[2021.12]PIRY REIS~ミニマル&アンビエント・リバイバルで急浮上する幻のブラジル音楽家 1995年、自宅訪問の回顧録【後編】
文と写真●若杉 実 texto e fotos por MINORU WAKASUGI
【前編】はこちら↓
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本題に入るまえに前回の補足を。当時のメモを見落としていた箇所を発見。“ピリ・ヘイスという名前は今後使わない”という理由について、不詳と書いたが、本人からの説明があった。
「わたしのようなインストゥルメンタル・ミュージックはブラジルでは需要がない。アメリカ、海外で売るための一策だよ」
裏を返せば、国外ではピリ・ヘイスという名前は都合がわるいということになるが、それについての言及はなかった。
ピリ・ヘイスの由来は、“ピーリーの地図” で知られるピーリー・レイース(PIRI REIS)であることが予想される。16世紀、オスマン帝国(14〜20世紀初頭)の海軍軍人として活躍。当時としてはめずらしい詳細な世界地図を作成したことで、後世に伝えられてきた。その人物像をして、知性とロマンあふれる音楽家にふさわしい名前といえるが、裏取りはしていないため、真の由来についての明言は避けたい。
ただしピリの言からもわかるように、それが肯定できなくなった。匿名は匿名にすぎない。自分の実力を認めてもらうにあたって、非実名であることがただしいのか。改名を迫るほどの心境の変化があったとも考えられる。
ミュージシャンズミュージシャンの鑑。ピリに会えばだれもがそう呼びたくなるにちがいない。野望に満ち自負心にあふれ、たとえ自分の作品であっても初期のシングル2枚を負の遺産と恥じ、公園に埋めてしまう(前編)。そしてそのストイックな性質が、“幻の演奏家” なるラベリングを強固にしてしまってもいた。
事実、創作への意欲を削がれたピリは、1970年代前半から音楽家として長いトンネルに入る。その入り口となった “2枚の負の遺産” から出口である『Piry Reis』(1980年)までの数年間、日々の暮らしは荒んだ。それでも明けない夜はないということばを信じた結果、音楽の女神が現れ、とびきりのスマイルをピリに投げかける。まぶしい理由は明白だった。女神の名前は “太陽の方舟(A BARCA DO SOL)” と名乗った。
つかの間の転機
ジスモンチとの関係性は軽く触れたが(前編)、その契機を与えた女神こそア・バルカ・ド・ソル(以下ABDS)である。のちにジスモンチ・グループに合流する若獅子たちのジャズロック・グループ。ピリもサポートメンバーとして名を連ねた。
ABDSの歴史がスタートしたのは1973年。コパカバーナの大学に在学中だったナンド・カルネイロとムリ・コスタが出会い、そこにムリの弟マルセロが加入することで最初の編成が定まる。だがそれは、これから彼らが描くストーリーの序章でしかなく、そうであるからこそ物足りなさを覚えさせもした。
そう感じた人物がまちがいなくひとりいる。かのドリ・カイミは3人の演奏を聴くなりそう直感し、世話役を買って出た。彼らと同世代の演奏家4人をグループにあてがい、“方舟” らしい体裁を整える。そのなかには坂本龍一など日本人との共演で知られるようになる、若き日のジャキス・モレレンバウムの姿もあった。これにてアルバム制作に不足なし。“処女航海” に向けメンバーたちは録音準備に取りかかる。
そんな矢先になにがあったのか、ピリに異変がおこる。彼のストイシズムはこんなときでさえ、いや、こんなときだからこそ効力を発揮してしまう。
「いっしょにやりながら、バンドが自分の考えとはべつの世界に向かっていることに気づいたんだ」
“べつの世界” の行き着く先にはロックがあった。かたやピリの考えにはジャズがあった。ロックの自由・外向性を吸収しつつも、ジャズの実験性をなおざりにはできない。演奏技術を突きつめる姿勢こそ共通していたが、その張りつめた空間のなかにどんな要素を入れ、いかなる効果を引き出そうとしていたかという点において、双方のあいだに溝が生じはじめる。はたしてABDSの “記録” にピリの名が刻まれることはなかった。
ABDSの進路はピリにとって満足のいくものではなかったが、残されたメンバーも順風満帆だったとはいいきれない。1984年にデビューアルバム『A Barca Do Sol』をリリース後、数名のメンバーが脱退。「Lady Jane」他いくつかの収録曲が注目され、次のアルバム『Durante O Verão』(1976年)への弾みとはなったが、セールスには直結せず、コンセプチュアルな労作との評価だけが残る(その後、音楽留学のためジャキスが渡米)。海外では後年プログレ愛好家に “発見” されるが、いずれにせよわかりやすい音楽ではなかったことが証明されたにすぎない。そしてそのような評価を予知していたのか、最後のアルバム『Pirata』(1979年)では時間遡行のようにアコースティック〜ルーツ路線に舵を切る。
A BARCA DO SOL『A Barca Do Sol』
A BARCA DO SOL『Durante O Verão』
A BARCA DO SOL『Pirata』
才能ある音楽家をあつめれば最高の音楽が生まれる。だれもがそう信じたいが、過信してはいけない。個々の個性が衝突し合いハレーションをおこす可能性もある。事実、脱退したメンバーのなかにはそのような理由があったこともあきらかになっている。ピリにしても、方向性より意見の相違だったのではないか。結成に尽力したジスモンチにせよ、このようなリスクを計算に入れていなかったはずはないが、ファースト以外に彼のクレジットはない。つまり、その事実こそすべての答え。
たとえばジスモンチの目的は、グループのプロデュースとはべつにあったとも映る。ABDSの結成と同時期にCARMOレーベルを始動、ブラジルの新派たちを次々と送り出しながら、ナンドやピリのソロにも着手していることからこのような推測が立つ。先行投資としてABDSを活動させながら有能な若手をCARMOに引き入れ、ジスモンチ一族の拡充およびブラジルのインストゥルメンタル(を中心とした)音楽の普遍化を図る。この論が正しければ、ABDSから離れたピリが、ジスモンチとの友好はそのままに、2枚のアルバムをCARMOに残したことは腹に落ちる。
NANDO CARNEIRO『Violão』
PIRY REIS「Jardim de Alah」
CARMOレーベル
CARMO(ジスモンチの出生地であるリオの町名)は1983年、ECM傘下に設立され、ジスモンチ・グループのギター奏者アンドレ・ジェライサッチのソロを同年にリリース、レーベル初弾とした。ナンドはそれにつづき、ピリは5枚めに登場。その後1986年にセカンドが発表されると、翌年、打楽器奏者フェルナンド・ファルサォンのアルバムをもってブラジルでの制作を切り上げる。以降ドイツに移し、ジスモンチを中心に周辺アーティストのリイシューで肩慣らし。1999年から新録に取りかかったが、再出発の門出を飾ったのは愛弟子のデリア・フィシェルだった。
CARMOを再評価するにあたって、ピリを中心としたときと、そうではないときとでは差異が生じる。クラブ系を重点にブラジル・ブームに沸いた90年代は、アレウーダ(『Oferenda』がFAR OUTから再発)やホベルチーニョ・シウヴァの作品に視線が集中した。“DJ使い” という絶対基準がそこにはあり、“ジスモンチ” という系譜はあってないようなものだったともいえる。
ALEUDA『Oferenda』
ROBERTINHO SILVA『Bateria』
かたやピリの高評を仰ぐ近年において優位性の高まるアーティストが、マルコ・ボスコやルイジ・イルランジーニといった前衛寄りの音楽家。彼らの作品に伏流するミニマル〜アンビエントな興趣は、主宰者ジスモンチの哲学に近い。
MARCO BOSCO『Fragmentos Da Casa』
LUIGI IRLANDINI『Azul E Areia』
そして以上の流れに立てば後者側になるピリだが、実際にはそうとはいえない。タイムレスな評価を受ける誘因には、その両方の音楽観を兼ね備えなければならず、事実彼はそういう音楽をつむぐ。知的で抒情的で恍惚的で躍動的な歌に音、そして、まどろみのような気。
ピリの自宅を後にしてから数日後、リオにもどるため投宿先の友人にクルマで送迎してもらう。早朝から出発し、窓越しに感じる汐風にのってカーステからギターが流れる。パット・メセニーの『Bright Size Life』だとすぐにわかった。しかし浮かんできた顔はメセニーではなく別人だった。数日前に会ったその御仁は、つむじを見せ弦に集中している。ボンネットに反射する陽の束が車内に差し、目が細る。夢ではない。ようやく気づいた。
(ラティーナ2021年12月)
Special Thanks to ADERSON FERREIRA Jr.
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