[2021.12]【連載 アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い⑫】サンバの殿堂の丘に登ったジョビンのピアノ- O piano na Mangueira
文と訳詞●中村 安志 texto e tradução por Yasushi Nakamura
※こちらの記事は、12/22(水)からは、有料定期購読会員の方が読める記事になります。定期購読はこちらから。
中村安志氏の「アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い」、「シコ・ブアルキの作品との出会い」の2連載を交互にアップしています。ブラジルで最も人気も高い2人の音楽家の作品を、外交官としてブラジルに長く滞在した中村安志氏が曲の成り立ちから、社会的背景に至るまで詳しく解説。ブラジル音楽を更に深く聴くための人気連載です。今回は、ジョビンの作品。
1994年12月に米国滞在中に生涯を閉じることになるジョビンは、晩年、生まれ故郷のブラジルで注目を浴びる機会が比較的多く、その2年半ほど前となる92年のリオのカーニバルにおいて、古き伝統を誇るチーム「マンゲイラ」の特別ゲストとして招かれ、ジョビンを讃える物語を掲げたパレードの主役となり、大きな山車の頂上で観衆の喝采を浴びました。(このカーニバルを会場で見る機会に恵まれた私は、幸運です。)
内外での長い実績と名声からすれば当然とも言える華の舞台ですが、マンゲイラのチームは、このカーニバルの前年ジョビンに対し、内々「あなたを讃えるパレードを企画している」と伝え、これに対しジョビンは、盟友シコ・ブアルキとの共作でマンゲイラへの讃歌を制作するという返礼を行いました。マンゲイラのパレードのタイトルは、ジョビンが事実上世に大きく出るきっかけとなった、映画「黒いオルフェ」の原作となる演劇「コンセイサンのオルフェ」のために作ったうち最も有名な曲の1つ、 Se todos fossem iguais a você(この世のすべてが君と同じだったら)でした。
ジョビンがマンゲイラに捧げたのは、「マンゲイラのピアノ」(Piano na Mangueira)という歌。「ピアノをマンゲイラの丘の上に登らせるよう指示した」という歌詞のとおり、実際にマンゲイラのスラム街の中でピアノ演奏もすることになりましたが、黒人の産んだ音楽と位置付けられるサンバのいわば正反対側となる白人中心の文化とされるボサノヴァの旗手とみられてきたジョビンが、スラムの文化とコラボに応じたことには、違和感を指摘する向きもありました。
しかし、社会の恵まれない層への眼差しを絶やさず社会に発信するシコ・ブアルキとも深い協力関係にあるジョビンは、一定の仲間とともに、こうした社会に思いを寄せていたことがわかっています。特に、オルフェの音楽が成功してしばらく後となる1963年、ヴィニシウスの歌詞にジョビンが曲をつけ完成した「O morro não tem vez (スラムの丘には出番などない)」という歌は、黒人サンバ歌手のジャイル・ロドリゲスの声で大ヒットし、音楽を通じ格差社会についての問題意識を投げかける大きな節目となりました。(ジョビン自身のアルバムでは、『Antonio Carlos Jobim, Composer of Desafinado』というLPに収録されています。)
また、ジャイルが白人女性歌手エリス・レジーナと一緒に歌い踊る姿には、活気ある黒人・白人コンビが合唱し融和するイメージがあり、テレビで何度も放映され、絶賛を浴びました。この時代から30年近く経過した頃にリオで生活した私も、このコンビを物真似する子供2人が歌う懐メロショーのような番組を何度も目にし、この曲の存在感を感じました。
この歌のタイトルに掲げられる「スラムの丘(で暮らす人)には出番などない」という表現は、これだけを切り取れば、経済発展の裏でどんどんと貧富の格差が拡大するリオの社会を悲観する印象一色に見えますが、歌詞はその後に「でも、ひとたび丘の連中に出番を与えたら、街全体が歌いだす」として、スラム街に暮らす人々の文化の底力を高く認める内容になっています。そう、ジョビンは、マンゲイラから栄誉を与えられるよりもほぼ30年前に、既にスラムの人々を讃える作品を世に出していたのです。
高度成長の裏で、年々増え続けていったリオのスラム街は、内部に巣食う組織犯罪をはじめ、リオ社会の根深い問題ですが、文化面では特別な敬意をもって見られています。中でも、ボサノヴァ全盛期にも、ソフトな声で人々を魅了した女性歌手ナラ・レオンは、白人富裕層出身で、コパカバーナの高級アパートに住みながらも、スラム街(ファヴェーラ)のサンバの担い手であるネルソン・サルジェントらを自宅に招き、彼らの歌を広める活動をしました。
ナラは、1964年に、ジョアン・ド・ヴァーレ、ゼー・ケチなどのスラム街の精鋭サンバ歌手とともに、リオ市内の劇場で「Opinião(物申す)」と題するショーを展開。社会に大きな波紋を呼んだこの運動は、ブラジルにおいて現代ポピュラー音楽史における重要イベントとされています。
↑ショーOpiniãoを収録したレコードのジャケット。優雅なボサノヴァ歌手と受け止められることの多いナラ・レオンであるが、彼女は、スラム街のサンバの担い手たちと共演する活動を通じ、格差社会について世に問いかける運動を展開した活動家でもあった。87年に来日公演後、会場外でふと言葉を交わす幸運に恵まれたが、その頃も、音楽療法で人を癒す活動にものすごく力を入れていると述べていたのが印象的。
ナラのほかにも、ボサノヴァの旗手の1人カルロス・リラなど複数のアーティストが、こうしたスラム街の文化を積極的にとりあげる動きを推進していました。詩人ヴィニシウスはその仲間であり、ジョビンは、そのヴィニシウスが歌詞を書いた「O morro não tem vez」の作曲をしたという訳です。
50年代のジョビンは、イパネマやレブロンといった南部の豊かな地域で暮らす白人層に属しながらも、決して高収入ではなく、それこそボサノヴァがヒットする以前は、夜の店でピアノを演奏し、家賃をなんとか稼ぐ身であったと伝えられます。1956年、演劇「コンセイサンのオルフェ」の音楽担当の話を突如持ちかけられ、ヴィニシウスに面会した時、「この仕事には、結構なお金が出るのか?」と、思わず仲介者にたずねたという話は有名です。
マンゲイラの丘にジョビンのピアノが登ったという話は、ブラジル社会で有数の美談とも受け止められています。この歌の歌詞をジョビンとシコが手書きした当初のメモが、最近になって競売にかけられ、6千ドルで落札されたというニュースもありました。没後早くも25年を迎えようとしているジョビンですが、その名は廃れることなく、多くの人に愛され続けているのです。
著者プロフィール●音楽大好き。自らもスペインの名工ベルナベ作10弦ギターを奏でる外交官。通算7年半駐在したブラジルで1992年国連地球サミット、2016年リオ五輪などに従事。その他ベルギーに2年余、昨年まで米国ボストンに3年半駐在。Bで始まる場所ばかりなのは、ただの偶然とのこと。ちなみに、中村氏は、あのブラジル音楽、ジャズフルート奏者、城戸夕果さんの夫君でもありますよ。
(ラティーナ2021年12月)
#ボサノバ
#ボサノヴァ
#ラティーナ
#アントニオ・カルロス・ジョビン
#中村安志
#ナラ・レオン
#ラティーナ2021年12月
#トム・ジョビン
#OpianonaMangueira
#マンゲイラ
#サンバ
#音楽
#ブラジル音楽
ここから先は
世界の音楽情報誌「ラティーナ」
「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…