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[1990.08]秘録 見砂直照 : 東京キューバン・ボーイズ誕生の頃

文●蟹江丈夫

この記事は月刊ラティーナの1990年8月号に掲載されたものです。当時の文章をそのまま掲載いたします。
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キューバン2

 東京キューバン・ボーイズのマエストロであり、わが国ラテン界の総師でもあった見砂直照(本名、保雄)氏が1990年6月20日午後、逝去された。享年80歳であった。見砂氏は1909年(明治42年)8月30日石川県金沢市馬喰町に生まれ、中学校卒業後、東洋音楽学校に進み1934年(昭和9年)にチェロ科を卒業された。卒業後ただちにポピュラー音楽の世界に入り、伴薫のタンゴ楽団でコントラバス、チェロ、ボーカルを担当、「カンタンド」「リアチュエロ」は氏の独壇場であったという。
 見砂氏は昨年4月、私たちのささやかな夕ンゴ・ファンの集いに顔を見せてくださり、昔はタンゴ・ミュージシャンだったこと、東京キューバン・ボーイズ誕生のいきさつ、手製パーカッションを苦心して作った話などを楽しく聞かせてくださった。
 奇しくもこの日は東京キューバン・ポーイズの元パーカッショニストの小野寺昭氏の通夜でもあった。「明日葬儀に行くから今夜は夕ンゴ・ファンの皆さんに会いに来た」ということだった。そのとき分厚い書類が氏から渡された。「近い将来自伝を出版したいと思っている。ぜひ力を貸してほしい」と言ってくださった。それなのに……余りにも早くやって来てしまった永遠のお別れの日、残念至極という言葉とやりきれない寂しさがわが身に去来する昨今である。
 今、ここで私なりに手持ちの資料から余り知られていない面、見過ごされてきた情報を中心に東京キューバン・ボーイズ誕生の過程と、見砂氏の音楽家としての足跡を辿ることにより、氏のご冥福をお祈りしたいと思う。

 見砂氏のお姿を初めて目にしたのは終戦の翌年、東京・日本橋の白木劇場(現・東急百貨店内)のステージであった。出演は楽団南十字星。コントラバスを弾き、マラカスを大きなポーズで振る長身のオールバックでひときわ目立ったのが若き日の見砂氏の雄姿であった。

若いミサゴ


 曲は「城ヶ島の雨」「草津節」「ラ・クンパルシータ」「グローリア・デ・グラナダ」「安来節」「南から、南から」であった。
 ことにフィナーレの「南から」の前半がルンバで、この時の華やかな見砂氏のマラカスが今でも目に残っている。食糧難時代だっただけに、バイオリンの松田四郎さんの細いからだにズボンからベルトがハミ出していたことや、高谷輝信さんのバンドネオンがスポットライトを浴びて金具の付け根のところがキラキラ光っていたのを思い出す。
 東京・麹町の半蔵門近くにクラブ・エスカイヤというのが誕生したのが1947年(昭和22年)秋のことだった。そこのマスターは凝り性というかとにかく純粋のものを作ろうという心意気に燃えた人だった。最高の音ということで当時のスター・プレーヤーと言われた後秀な人たちを集めて楽団編成させた。ジャズがトランペットの南里文雄の楽団(のちのホット・ペッパーズ)、フランシスコ・キーコとレイモンド・コンデのグループ、早川真平とオルケスタ・ティピカ東京、それに加えて楽団クラルテというタンゴ・バンドがあった。この楽団クラルテが見砂氏を中心とした編成で、他の3楽団とともにNHKラジオに数回出演した。1回は高杉妙子の件奏楽団で出演したのを覚えている。高杉妙子が「では、クラルテの皆さんよろしくお願いします」といった声が耳に残っている。
 東京キューバン・ボーイズの母体ともいえる楽団ができたのは1949年(昭和24年)1月のことであった。当初、エスカイヤ・ルンバ・ボーイズとでもしようかという話もあったが、見砂氏の「世界的なラテン・バンド、レクオーナ・キューバン・ボーイズにあやかるように………」との強い意向で「エスカイヤ・キューバン・ボーイズ」という名にち着いた。後日談ではあるがコロムビア・レコードに録音されたJL盤の「キューバの夜」などにはコロムビア・キューバン・ボーイズ、ビクターの「リオのポポ売り」、高橋忠雄作品の「ルンバ・ブランカ」のレコードにはビクター・キューバン・ボーイズと表記されている。東京キューバン・ボーイズという名が定着するまでの険しい道のりを、この事実がっている。

キューバンボーイズXXX

 東京キューパン・ボーイズが誕生してからも見砂さんはコントラバス奏者として時折敏腕をふるっていた。1950年(昭和25年)の春、東京・日本劇場で、ヨーロッパでの大戦ドキュメンタリー映画の「四つの自由」にあわせて、「四つのスィング」なるアトラクションが上演された。そこに出演した桜井潔とその楽団(当時定常メンバーはもういなかった)にバンドネオンの坂本政一、佐川峯の両氏とともに見砂氏はベース奏者として特別参加した。その張りのある響きは今でも耳に深くまれている。筆者ははからずもベース奏者としての見砂氏のステージに2回ほど接することが出来たわけである。
 話を前に戻すことにしよう。エスカイヤで活躍していたティピカ東京とクラルテのメンバーからの混成メンバーによるエスカイヤ・キューバン・ボーイズは、1949年(昭和24年)1月7日(金環日)にNHKラジオの「バンド・タイム」という番組に初出演した。時に午後5時45分、曲は「カチータ」「ママ・イネス」「マイ・ショウル」「マリネラ」の4曲であった。この後14日、28日と手元に放送記録が残っているが、7日の初放送のときにはバンドネオンが入っていた。おそらく早川真平氏であったと思われる。トランペットは南里文雄氏と特に紹介されている。
 この年8月7日のNHKラジオ番組「日曜のリズム」で、初めて東京キューバン・ボーイズを名乗っている。「マイ・ショウル」「スター・イン・ユア・アイズ(ビギン)」「ポル・トゥス・オホス・ネグロス」「アディオス・ミ・アモール」の4曲が、昼前の15分間のプログラムで演奏された。しかしこれより先のこと、5月2日(月)の「夜の軽音楽」で東京シンフォニック・タンゴ・オーケストラにゲストとしてトランペットの南里文雄を迎え、サンバの「マニャーナ」「ラ・コンガ・セ・バ」「マイショウル」「ポル・トゥス・オホス・ネグロス」が演奏されたのだが、音はキューバン・ボーイズそっくりだったことを記憶している。
 ところで、東京キューバン・ボーイズの人気上昇に刺激されたかどうかは知らないが、11月7日(日)放送の「夜の音楽」で当時人気ナンバーワンの渡辺弘とスター・ダスターズがルンバ特集として「ルンバ・ラプソディ」「リンダ・ムヘール」「マイアミ・ビーチ・ルンバ」「ノー・キャン・ドゥ」「マイ・ショウル」「ビジュー」ほかを演奏した。これは見砂氏に少なからインパクトを与えたようである。ことに「ビジュー」はウディ・ハーマンのヒット・ナンバーとして米国で定評があり、マンポのハシリと言われた「バンブー」という曲とともにジャズ・ファンのあいだで人気が高かった。スター・ダスターズは当時としては最新のザビア・クガートのスタイルを先取りしていたのだった。ここで見砂氏はタンゴ楽団と合いの子のような楽団では駄目だ、ブラス・セクションを主軸としたフルバンドでなくてはという方向づけを決意した。

ペレス・プラードと

▲ペレス・プラードと見砂氏

 フルバンドへの編成替えは1951年に行なわれた。バイオリンの鈴木嗣治氏はコンサート・マスターとして残り、ピアノはのちに越路吹雪さんのご主人となった内藤法美氏が務めることとなった。内藤氏はアレンジャーとしても敏腕をふるい、東京キューバン・ボーイズの要として大きな役割を果たした。スター・ダスターズが演奏した「ビジュー」も早速とり入れられたが、演奏曲目はレクオーナ・キューバン・ボーイズのレバートリーが多かった。
 また歌手の竹平光子さんはアイドル的存在で、クラベスを打ちながら歌う表情は人気の的で、当時出演していた東京・銀座の美松ダンスホールに通う学生たちの多くが憧れたものだった。竹平さんはその頃、文京区の有名な区立中学の音楽教師をしておられたのだが、近所で「竹平先生がラジオに出ている」と評利になってしまったのが思い出される。      
 フルバンドとなったこの時期から、見砂直照と東京キューバン・ボーイズは本格的な活動期に入る。これまでに発売された300枚を越えるアルバムの数もさることながら、芸術祭初受賞の「祭りの四季」をはじめ、数々の受賞等輝かしい成果を次々とあげて行った。ラテン音楽普及の功績とわが国の文化向上への多大なる寄与が大きく評価され、76年に紫綬褒章、83年には勲四等旭日小綬章を受賞されている。
 見砂氏がわが国にラテン・パーカッションがまだ持ち込まれていなかった時代に、音を頼りに手作りでそれらを完成させたという工ピソードは、すでに広く知られているところである。しかし、格段編成上の労苦はあまり知られていなかった。ここにご紹介した秘録は、輝かしい東京キューバン・ボーイズ誕生の隠された物語と言えよう。
 見砂氏の功績はまだまだ尽きない。竹平光子、トリオ・ロス・チカノスをはじめ多くのラテン歌手たちを育てあげたこと、江利チエミ、ビンボー・ダナオらあらゆる歌手たちとの交流を続けたこと……。またその一方でソビエト、キューバへの興味深い演奏旅行を果たし、キューバはカール・マルクス劇場では聴衆が東京キューバン・ボーイズの演奏に合わせて「クーバ・ケ・リンダ・エス・クーバ(美しのキューバ)」の大合唱となって感激を呼んだのである。とりわけ見砂氏のキューバとの交流は、今日の若い音楽家たちにも示唆を与えた。
 この大いなる足跡の中で、筆者はたった一度あの見砂氏がアガってしまったのを見たことがある。それは1965年、エドムンド・ロス楽団が来日した時のことである。花束をった見砂氏はエドムンド・ロスに「楽団を指揮して欲しい」と言われ、真っ赤になって「とんでもない」と答えながらも、見砂氏は控え目に「こんにちわ赤ちゃん」のタクトを振ったものである。その姿は楽団南十字星時代、東京キューバン・ボーイズ初期の頃の見砂氏のあのスマートなルックスとともに、いつまでも胸に刻まれる。さようなら、われらの「グラン・マエストロ」……。

(ラティーナ1990年8月号)

東京キューバン・ボーイズ 最初のSP版-3

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