[2021.03]連載③音楽が世の中を大きく変えた時代〜1974年、スペインの記憶カタルーニャの「ノヴァ・カンソー」その2
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[2021.03]連載③音楽が世の中を大きく変えた時代〜1974年、スペインの記憶カタルーニャの「ノヴァ・カンソー」その2

文●本田 健治 texto por Kenji Honda

現在のカタルーニャ独立問題の行方

 さて、リュイス・リャックのペルピニャンで思い出したが、カタルーニャのスペインからの独立を目指して、ブリュッセルで政治活動を指揮する自治州のプッチダモン前州首相が、2020年1月にフランス領カタルーニャのペルピニャンに入り、ここに、スペイン領カタルーニャの分離主義活動家を集めて大集会を開いた。600台のバスを予約して敢行したという。折しもコロナ感染が急上昇で混乱している時だけに、ヨーロッパ全体を敵に回す、非難を浴びるような一大イベントだった。ペルピニャンにはカタラン・ドラゴンズというラグビー・チームがあり、前述の通り「レスタカ」が賛歌として歌われている。2017年10月に行われた住民投票で40%の投票率で90%が独立を支持、スペイン中央政府は当然反発、プッチダモン州首相(写真下)

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スペイン

以下、閣僚たちを全員更迭。プッチダモンは、ベルギーに逃げて独立派を動かしているのだが、スペイン政府は「反乱材」や「公金横領」などいくつもの嫌疑をかけて不当に逮捕していた。いずれも当然、嫌疑不十分であったが、今でも裁判は続いている。ベルギーの裁判でもプッチダモンの免責撤回の動きが活発になるなど、このところの動きから目が離せない。でも、EUとしては一応民主的な現スペイン中央政府の側に立っているから、このカタルーニャ独立問題の決着は難しい。綿工業を筆頭にスペイン経済をリードしていた昔と違って、現在はこの独立問題もあって他の地方のまぁまぁ順調なスペイン経済に比べて、カタルーニャ経済は落ち込み、スペイン全体に比べると足を引っ張っているという事情もある。1992年のバルセロナ・オリンピックで近隣諸国や、アフリカ、中南米からの移民も急増、独立を叫ぶ側のカタルーニャ語人口に比べて、スペイン語を話す人口が増えてきていることも背景にある。現在はコロナ禍の中で、全ての運動も争いも一時ストップ状態。2021年のカタルーニャ地方選挙日を巡って一悶着あったが、結局州高等裁判所の判決で、2月14日に投票されることが決定した。

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 そして、今年2月14日、カタルーニャ州議会選挙が行われた。新型コロナウイルスの感染不安が強い中、投票率は53.5%と低迷。スペインからの州独立機運の高まりで過去最高となった前回の投票率から25.6ポイント低下した。結果は、第1党は国政与党・社会労働党(PSOE)系のカタルーニャ社会党(PSC)で、得票率23.0%を集め、33議席と前回から議席がほぼ倍増した(カタルーニャ州政府発表)。これは、このコロナ対策の陣頭指揮をとってきた55才のサルバドール・イジャ前保健相(写真下)を比例名簿1位に抜擢したことが

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奏功したとみられ、投票率23%、33議席を獲得。一方、独立派では、左派のカタルーニャ共和左派(ERC)が33議席、中道右派のカタルーニャ連合(JxC=ベルギーに亡命中のプッチダモン前州首相やリュイス・リャック所属)が32議席、急進左派の「民衆団結代表の党」(CUP)が9議席を獲得し、合計74議席と過半数の68を上回った。独立派政党は州内の地方部の固定票が多いため、得票率の合計は48.0%と半分を割り込んだ。数字あわせでは独立派が政権につく可能性が強く見えるが、独立派も一枚岩ではない上に、ERCが同じ左派のサンチェス政権に協力しつつ、カタルーニャに有利な譲歩を引き出すという現実路線を思考しているとの見方もあって、連立の方向が定まるのは、3月末になりそう。
 スペイン本国も左派社会労働党政権で、フランコの墓がマドリード州の国立慰霊施設「戦没者の谷」にあるのは「民主時代に相応しくない」と遺体を家族の墓へ移動させるなど、内戦時代に「独立」を志向した時代とは背景も大きく変わっていて、「独立」を目指すのか、バスクのように現状のまま自治権を拡大する方向を望むのか、今回の選挙では、なかなか見通せなくなっきたが、カタルーニャの住民が「カタルーニャ独自の文化」を求める方向だけははっきりしている。

 さて、話をノヴァ・カンソーに戻そう。前回は中心的な2人を紹介したが、他にもたくさん素晴らしいアーティストがムーブメントを支えてきた。そのうちの重要な何人かをご紹介。

ジョアン・マヌエル・セラート

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 ジョアン・マヌエル・セラート(バルセロナ、1943年12月27生)は、個人的には在籍していたレコード会社でベスト・セラーだったポール・モーリアの「ペネローペ(エーゲ海の真珠)」で良く知っていたが、はっきり言って、こんなカタルーニャの闘士の一面を持っているとは驚いた。
 セラートはバルセロナのプエブロ・セコ地区と言う労働者地区に、無政府主義者の父とサラゴサ出身の母との間に生まれた。若くして大学に入り鉱工業の専門家を目指しながらギターを手に歌いはじめた。前述の「16人の裁判官」のメンバーとして,国際的スター歌手になった一人。68年、ユーロビジョン・コンテストにスペイン代表で参加することになったが、カタルーニャ語で歌うことを主張し、受け入れられなかったために辞退する事になった。この時の話はヨーロッパで大きな政治論争にまで発展した。


 翌69年に、リオ・デ・ジャネイロの国際ポピュラー音楽祭に参加し「ペネロペ」で、優秀賞を受賞して初めてのラテン・アメリカ・ツアーを行う。セラートはラテン・アメリカと一番強いつながりを持つスペイン人歌手で、毎年のように大規模なラテン・アメリカ・ツアーを行ってきた。71年には、彼の最も重要なアルバムの一つである「Mediterráneo(地中海)」を発表。このアルバムには「Aquellas pequeñas cosas(些細なこと)」が収録されているが、この曲は彼の中でも最も個人的でエモーショナルな歌詞が含まれている。彼は数年間、スペインで最も売れた10枚のアルバムのリストに入り続け、厳しい検閲にもかかわらず、数週間にわたって絶対的なナンバーワンとして活躍した。その後も、スペインやラテンアメリカのレコード店ではベスト・セラー欄に並ぶ一番人気だった。チリのビーニャ・デル・マール国際歌謡祭にも2度目の参加を果たし、アジェンデ政権を支援するために無料で演奏している。
 無政府主義者だったセラートの父は、実は大のタンゴ好きだったそうで、セラートはよくアルゼンチンを訪れているが、そのたびにタンゴ・ハウスを訪れてはタンゴ界の大物たちと歌っている。1970年には、あのブエノスのタンゴ・ファンから愛された最高のタンゴ・ハウス「カーニョ14」でアニバル・トロイロの演奏で「スール」を歌っているし、1984年に発表した「El Directo」にはディセポロの「カンバラーチェ」を収録。また、1988年には、アルベニス劇場で「メロディア・アラバル(場末のメロディ)」をオスバルド・プグリエーセ楽団と共演もしている。12年にはブエノスアイレスのルナ・パークで、CDとDVDをレコーディングし、ラテンアメリカ中で評判の作品となっている。

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 セラートは、ノヴァ・カンソーの歌手の中ではスペイン語でも歌って先に大スターになったから、ノヴァ・カンソーの支持者からは批判されることもあったが、スペイン国内においてはは、彼の存在がノヴァ・カンソーに大きな力を与えた一面があった事は間違いない。18年のカタルーニャ独立問題の際にも、あまり対話を好まなかったと批判されたが、セラートは「私はノヴァ・カンソーの中の議論でも一度もカスティーリャ語で歌わないと言ったことはない。父はカタルーニャだが、母はサラゴサで元々バイリンガルだ。しかも、私は政治のプロではない。カタルーニャで育ち、フランコを好きな人間と一緒には居たくない。それだけ」という。音楽とスポーツの大好きな78才の老スターは今も元気にスペインで生活している。

マリア・デル・マール・ボネー

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 マリア・デル・マール・ボネー(Maria del Mar Bonet i Verdaguer 1947年4月27日生、パルマ・デ・マジョルカ出身)は、もっとも完成された、万人をも説得する歌唱で、人気を得たスペインのカタルーニャ語の歌手、作曲家。また、バレアレス諸島、カタルーニャ、地中海地域全体のポピュラー音楽を研究してきた長い歴史を持っている。

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 作家でジャーナリストのフアン・ボネ(1917-1991)の娘で、やはり歌手のジョアン・ラモン・ボネーの妹。1967年にバルセロナに出て、「16人の裁判官」たちと一緒に歌い始め、ノヴァ・カンソー運動に参加。以来、カタルーニャ語での作品を発表し続けている。また、ヨーロッパ、北アフリカ、アメリカ、日本、ラテンアメリカの各地で数回のコンサートを行い、新しい芸術の研究分野にも参加している。彼女の最初の成功は、彼女の最も反抗的な歌である「Què volen aquesta gent(飛べというの?)」とフランスの歌手バルバラのオリジナル曲「黒い鷲」のカヴァーで、「No voldria res mes ara(1ヶ月帰らない)」は71年にスペインでゴールド・ディスクを獲得している。「飛べというの?」は、マリア・デル・マール・ボネとルイス・セラヒマが67年1月にマドリッドの学生で反フランコ運動家のラファエル・ギジャロ・モレノに起こったことを追悼して作曲した曲だった。ラファエルは、1967年1月、警察が自宅を捜索中に6階のベランダから転落して死亡した。翌年にリリースされたこの曲は、反フランコ・グループの有名な愛唱曲の一つとなった。

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 1988年からは,定期的に素晴らしいピアニストで、ノヴァ・カンソーの仲間、マネル・カンプと活動をするようになって、彼の作品や、イラー、ジョルジ・ガーシュイン、ミゲル・アンヘル・リエラともジャズ・テイストの曲も取り上げるようになった。この長い活動に中で、リュイス・リャックはもちろん、ミルトン・ナシメント、ジョルジュ・ムスタキ、ドゥルセ・ポンテス、ミルバ、キラパジュンといった世界の蒼々たるアーティストたちと共演してきた。

パコ・イバニェス

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 バレンシア出身(1934年11月20日生〜)。バレンシア人の父とバスク人の母を持つ4人兄弟の末っ子。幼少期をバルセロナで過ごし、1994年から同地で暮らしている。スペイン内戦後、父親がCNT(全国労働者連合)の無政府主義の過激派だったため、一家はフランスに亡命。1939年の冬からドイツによるフランス占領が始まるまで、家族はパリに住んでいた。その後、彼の父親が逮捕され、スペイン共和国人の労働収容所に収容されていた。そのため、母親は4人の子供を連れてサン・セバスティアンに戻り、14才になるまで市内のギプスコアで暮らした。48年、家族は密かに国境を越え、ペルピニャンで父親と対面、父親から家具職人の仕事を学び、バイオリンの勉強をはじめたが、すぐにギターに持ち替えた。


  50年代のはじめにパリに定住した彼は、ジョルジュ・ブラッセンス、エディット・ピアフ、ジャック・ブレル、バルバラ、グリブイユ、セルヴァ、セルジュ・ウトゲ=ロヨ、カパート、アタワルパ・ユパンキの音楽に出会い、彼らと親交を深め、彼の芸術的・思想的な基本を形成。1956年、16世紀スペイン黄金時代の詩人で劇作家ルイス・デ・ゴンゴラの「La más bella niña(もっとも美しい少女)」という詩を初めて歌にした。詩の内容は、彼が戦争に行かなければならなくなったために大いなる愛を失った若い女性の話。すぐに評判になり、64年、パコはゴーンゴラとガルシア・ロルカの詩で初録音。後に、この歌は自由の擁護者が文化的抵抗のシンボルとして使用する「古典」的な存在になった。58年には、その音を聞いたサルバドール・ダリとも親交を深め、詩や文学の世界だけでなく、造形の世界とも親密な関係を生むようになる。
 68年2月にスペインのマンレサでコンサート。TVE(スペイン国立放送)ではミゲル・エルナンデスの「Andaluces de Jaén(ハエンのアンダルシア人」を歌う。内容は「誰がオリーブの木を育てたのか、自分で育つのではないし、金でも主君が育てたわけでもない、それは沈黙の大地と汗の結晶。ハエンのアンダルシア人、奴隷にならず、オリーブの木と一緒に立ち上がれ」。その後すぐにバルセロナに移り住む様になった。
 パコは、その後も文化活動家と共にソルボンヌでコンサートを開催しながら、ラファエル・アルベルティやアントニオ・マチャードらの詩を収録した3枚目のアルバムをリリースした。アルバムのイラスト絵の作者は映画監督カルロス・サウラの兄、アントニオ・サウラだった。12月に開いたオランピアでの初コンサートではジョルジュ・ブラッサンスがスペイン語に翻訳した曲をはじめて歌って成功させた。70年には、パブロ・ネルーダに直接会って「あなたは私の詩を歌わなければならない、あなたの声は私の詩を歌うために作られている…」と告げられた。しかし、その1年後スペインの検閲対象者に加えられ、スペインを離れ、またパリで生活しはじめた。
 1983年、フランスのミッテラン政権の文化大臣より文学勲章を、87年、社会党政権の文化大臣ジャック・ラングより芸術文化勲章の話があったが、いずれも拒絶した。「賞では自由の一部を失う。私が認識している唯一の権威は大衆のものであり、最高の賞品は歌い終えた時の拍手である」という理由だった。90年代、「ポル・ウナ・カンシオン」を発表、以来マドリード、サン・セバスティアン、最終的にバルセロナに定住している。

 カタルーニャの話は書いていると何時までも続くのでここまでにして、次号ではバスクの話題に移りたいと思う。(続く) 

(ラティーナ2021年3月)

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