見出し画像

[2021.04]日本のラテンシーンを作ってきた人たち〜ラテン音楽編《後編》〜

文●岡本郁生

《前編》《中編》はこちら↓

 本エントリーは、4/13(火)までは無料でお読みいただけます。4/14(水)からは、有料定期購読会員の方が読める記事になります。定期購読はこちらから。
※《中編》で書いたオルケスタ246結成の経緯について、石山実(現:実穂)さんからご指摘をいただきました。
 青山『ロブロイ』で松岡直也さんとセッションを始めたときのパーカッションは石山さん、斎藤不二男さん、ラリー寿永さんでしたが、やがて、石山さんと斎藤さんが脱退し、ソンの楽団で活動。それが発展して77~78年はじめごろにオルケスタ246になったとのこと。納見義徳さんはあとから加入したそうです。訂正いたします。

 1979年に来日したラテン・パーカッション・ジャズ・アンサンブルは、ある意味で、ファニア・オール・スターズ以上に日本人ミュージシャンたちに影響を与えたといえる。

 ファニア・オール・スターズが来日した1976年、日本人はサルサについてまだほとんど何も知らなかった。しかし、この来日に刺激されて、さまざまな人たちが “新しいラテン音楽” としてのサルサに注目しそれを目指した。それはミュージシャンだけでなく、音楽ファンたちも同様である。その中で、オルケスタ246やオルケスタ・デル・ソル、松岡直也のグループなどが活動を開始する。

「変な話ですけど、ぼくがキューバ音楽だと信じていたのはじつはニューヨーク・ラテンだったんです。だって、ティト・プエンテだってニューヨーク生まれでニューヨークで育った人ですから」と松岡自身が語っているとおり(『中南米音楽』1983年2月号)、彼のように長年に渡ってラテン音楽を極めてきた人でさえ、この1970年代後半という時点に至ってようやく、キューバ音楽とサルサ(ニューヨーク・ラテン)との違いと関係性をしっかりと理解したのだった。

松岡直也_5

写真:松岡直也

 戦前のルンバ・ブームから始まり、戦後のマンボ、チャチャチャのブームを経て、ダンスホール~キャバレーといった大人の世界の中で人気を確立してきたラテン音楽は、その過程で、いわゆる芸能界へとつながる世界を醸成し、ラテン音楽を日本なりに解釈し換骨奪胎する中で独特の歌謡曲をも生み出すことになった。しかし、そこで語られるラテン音楽とは、常にキューバ音楽……しかも1950年代までの……でありメキシコ音楽だったといえる。そこにニューヨークという場所が入り込む余地はなかった。しかし、1970年代、晴天の霹靂のように現れたサルサが、ニューヨーク・ラテンという概念を一気に浮上させたのである。

続きをみるには

残り 4,780字 / 7画像

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…