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[2020.08]【TOKIKOの 地球曼荼羅①】ロシアの歴史から生まれた歌

文●加藤登紀子

 生まれた時からロシア音楽があった!
 それが私とロシアの歌との深い深い縁(えにし)です。
 なぜかというと、私の生まれたハルビンは、帝政ロシア時代に極東のパリという触れ込みでロシアが中国東北部に建設した美しい町で、1917年のロシア革命後にたくさんのロシア人が移住してきていました。1929年に19歳だった父はこの街の「ハルビン学院」という大学に入学、ロシア語とロシア文化を学んだのですが、なによりもロシア民謡の魅力に取り憑かれ、歌手にはならなかったけれど、死ぬまでロシアの歌を歌っているような人でした。そのDNAは、今の私の音楽の中に脈々とながれている、と感じています。

 私の歌っている「百万本のバラ」もロシアの歌、アラ・プガチョアという人気歌手が歌ってソ連で大ヒットしていた歌でした。
 1985年に兵藤ニーナさんというロシアと日本のハーフの歌手が、ロシア語と日本語で歌った「百万本のバラ」を聞いた時、日本語の歌詞がロシア語の原詞の意味と全く違っていたので、私の日本語訳で歌ってみたのが始まり。
1987年にはそのプガチョアさんを日本に招き、日比谷野外音楽堂での私のコンサートのゲストとして出演していただきました。その楽しいライブ映像が残っています。
 はじめは個人的な愛唱歌として歌っていただけなのに、35年後の今、私の代表曲になっているなんて、本当に驚きです。

登紀子XX

 この歌の主人公の画家のモデルはニコ・ピロスマニ。今ジョージアと呼ばれる国、ソ連時代はグルジアと呼ばれた国の画家です。作曲したのはラトビアのライモンズ・パウルス。もともとはラトビアの子守唄だった曲に、ボズネセンスキーという詩人が、ピロスマニをモデルにロシア語の歌詞をつけたのです。
 だからロシアの歌、と言ってもいいけれど、本当はちょっと複雑。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、91年にラトビアは独立し、ロシアもジョージアも別の国になったのですから。
 歴史が大きく変わる革命的な運命を背負った歌になったわけです。

 私が初めて歌手としてソ連公演をした1968年のコンサートの始まりがバルト三国、エストニア、ラトビア、リトアニアで、最後に行ったのがジョージアのスフミでしたから、なんだか因縁深いです。
 その時、私がロシア語で挨拶したら、迎えてくれた地元の人が、こう言いました。
 「ステージの上では、絶対にロシア語はダメ。地もとの言葉で話して下さい」
 それから行く先々でそれぞれの言葉を覚えなくてはならなくて大変でした。そのくらい周辺の共和国では、ソ連に対する反発が強かった時代。
このひとつの歌だけでも、これだけのバックグランドがある。ロシアの歌を深めていくと、否応なしに、いろんな歴史の重さや痛みに触れる事になります。

メリーXX

 メリー・ホプキンが歌った「悲しき天使」も実はロシアの歌です。
 ビートルズのポール・マッカートニーがプロデュースして英語の歌詞で歌われ、1968年ロンドンでは「ヘイ・ジュード」と同じ8月30日にリリースされ、すぐにこのヒットを追い越すほどのトップ入りをした爆発的な曲。
 私でさえその頃は知らなかったのですが、この歌はその50年も前にロシア人が作った歌だったのです。作詞はコンスタンツイン・ボドレフスキー、作曲はボリス・フォミーン、作られたのは1910年から20 年の間、ロシア革命前後と思われます。
 なぜポールがこの曲を取り上げたのか、ぜひバックグランドを知りたいところです。
 多分、革命に関わった後、スターリンの粛清の中でイギリスに亡命した芸術家の中で歌われた歌だったのでは、と私は勝手に想像しています。

「今はもう昔のこと 酒場がここにあった
夢をかたり歌って 毎日踊り明かした
終わりのない愛の日々よ 輝きあふれていた
夢のままに生きていくわ 誰にもじゃまされずに」  (加藤登紀子訳詞)

 1968年は全世界でベトナム反戦の運動が広がった年ですが、東欧でも民主化が進んだ時代。チェコで「プラハの春」と呼ばれた民主政権がソ連の戦車に踏み潰されたのを世界中が抗議した年でした。

マレーネXX

 同じ頃、アメリカで大ヒットソングになった「花はどこへ行った」という反戦歌も、実はロシアの文豪ショーロホフの「静かなドン」のなかに挿入されていたコサックの子守唄の歌詞が元になっています。ピート・シガーが手帳にメモっていた数行を膨らませて曲をつけて歌っているうちに、広がっていった歌。巡り巡って、1970年大阪万博のステージに立ったマレーネ・ディートリヒが歌っています。
 彼女はバート・バカラックとコンビを組んで世界中でこの歌を歌いました。
 イスラエルやベルリンでこの歌で戦争の悲惨さを訴え、旋風を起こしたと言われています。
 日本でもよく歌われた歌ですが、私はこの歌をやっと今、自分の日本語にして歌っています。

「どこへいったの 野に咲く花は
 遠い昔 そして今も
 野に咲く花は  少女に摘み取られた
 いつになったら 人は気付くのでしょう」

 大事な歌が何故かロシアにゆかりを持っているという私の特殊事情!持って生まれた巡り合わせには逆らえないものだな、と思います。
 中学生の時、大流行りだった「モスクワ郊外の夕べ」のロシア語の歌詞を、辞書を引きながら母と翻訳した事がありました。
 この歌が歌手以前の私の、最初の持ち歌になったと言ってもいいかな。
 当時は「うたごえ運動」があり、「カチューシャ」や「赤いサラファン」、「ともしび」や「トロイカ」など、身近な所で盛んに歌われてました。でもその身近さが、何となく照れ臭かったのと、ポピュラーになった日本語訳があまり好きじゃなかったこともあって、私がロシアの歌を歌手としてレコーディングしたのは、1971年「ロシアのすたるじい」。「知床旅情」のヒットで、やっと一人前になったかな、と思えてからでした。
 ただのロシア曲集にしたくない、私にとってのロシアへの思いにこだわって、あの有名な「カチューシャ」も、戦争に行った兵士から故郷の恋人に手紙が届く、というストーリーが伝わらなければ意味がない、と新しい日本語訳を作りました。
 ポピュラーではないけれど、特別の思いで選んだ歌がいくつかあります。
 「暗い夜(チョムナヤ・ノーチ)」は父やシベリアに抑留された人たちにとって忘れられないロシア兵士たちの愛唱歌。1943年、第二次世界大戦中のレニングラード攻防戦を描いた映画「二人の兵士」の挿入歌でしたが、あまりに厭戦的だと言うので禁じられた歌になり、深く愛され象徴的な歌になったのです。
 「サラベイ(ウグイス)」は戦後の浮浪児を描いた映画の中で、宿無しの子供達が歌った歌。父のハルビン学院の後輩、と言う人が「ぜひ歌ってよ」と日本語訳をつけて薦めてくださったのでした。
 日本との戦争でたくさんの死者を出した日露戦争の中で歌われた「満洲の丘に立ちて」も、悲惨だったシベリア出兵も重なって、広く愛されています。あの広大な原野で死を迎える男の歌「草原」も名曲。森繁久弥さんが私の訳が気に入った、とレコーディングしてくださっています。
 1968年初めてのソ連公演に時、ヒットしていた「街灯(ファナリ)」はしっとりとロマンティックなレニングラードの思い出の歌、寒い冬に路上で死んでいくブーブリチキ売りのおばちゃんの歌「ブーブリチキ」は、わがレストラン「スンガリー」でいつも流れていた懐かしい歌です。
 語られる物語は悲痛でも、たまらなく美しく、映像の浮かぶ名曲達。
 日本とロシアの交流年だった2018年、サハリン、ウラジオストックの公演でもこのいくつかを歌いました。
 私にとってロシア音楽は故郷です。

 そして、ぜひ皆さんに知って欲しいのは、ロシアは日本から一番近い外国です。
 根室の納沙布岬に立つと、色丹島の灯台がすぐそこに見えます。サハリンに飛行機で飛んでいくと、北海道の上で、降下し始めるくらい。いい関係が続くことを願わずにいられません。

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(ラティーナ2020年8月)



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