[2022.2]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史⑨】戦後の移民社会と救済活動① 移民の再開
文●月野楓子
沖縄の冬はそれなりに寒い。今日のように22度もあるのに寒いと書くことにはたしかに違和感があるし、太陽が出ると日差しが強く、そうなると途端にTシャツ・短パン・サンダルの人が増えるから、冬感はかなり低い。沖縄に住み始めて一年と少し経ったけれど、東京とのやりとりで、こちらが「寒いよ~」と言うと「またまた〜」と反応がかえってくるのは定番。でも曇っていて風が吹く日は気温にあらわれる数字よりずっと寒く感じるし、そういう日は人に会うとまず「寒いですね」なので、沖縄も冬なのだ。
北半球が冬ということは、南半球は夏で、アルゼンチンも夏である。夏といえば祭り。新型コロナウィルス感染拡大の影響で世界中から祭りが消えたが、アルゼンチンでは例年「沖縄祭り」や盆踊りが開催される(なお、日系社会の盆踊りと言えばハワイのBON DANCEも有名)。アルゼンチンの沖縄祭りは沖縄系社会・日系社会のみならず、現地社会からもとても人気のあるイベントである。しかし、こうした行事が現地社会に溶け込む姿は戦前には基本的に見られなかった。
移民社会と受け入れ社会がそれぞれのバックグラウンドを持ちつつ交わる場があらわれたのは比較的最近になってからのことである。日本人移民に限ったことではないが、移民たちはたしかにアルゼンチン社会の一員であり、同じ土地で生活をしている。国籍においてもアルゼンチンは出生地主義をとっているため移民子弟はアルゼンチン国籍を保有する。一方で、個人としてではなく出自を基盤とした場合、それぞれのエスニック・グループやコミュニティどうしが交流する機会があるわけでもない。多様なバックグラウンドを持つアルゼンチン人たちが各自の出自を脇に置いて、日本生まれの盆踊りを楽しむ様子は興味深い。
前回(連載第8回)で、第二次世界大戦とアルゼンチンの沖縄移民について触れたが、戦後に起きた大きな変化の一つは、日本への帰国に対する考え方であった。すなわち、金を稼いで日本に帰るという出稼ぎ的な滞在から、アルゼンチンに定住するという方向へのシフトである。
戦争で疲弊した日本に比して当時のアルゼンチンの豊かさは圧倒的であったし、また、戦後すぐに自由な移動をすることはできなかったので、実質的な足止め状態にもあった。そうしているうちにアルゼンチンで生まれ育った二世は、必ずしもルーツである日本との接点を持たない学校や職業に進むようになっていった。それはまた、一方では親の世代が望んだことでもあった。
戦後の移民社会
終戦から1947年にかけての在亜邦人社会(アルゼンチンの日本人移民社会。連載も進んできたので念の為に再確認しておくと、「亜」はアルゼンチンの漢字表記である亜爾然丁による)に関する記録は、新聞の発行も停止されていた時期であるため不明な点が多い。アルゼンチンの日本人移民について書かれた『アルゼンチン日本人移民史』の年表では、終戦の翌年である1946年の欄に記載されているのは二つの項目のみである。そして以下に述べていくように、その二つが並行して進んでゆくのが戦後初期の在亜邦人社会であり、沖縄移民社会であった。
項目のひとつめは、日本から人の渡航を再開させるための活動である。戦争の影響によってアルゼンチンにおいて「敵性外国人」となり、活動停止状態となっていた日本人会が、戦後アルゼンチン政府に対して「縁故者」の呼び寄せを要望したことは、戦後の在亜日本人社会だけでなく、渡航を希望する日本・沖縄の人々にとっても意義あるものであった。いまひとつの項目は、戦後の日本に対して物資などを送る支援活動を行うための「日本戦争罹災者救恤委員会」が組織されたことについてである。
戦後初期の沖縄移民社会について、まずは人々の往来の再開から見ていこう。
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