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[2019.11]Adeus, nossa Praça Onze, adeus!!! 日本の《プラッサ・オンゼ》38年史を辿る ― 2019年11月末をもって幕を閉じる、ブラジル音楽の拠点へ捧げるオマージュ― 第2回

文●佐藤由美/写真●湯田義雄

text by YUMI SATO / photo by YOSHIO YUDA

本稿は、月刊ラティーナ2019年11月号に掲載されたものです。佐藤由美さんと湯田義雄のご協力で e-magazine LATINA に再掲させていただきました。

 前号で、《プラッサ・オンゼ》は81年10月に店を構え、12月18日オープンという時間差について触れた。無計画の指摘もあながち間違いではないが、どうやら正規の開店準備を進めていたようだ。〝元祖ウェイター〟を自認するパーカッショニストの証言がある。

 ヤヒロトモヒロ(八尋知洋)は、上智大・中南米研究会で1年先輩の土屋聖二を介して浅田カメラマンと知己を得、すぐさま遊興アブリュー・バンド(オンサ・ヂ・アブリューともいう)の助っ人に駆り出される。一時は奥田兄弟のアパートに半居候状態。そのうち店を開く話が浮上し、初代バイトの長身ドイツ系ブラジル人パウロ・ベルワンゲルとともに、内装工事段階から手伝っていたそうだ。またオープン後には、下働きを終えて居残りさせてもらい、朝まで独り楽器練習に励むこともしばしばだったらしい。プロ仕様の高価な打楽器類を備える地下の自主トレ空間と食事が、若かった学生の彼をどれほど助けたことだろう。

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ほとんど三兄弟、左からヤヒロトモヒロ~奥田淳夫~おどける奥田芳夫

 看板オーナーで企画人の浅田英了(本名英夫)、厨房を兄の奥田芳夫、カウンターを弟の奥田淳夫が担当した。遊び最優先の享楽主義チームと見えながら、彼らはある種の使命を直感していたのかも知れない。

 当時、芸大サンバはじめ各大学にブラジル音楽を志す集団が芽生えていた。《プラッサ・オンゼ》の日曜・祝日は、そんな学生らを後押ししていたという。パンデイロ奏者の西村誠は、こう述懐する。「店を借りる際、学生からは使用料を取らず、千円のワンドリンク付きチケットを売りさばくだけでよかった。PAや機材を自由に使える、本当にありがたいシステムだった」と。早稲田大・ラテンアメリカ協会音楽部門所属の西村は、ヤヒロの卒業後、厨房バイトを2年近く勤めている。

 未来を見越し、個を育てる先見の明。結果、現シーンで活躍する多彩なミュージシャンが、次々ここから巣立って行ったわけだ。

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パウリーニョ・ダ・ヴィオラと店主・浅田英了

 84年初め、次世代ハコ・バンドが結成される。リアルタイムのサンバやショーロに挑む〝オス・パゴデイロス・ダ・プラッサ〟。中心メンバーは笹子重治(g)、井上満(cav)、梶川のりお(vo・パンデイロ)。ほぼコアメンバーの服部正美(ds)に、岡部洋一(ds)、佐藤元昭(b)、西村誠(サンバ打楽器)らが交替で参加。彼らの力量は心強い存在だった。

 プラッサ・オンゼ&ラティーナ共同主催で東京公演を仕切り、全国の有志と作り上げたツアーは、日本人ミュージシャンにとってまたとない腕試しの好機となる。85年6月、ナラ・レオン&カメラータ・カリオカが、つくば科学万博の大ステージに登場。スピック&スパンとパゴデイロスが前座を務めた。翌86年6月には、サンバの貴公子パウリーニョ・ダ・ヴィオラが初来日。パウリーニョ直々の提案により、父セザル・ファリア(g)、セウシーニョ(パンデイロ)をサポートする形で、笹子、梶川、井上、岡部が都内のステージに立った。こうなればもう、当店でのアフター・セッションが盛り上がらぬはずはない。

 面白い逸話もある。店内がトレンディドラマの舞台に使われ、サンバを踊る主人公(坂口良子と萩原流行)の背後に、ちらとパゴデイロスの姿が…… うむ、そんな時代だったな。

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オス・パゴデイロス、左から梶川のりお~井上満~笹子重治、
右端はセザル・ファリア

 86年8月以降、パゴデイロス専属の形式は崩れ、彼らは個々のフィールドへと活動の幅を広げていく。店には曜日ごと、中村善郎、賀来まさえ(旧コンボ・トウシュー)、加々美淳&シャカラ、森本タケルらが出演。

 87年4月、ブラジル人中心のトリオがレギュラーを張る。パウリーニョ(key)、エドゥ→アゼイトーナ(b)、テキーラ→ナーミ(ds)……懐かしい。89年以降、さらに八尋洋一→古屋栄悦(b)、久米雅之→黒田清高(ds)といったミュージシャンも加勢。トニー(vo)、キコ(g)、パウロ(cav)、グアルコ(key)の名に親しみを覚える向きもあるだろう。

 が、快進撃を続ける《プラッサ・オンゼ》に、悲しい事件が起こった。87年8月29日、バイク通勤中の奥田淳夫氏(あっちゃん)が交通事故で命を落としたのだ。奇しくも浅草サンバ・カーニバル当日の夕方…… 訃報を聞き、多くのサンバ・ファンが店に駆けつけた。

 80年代末~90年代初め、光栄にも店は素晴らしい客人の訪問を受ける。フンド・ヂ・キンタル、メストリ・マルサル、ギリェルミ・ヂ・ブリート、ネルソン・サルジェント、モナルコ…… サンバ史に名を刻む錚々たる顔ぶれ! 彼らは皆、「リオの歴史的広場からサンバが消えても、東京には《プラッサ・オンゼ》がある」と、その感慨を口にしたものだ。

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後の快進撃を予感させる、バランサ初出演の夜
(93年10月11日/写真提供:DEN)

 93年6月、斉藤みゆき(vo)、阿部浩二(g)、服部正美(per)、黒田清高(ds)他の新バンドが、サンバやバイーア・サウンドを響かせた。そして同年10月11日、日本に撒かれたパゴーヂの種から大輪の花が咲く。後にリオのサンバ界を騒がせる〝バランサ・マス・ナン・カイ〟が、当店で初パフォーマンスを披露。早速、バランサの定期出演が決定……。

 ところが、またもや店は不幸に見舞われる。オーナー浅田英了氏が取材半ばの機中、10月22日にブラジル上空で帰らぬ人となったのだ。生前の約束を守るべく、葬儀で一同が合唱したのは、彼がこよなく愛した涙のマルシャ・ハンショ「アス・パストリーニャス」だった。 (次号に続く)

(月刊ラティーナ 2019年11月号掲載)


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