト・アルバムだ(上演時には歌詞のついた曲もあったのに対しアルバムは全編インストゥルメンタルであることなど、上演内容とアルバムとは必ずしも一致しない)。そして、その1曲目「Prologue (Tango Apasionado)」 がワシントンの演奏した「Prologue」なのだ。

ピアソラとバイオリンのフェルナンド・スアレス・パス以外当時のピアソラ五重奏団のメンバーとは異なるミュージシャンが参加し、一発録りではなくマルチ録音 (ベーシックトラックに楽器を重ねて行く手法) で録音された音は、ピアソラ五重奏団のアルバムとは異なる響きと雰囲気を持っている。多分に視覚的なイマジネーションを喚起する作品で、1997年のウォン・カーウァイ監督の映画『ブエノスアイレス』にも「Prologue (Tango Apasionado)」 を含む3曲が使用されている。

注:上のSpotifyのリンクはアメリカン・クラーヴェ3部作をまとめて配信しているもので、ディスク3(トラック15〜)が『The Rough Dancer And The Cyclical Night (Tango Apasionado)』 である (本記事公開時は不完全なリンクを提示していました。差し替えるとともにお詫び致します)

ミュージカル "Tango Apasionado" は INTAR - ヒスパニック・アメリカン・アーツ・センターの提供により、アルゼンチン出身でニューヨークにて振付師として活躍していたグラシエラ・ダニエレの原案で制作された。1939年ブエノスアイレスで生まれ、幼い頃からバレエを習ってきたダニエレは、18歳でパリに留学。ヨーロッパ滞在中に観た『ウェストサイド・ストーリー』に衝撃を受け、1963年からニューヨークのショービジネス界に飛び込む (参考:A Life in the Theatre: Director-Choreographer Graciela Daniele - Playbill)。以来ダンサー、振付師として活躍してきた彼女だが、監督として自分の作りたいものを作る機会を得たのはこれが初めてだった。ニューヨーク・タイムズのインタビューによれば、最初にINTARのアートディレクター、マックス・フェラから「何がやりたい?」と聞かれたときは「恐ろしくも素晴らしい質問」と感じたそうだ。

共同で脚色にあたったINTARの文芸顧問ジム・ルイスから共演したいアーティストを聞かれ、彼女は真っ先にアストル・ピアソラの名を挙げた。題材としてはホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品を選んだ。ピアソラは彼女が子供の頃母に聴かされて以来の大好きなミュージシャンであり (年代的には「46年のオルケスタ」だろうか)、ボルヘスはそのキャラクター ―スペイン語より先に英語を話すような上流階級に生まれ、若くして視力を失いながら、自身の生きる世界とは何の関わりもないタンゴ揺籃期のブエノスアイレスのアンダーグラウンドを極めて視覚的に表現する―に惹かれた。主に「じゃま者 (La intrusa)」(『ブロディ―の報告書』に収録)、「バラ色の街角の男 (Hombre de la esquina rosada)」(『汚辱の世界史』に収録) を中心に複数のテキストから題材を得て再構成し、ピアソラの音楽を得て作り上げられたこの作品は、1987年10月にニューヨークのウェストベス・シアター・センターで上演され好評を博した。

上述のインタビューでは「振付師として私はいつも、他者の素材、他者のビジョンを解釈する者だった。私はいつも、自分の技術の100パーセントは使っていても創造性については20から25パーセントしか使っていないと感じてきた。でもこの作品で私は自分のキャンバスに絵を描いた。出来が良くても悪くてもこれは私のもの。人生において一度でもこんな経験をできたことはとても幸運だった。もう明日死んでもいいぐらい幸せ。」と振り返っている。

以後、彼女は振付師だけでなく監督としても多くの作品に携わっている。思えばバレエ・ダンサーの道を捨ててショウビジネスの世界に飛び込み、一度も会ったことのないピアソラに共作のオファーを行い、やったことのない監督に挑むという行動は、まさに恐れを振り払って前に進む動きだったと言えるだろう。その象徴であり成果である楽曲が「Prologue」だった。

そして実は、そのメロディーはさらに20年以上前に生まれていた。

エル・タンゴ

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩と散文にアストル・ピアソラが曲をつけるという形で1965年に制作されたアルバム『El tango』は、偉大な文学者とのコラボレーションとしてピアソラの生涯の中でも非常に重要な位置を占める一枚である。その1曲目「El tango」はボルヘスが1958年に発表した同名の詩 (『エル・オトロ、エル・ミスモ』に収録) によるもので、約6分半にわたる組曲風の楽曲。そしてこの最後のパートこそが、「Prologue」のメロディーが最初に世に出たものなのだ。

注:Spotify等のデジタル配信ではアーティスト名がQuinteto Nuevo Tangoとなっているが、本来のアルバムのクレジットは Jorge Luis Borges / Astor Piazzollaであり、また一部の曲ではピアソラ五重奏団 (Quinteto Nuevo Tango) にメンバーを追加したオーケストラ編成で録音されている。

ちなみにアルバムの後半は『バラ色の街角の男』による組曲で、振付師アナ・イテルマンのアイディアを元に1960年に書かれたもの。"Tango Apasionado" でも取り上げられた作品が題材だが、少なくとも『The Rough Dancer …』に収録されている楽曲との間には関連は見られない。

このアルバムでのボルヘスとのコラボレーションについて、ピアソラは原盤のライナーでは「その責任はとても重かったが、この偉大な詩人が私のすべての曲を最初の瞬間から同一視してくれたことを確信できた時の補償が勝っていた」と書いている(日本盤CD『エル・タンゴ』UCCM-45002での斎藤充正氏によるライナーより)。しかしながら、実際にはボルヘスはピアソラの音楽を理解していなかったようだ。

私にとって、彼のような世界的スケールの大物と一緒に仕事ができることは、本当に名誉だった。いろいろと意見が対立するようになったのは、アルバムが発売されてからだ。ボルヘスは、私がタンゴをわかっていないと言い出したので、私も、彼は音楽のことなど何も知らないと言い返してやった。彼はいくつかのことで絶対的権力を持つほど、独裁的な人物だった。(中略) 彼は詩作の魔術師だったと思う。彼の作品以上に美しい詩を、私は読んだことがない。だが、こと音楽となると、ボルヘスは耳が聞こえなかったのだ。

ピアソラ 自身を語る (ナタリオ・ゴリン著、斎藤充正訳、河出書房新社)

タンゴ揺籃期のブエノスアイレスのアンダーグラウンドに自らの作品のモチーフを求めたボルヘスだったが、上のグラシエラ・ダニエレのところでも述べたように、それはあくまで彼の中でのイマジネーションの産物だった。タンゴについても、自身が独自に作り上げたタンゴの概念が厳然と存在し、それ以外は認めなかったのだろう。全く別の文脈だが、エンリケ・サントス・ディセポロはタンゴとは無関係だ、等と評したこともある (関連する話題について、拙ブログで恐縮だが タンゴとは踊られる悲しい思考である~ディセポロの言葉を調べてみたらサバトを経由してボルヘスに到達してしまった話 で言及しているので興味がある方はご参照いただきたい)。

ボルヘスのリアクションはともかく、俳優ルイス・メディナ・カストロによる朗読と歌手エドムンド・リベロの歌、そしてピアソラらによる演奏はボルヘスの詩の世界を余すところなく表現しており、素晴らしいアルバムに仕上がっている。そしてそれは、楽曲のイマジネーションの源泉になったボルヘスの作品が素晴らしいものであったからこその成果でもある。

こうして見ると、ボルヘスが1958年に「El tango」を書いたことが全ての起点ということになる。そのボルヘスにとっては、自分とは無縁のアンダーグラウンドの世界へ想像の世界の中で一歩踏み出したことが創造力の源泉であった。視力を失うことと引き換えに、いささか内向きながらそこに大きな自分だけの世界を構築したのである。ピアソラは、自身の音楽を理解しないボルヘスに憤りつつもその作品の美しさについては評価を誤らず、後年もボルヘス作品に関わる音楽をいくつか書いた。そのピアソラの姿勢があったからこそグラシエラ・ダニエレは上述のように恐れを振り払って前に進み "Tango Apasionado" を創ることができた。そしてそれがセルゲイ・トゥマスのショーを経て2024年のカマシ・ワシントンの「Prologue」につながったのだ。

あまり物事の意味をこじつけることは良くないかもしれないが、それでもやはりこのつながりは何か大事なもののように思える。ワシントンにとっての新たな旅もまた、彼自身だけでなく誰かが前へ進むきっかけになることだろう。

(ラティーナ2024年5月)


ここから先は

0字

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…