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[2017.07]【連載 TÚ SOLO TÚ #207】80歳を超えたエディ・パルミエリ 最新アルバムを発表し、7月に来日公演決定!

文●岡本郁生

 エディ・パルミエリに初めて直接会ったのは、確か1992年のこと。彼自身、そのときが初来日だったはずで、昭和女子大学の人見記念講堂でのコンサートの熱気はいまでも思い出すことができる。ティンバレスはホセ・クラウセル、コンガはリッチー・フローレス、ベースはジョニー・トーレスだったか? 筆者が制作を担当していたFMの番組にゲスト出演していただき、一緒に写真も撮っていただいたのだが、それからもう25年も経ってしまったのか……。筆者もいまでは、当時の彼の年齢を超えてしまった。

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 いやいや、そんなセンチメンタルな感情に浸っているヒマはない。昨年暮れ、12月15日に80歳を迎えたエディ・パルミエリ…… 思わず“師匠”とか“先生”とか呼びたくなってしまうが…… なのだが、彼は休むということをまったく知らないようである。実は、ラテンの世界ではなぜか、77歳ぐらいで亡くなってしまう方がとても多い。ティト・プエンテも、セリア・クルスも、ジョー・クーバもそう。ジミー・サバテールは76歳、チェオ・フェリシアーノは78歳だった。そんなわけで、密かに心配していたのだが、彼は見事に80歳の壁を越えた! そして、この4月には、最新アルバム『ウィズダム/サビドゥリア』を発表。さらに、7月にはブルーノート東京での来日公演(7月10〜13日)が予定されているのだ。いうまでもないが、この最新アルバムには、80歳だからといって“枯れた”ような部分はまったくない。こういう紋切り型の表現もどうかとは思うが、ひとことでいうなら、“凄まじい”内容のアルバムである、と思う。

 さて、筆者が彼に初めて会った1992年ごろといえば、エディ・パルミエリにとっては、それほど恵まれた時期ではなかった。

 1962年、ラ・ペルフェクタを率いてデビューして以来、ラテン界をつねに牽引してきたパルミエリ……。キューバ革命のあおりを受けて試行錯誤を繰り返していた60年代のニューヨークで確実に自分の音楽を作り上げていった彼は、70年ごろからは、『バモノス・パル・モンテ』など、社会問題に目を向けた問題作を次々に発表。一方で『ハーレム・リヴァー・ドライヴ』など、ジャズやR&Bとラテン音楽のジャンルを積極的に越えようとするさまざまな音楽的試みを継続しながら傑作アルバムを立て続けにリリースし、『ザ・サン・オヴ・ラテン・ミュージック』(74年)では、創設されたばかりのグラミー賞ラテン部門を受賞している。その後、異色作『ルクミ、マクンバ、ヴードゥー』(78年)を経て80年代に突入するわけだが、ヒップヒップやクラブ・ミュージックの隆盛によってニューヨーク・ラテン界が迷走するようになっていったこの時期は、エディ・パルミエリにとってもある意味で試練のときだったといえるだろう。

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