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【追悼:大城美佐子】[2012.10]沖縄は沖縄であることを、やめるわけにはいかない 〜登川誠仁&大城美佐子『デュエット』〜

 沖縄民謡界の女王、大城美佐子さんが2021年1月17日、他界されました。84歳でした。
 以下の記事は、月刊ラティーナ2012年10月号に掲載されたものです。
筆者の松村 洋さんと、レーベルのリスペクトレコードのご協力で、追悼の意を込め、ここに再掲致します。ご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。

文●松村 洋 写真●喜瀬守昭 

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 三線が柔らかく鳴り、沖縄の代表的な叙情歌「ナークニー」が始まる。思いのままに歌う誠小(せーぐわー)。情感豊かに歌い返す美佐子。悠々たる二人の歌が薫る。
 よどみなく、ゆったりと歌が流れてゆく。さり気なく揺るぎない「カイサレー」の落ち着いた掛け合いには、芸歴半世紀を優に越えた両人ならではの味わいがある。この歌の合間には、特徴的な三線の短い下降フレーズが差し挟まれる。誠小独得の、ちょっとお茶目な指の遊びだ。
 沖縄本島東部、平安座島(へんざじま)の若者たちを歌った「伊計離(いちはな)り節」からは、のどかな昔の沖縄の情景が浮かんでくる。島の昔の暮らしはどうだったのだろうと、想像がふくらむ。
 誠小こと登川誠仁と大城美佐子。沖縄民謡界の重鎮二人が共演したアルバム『デュエット』が完成した。沖縄民謡ファンにはおなじみの歌が並び、二人の歌三線を、よなは徹の太鼓が控えめにサポートしている。
 誠小の声と節回しに、若い頃の強烈な勢いや切れ味はない。だが、それは当年とって満80歳という年齢を考えれば当然のことで、今はゴーイング・マイ・ウェイの飄々たる風格が漂う。そんな歌を、歳下の美佐子が細やかな気配りで支え、どの歌にも緩みがない。大胆な解釈やアレンジなど、とんがったところはないが、落ち着いたオーソドックスな歌と演奏をじっくり味わえる。さすがと言うべき、両ベテランの堂々たる民謡集である。
 沖縄には、男女掛け合い歌の長い歴史がある。日が暮れると村の若い男女が集まって即興で歌を掛け合う〈毛遊び〉という風習が、昭和初期まで残っていた。また大正期から昭和前期頃にかけては、民謡のメロディーをふんだんに取り入れた沖縄独自の〈歌劇〉が大衆の人気を集め、男女が想いを交わす劇中歌がヒットした。だから沖縄では男女の掛け合い歌が、たくさん親しまれてきた。それはヤマト各地の民謡と異なる沖縄民謡の特徴のひとつと言える。ところが、登川誠仁と大城美佐子の掛け合いによる本格的なレコーディングは、何と今回が初めてだという。
 元来、沖縄民謡は歌のキーが定まっておらず、歌い手の声域に合わせて自由な高さで歌われた。また、もともと楽譜がなく、地域による違いや本人の個性によって、同じ歌にもさまざまな差異が生じた。だから、掛け合いでお互いに合わせやすい相手、合わせにくい相手がいる。もちろん、ただ掛け合うだけなら誰でもよいのだが、プロが観賞用の作品を仕上げるとなれば、自ずと相手を選ばなければならない。

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 大城美佐子は嘉手苅林昌(1920~99)との名コンビで知られた。だが、これまで誠小とのきちんとした共演録音がなかったということは、この両人の歌い手としての相性は、あまり良くないということなのかもしれない。とすれば、選曲や実際の演奏は、相当慎重に行われたはずである。
 レコーディングは本年(2012年)6月、沖縄市で行われた。アルバムに添えられた高橋久未子のライナーノーツによれば、スタジオで誠小が大事にしていたのは「昔の人が作った通りに歌えるかどうか」ということだったという。ここには、古い歌のかたちを正確に残して、若い世代に手渡したいという意識が見て取れる。それは、民謡の古いかたちがすでに相当崩れてしまった今、正確な音を残しておかなければ歌が後世にちゃんと伝わらない、という危機感を反映した姿勢だと思われる。
 たしかにこのアルバムは、歌三線を学ぶ若い世代にとって、よい手本になるだろう。だが、歌っている両人は、もっぱらレコードに頼って歌を学んだわけではなかった。
 誠小は『登川誠仁自伝 オキナワをうたう』(藤田正構成・新潮社)の中で「私は毛遊びを見て育ちました」と言っている。毛遊びは、教育者をはじめお堅い筋から見れば〝不純異性交際〟であり、堂々とやるようなものではなかった。また歌三線に夢中になると仕事をしなくなると考えた親たちは、子が芸事に手を染めることに反対した。それでも誠仁少年は、毛遊びにまだ参加できない10歳以前から、こっそり隠れて毛遊びの歌を観察し、三線を憶えた。戦後、誠小は板良敷朝賢(いたらしき ちょうけん)という師匠のもとで、きちんと歌三線を学ぶのだが、それ以前に、毛遊びによって歌に対する感覚の素地が作られた。毛遊びをとおして、歌の土台のようなものが伝えられていたのだ。

 大城美佐子の場合は、祖父や伯父が宮廷系の琉球古典を演奏していたため、幼少の頃から三線の音になじんでいたようだ。やがて彼女も、周囲のおとなたちを真似て歌い、親に隠れて三味線を弾くようになった。また、どんなに叱られても、村遊びや巡業の芝居を熱心に観た。舞台で歌われる歌を憶えるまで、隠れて聴き続けたという。
 そうして自然に歌の素地ができた後、彼女は知名定繁に師事した。だが、じつは師匠と向き合って教わったことなど一度もなかったという。教わるのではなく、自分で盗めということだったらしい。
 アルバム末尾に収められている「ハリクヤマク」の歌い出しに、こんな歌詞がある。

女 ハリクヤマク 知らんしや 知らんしや
  寄(よ)て来(く)うかん来(く)う 我(わ)ん習(なら)さ
(「ハリクヤマク」という歌を知らなかったら
  来なさい。私が教えてあげよう)
男 余所(ゆす)から習ゆる我(わ)ねあらん 我ねあらん
  遊(あし)びにふりてど 我ね来(き)ゃしが
  踊(うどう)いにふりてど 我ね来ゃしが
(他人から教わるような私ではない。
 遊びに惹かれて 踊りに惹かれて 私は来たのさ)

 民謡は習うものではなく、惹かれて勝手に憶えるものだった。かつては、歌を盗んで憶えられる環境が存在し、習わなくても身に付くことがけっこうあった。誰かに師事する以前に、暮らしの中で歌の素地が培われた。だが、毛遊びもなく沖縄歌劇も衰退した今は、そのような歌の環境が大幅に失われてしまった。代わりに工工四(くんくんしー)という楽譜とCDなどに頼って歌三線を稽古するようになった。そうした環境の変化は必然的に歌に現れる。
 そのひとつが、方言の発音だ。どんなに正確にメロディーを歌っても、ニュアンス豊かな方言の響きを欠くと、歌に濃厚な香りが出ない。だが今、沖縄で昔ながらの方言を使って暮らしている若者など、まずいないはずだ。そういう若い世代が歌う古い歌の言葉の響きは、先行世代のそれとずいぶん違う。
 習う前に歌の素地が養われるような環境が失われた結果、歌の香りが薄くなったように感じられる。それは仕方のないことではある。暮らしが変われば、民謡も変わらざるを得ない。しかも社会の変化は速く、衰弱消滅の一途をたどる文化は多い。だが、文化は自ら勝手に消滅したりはしない。それは、人間が捨てるから消滅するのだ。

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 1879(明治12)年に琉球王国が終焉を迎えて以降、新たに置かれた沖縄県は、ヤマトへの同化を強いられ続けた。〈アメリカ世〉を経て〝祖国復帰〟した後の沖縄は「本土並み」を合い言葉に、ヤマトの後を追って開発の道を突き進んだ。そうした歴史の中で、沖縄固有の文化は沖縄の〝後進性〟を如実に表しているものと見なされた。沖縄方言は汚い言葉で、沖縄民謡は古臭く、つまらないものという考え方が広まった。
 風向きが大きく変わったのは、90年代だ。東京で沖縄音楽が注目され、沖縄音楽ブームが起こった。2000年代に入ると、テレビドラマ『ちゅらさん』の大ヒットで、全国的に沖縄が持てはやされるようになった。こうしたブームは、沖縄の若い世代のヤマトに対する劣等感を払拭した。しかし、すでに沖縄の若者たちは古い沖縄民謡の歌詞をよく理解できず、民謡を自然に吸収して身につけられるような文化環境も大幅に失われていた。
 新世代は旧世代のようには歌えない。その代わり、若い世代は過去の音楽を参照しながら、新しい時代の沖縄音楽を創っていくはずである。それはそれで価値があるが、では古い歌はどうなるのか。結局「昔の人が作った通り」の歌は、録音媒体の中にしか残らないのかもしれない。

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 アルバム『デュエット』を聴いて、戦前生まれの人は凄いなあ、と感心する。同時に、かつて沖縄では、なぜこれほど濃厚な歌が育まれたのか、なぜ今はそうした文化環境が失われてしまったのかと思う。
 簡単に言えば、沖縄の歌の香りが薄れてきたのは、沖縄の社会と文化がヤマト化した結果だろう。だとすれば、社会・文化全般のヤマト化を止めずに、沖縄の歌の沖縄らしさだけを守ることなどできない。歌の継承とは、個々の歌の形を学んで受け継ぐだけでなく、豊かな歌文化を生んだ沖縄ならではの暮らしを新たなかたちで継承することであるだろう。沖縄の歌を継承するには、沖縄が沖縄であり続けることが必要なのだ。
 現在、沖縄とヤマトの関係は、たぶん〝復帰〟後、最悪である。ヤマトに何もかも合わせていると、とんでもないことになる。沖縄の近現代史は、ヤマトによる差別的な扱いの繰り返しだった。だから沖縄の課題は、さまざまな面でのヤマト志向からの訣別、ヤマトからの自立である。沖縄人の間では、そういう意識が強まっているように見える。
 沖縄は沖縄であることを、やめるわけにはいかない。ウチナーは、ウチナーの道を進むのがいちばんだ。「昔の人が作った通り」の『デュエット』は今、若い世代に、そう語り掛けているように聞こえる。当然、沖縄には良い面も悪い面もあったし、今もある。そのどちらも含めて、とにかく沖縄は沖縄であれ。沖縄度100パーセントのこのアルバムは、そういうメッセージを穏やかに、だが強力に発しているように思われる。

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登川誠仁&大城美佐子『デュエット』(RES-217)
沖縄民謡界の最高峰、登川誠仁と大城美佐子の共演盤。
まさに歴史に残る一枚。島太鼓と指笛には、よなは徹が参加。

(月刊ラティーナ2012年10月号掲載)


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