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[2020.09]ピアソラの音楽を支えた至高のバイオリニスト、フェルナンド・スアレス・パス逝く!


文●本田健治 texto por KENJI HONDA

 先週の土曜日(9月12日)ブエノスアイレスから悲報が届いた。アルゼンチンの音楽界でもっとも高い評価を受けていたバイオリン奏者のフェルナンド・スアレス・パスが亡くなった。エンリケ・M・フランチーニ、アントニオ・アグリに並んで、クラシック、タンゴの領域を問わず、いつも最高の舞台で活躍してきた巨匠の一人だった。日本でも特にタンゴ界での名声はトップクラスで、ブエノスアイレスまで、彼に教えに乞いたい世界のバイオリニストは後を絶たず、多忙な来日中でも1時間でも彼の講習を受けたいと言う若いバイオリニストで溢れていた。

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 フェルナンド・スアレス・パスは、1941年1月1日、ブエノスアイレス州西部のラモス・メヒアという商業街に生まれ、5歳の時、父からもらい受けたバイオリンで演奏しはじめた。最初はLRA州立ラジオ青少年交響楽団、国立交響楽団、ブエノスアイレス・フィルハーモニー管弦楽団と、クラシックの世界で順調に滑り出して、アカデミックな世界で頭角をあらわした。実は14才の頃から,様々なコンクルーで優勝を続け、タンゴの沢山の楽団からも誘われていたらしい。アルゼンチンの識者の間では、クラシック界での評判があまりにも素晴らしかったために、当初は、タンゴの演奏にはあまり乗り気ではなく、18才の時にタンゴ界のスーパースターだったトロイロに誘われて入団したのが最初だったという。以降、フランチーニ、トリポディ、ティティ・ロッシ、サルガン、ミゲル・カロ、ペドロ・ライレンス、トロイロ、モーレス、スタンポーネ、フェデリコ、マルコーニ、ベリンジェリ、ら、どれも音楽的にレベルの高い楽団に誘われて演奏してきた。今では、クラシック、タンゴの両方に精通した人気バイオリニストとして「エルビーノ・バルダーロのレッスンをもっとも知的に解釈したバイオリン奏者であり、エンリケ・マリオ・フランチーニの無条件の支持者であった」と識者が口を揃えるとおり、二人の天才バイオリニストの優れた後継者だった。

  1960年代の中頃、ルイス・スターソが立ち上げた「ロス・シエテ・デル・タンゴ」のバイオリン・ソリストとして加わった。そして、73年からはスターソとホセ・リベルテーラが主導して結成された歴史的六重奏「セステート・マジョール」に参加。この頃から、彼はすでにマジョール以外の仕事で、沢山の録音からも声がかかって様々な楽団でも録音を残してきたが、78年に加入したピアソラの「キンテート・ヌエボ」にバイオリンニストとして名を連ねたことが,世界的に彼の名声を決定的にしたと言っても良いだろう。ピアソラは、スアレス・パスの獲得に成功した後、解散までの10年間に18枚のアルバムを録音し,その間にパスのために「エスクアロ」と言う名曲も残してもいる。

Escualo -3- ASTOR PIAZZOLLA y su Quinteto Tango Nuevo -live in Utrecht (1984) 

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 ピアソラ初来日の82年、このスアレス・パスとコントラバスのエクトル・コンソーレと会場に向かう同じ車の中で、大のピアソラ信者だった筆者に「お前はピアソラのタンゴをどう思う?」と聞いてきた。当時はタンゴと言うよりも圧倒的にピアソラの信者だった私にはその真意がわからなかった。で「???私にとっては最高のタンゴ!」と応えたら、「タンゴはピアソラだけではないんだよ、いろんなタンゴを聴いた方が良い」と教えられた。そのずっと後、ピアソラが逝ってから少し後にブエノスアイレスで、パスがタンゴの幅広いレパートリ、もちろんピアソラ・ナンバーも含めて、情感たっぷり、縦横無尽に演奏する姿に呆然。もの凄い演奏だった。それに似た体験はアントニオ・アグリがピアソラ後に演奏したのを聴いた時も同様だった。ピアソラは、ピアソラの素晴らしい作品を譜面にかなり厳格に、ピッチに対しても非常に厳格に要求するアーティストだった。パスにも、アグリにも然り...しかし、パス、アグリのクラスになるとピアソラとの活動を通じて、世界的なステージではかなり厳格な演奏が必要と言うことも勉強し、感謝はたくさんしたけれど、たまにはパッション溢れる演奏もタンゴには必要と言いたかったんだと、その時推測した。「世界的にもし私の名が知られていたとしたら、それはピアソラのお陰」と言うとおり、彼はピアソラには最大限の謝意と敬意を持っていたが、確かに,このクラスの巨匠たちが他のタンゴ演奏で、登り詰めるくらいにイッてしまった時のタンゴの演奏も凄い。勝手に勉強させて頂いた。

 さて、ピアソラ後もパスは明日のタンゴ界のために、いろいろな活動もしてきている。特筆されるべきは、ピアノのマエストロ、レケーナと、バンドネオンのマエストロ、ダイエル・ビネリ、バイオリンのスアレス・パスが組んで、サンテルモ地区のレストラン・シアターで発表した「ジャスミン」というショーである。このショーは、アルゼンチンの(タンゴの範疇ではなく、コロン劇場の舞踏振付をはじめ、一般的なステージ芸術の)著名な振付家マリア・ステッケルマンと、タンゴ・ダンスのミゲル・アンヘル・ソトが創り上げたもの凄いショーで、このブームが落ち着きはじめて、ミゲルがこのショーを元に発表したのが、後に世界中でヒットして、日本でも絶賛されることになった「タンゴ・ポル・ドス」だ。音楽家も,歌手も、もちろんダンサーも「名前だけではなく,超一流のスタッフ8人(楽団3,歌手1,ダンス2組)」による最高のショー、が合い言葉だった。4人のダンサーの全員が超早変わりを随所に織り込んで、スピード感たっぷりにストーリーを展開していく。強烈なショーに世界は打ちのめされた。後に日本にやってきた「ポル・ドス」は、すでにスタッフの数が増え、実はコンセプトも変わって、魅力的にはやや半減したものだったが、「ジャスミン」のアイデアは、まだ生かされていた。

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  2009年には、このレケーナ=パスの日本公演ショーを成功させた。もっと規模の大きなものだったが、基礎は「ジャスミン」だ。これにフォルクローレのダンサーでボレアドールの達人を含む3組に、レケーナ=パスがロサリオで「発見」した歌手のベロニカ・マルチェッティも参加。将来のある若手を起用した素晴らしいものになった。ベロニカは相変わらず,ロサリオで活動しているが、実力は益々凄みを増してきている。もちろん、レケーナとパスのドゥオでの「ロス・マレアードス」は逸品だった。が、この年、実は全国公演途中で2度ほどスアレス・パスは体調を崩して、ステージから離れたことがあった。大事には至らなかったが、この頃から少しづつ彼の身体には異変があったという。その後何回か連絡して,元気そうだったので、2013年、このタンゴシリーズの記念の年だったので、パスを中心にした大編成のオケを考えて相談したが、最終的に健康の問題もあったのだろう、適わなかった。ピアソラ没後少し経って、彼はキンテートでピアソラの録音を2枚残したほか、アサド兄弟との名演も遺している。2017年からは音楽活動の表舞台から身を引いたが、その直前、彼の音楽活動の集大成としてブエノスアイレスのCCKで、バイオリニストでアル息子のレオナルド・スアレス・パスとピアソラに捧ぐコンサートを開催した。レオナルドは,ニューヨークで研鑽を積んでいたが、やはり世界を飛び回るバイオリニストに成長している。

▲Adios Nonino -4- ASTOR PIAZZOLLA y su Quinteto Tango Nuevo -live in Utrecht (1984)

 アルゼンチンからの報せによると、誰からも「ネグロ」(アルゼンチンのスラングで風貌が南米独特の素晴らしい人間を親しみを込めて呼ぶ)の愛称で親しまれていた天才バイオリニスト、スアレス・パスは、何度かの、時間を費やして闘ってきた癌の合併症が原因で,入院中のトリニダード・ピラール病院で息を引き取った。享年79才。本来ならば、多くの国民の惜別を受けるところだが、このCovid19のせいで、そのキャリアに相応しい別れの挨拶が受けられそうにない、とある。せめて、遠い地球の裏側からから手を合わせたい......合掌。

本田健治●プロフィール
 (株)ラティーナ代表取締役・社長

(ラティーナ2020年9月)


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