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[2022.11][悲報]ヌエバ・トローバの創設者、パブロ・ミラネス、マドリードで死亡!

編集部

 キューバの偉大なシンガー・ソングライター、パブロ・ミラネスのFBに掲載されたこの一文に世界は嘆き悲しんだ。

「大きな痛みと悲しみをもって、巨匠が今朝11月22日未明、マドリードで亡くなったことをお知らせします」

 パブロ・ミラネスは、ここ数年は体調不良で、ステージを離れることはあっても、ステージへの愛着は人一倍だった。事実、この11月30日に、メキシコシティの市立劇場であの素晴らしい声を満員の聴衆に聞かせることになっていたし、その後も、新年の2月からスペイン公演(ビジャドリド、パルマ、シウダー・レアル、サラマンカ、ビルバオなど)が予定され、チケットも大々的に販売されていたが、22日突然、この悲報が告げられた。

 年齢もすでに79才になっていたが一度も引退は考えていないと言っていた。死因は明らかにされていないが、「一連の感染症の再発」で入院したときから周囲の心配を誘っていたそうで、おそらく本来なら続くスペインの公演の準備を気にしながらの死であったと思う。

 パブロは、1943年、キューバ東部のバヤモに生まれ、幼くしてハバナに移り住み、音楽院で音楽を学びながら伝統音楽も身につけていった。
 1950年頃からTV番組や、街中のステージで演奏を始め、徐々に知られるようになっていったが、1959年のキューバ革命の勝利以降は、カストロたちの思想に沿った音楽運動に目覚め、歌手として頭角を現し、1960年代の初頭には、「Tú, mi desengaño」や「Mis veintidós años」などで作曲家としてもデビュー、着実に力をつけてきた。

 しかし60年代半ば、23歳の時に革命には当然同意しているが、当時の政権の考えに一部異を唱えたことから大きな騒動になる。カストロ政権が、当時の芸術家、知識人、宗教家、同性愛者などを、革命の価値観から逸脱しているとして逮捕、UMAPという生産援助部隊(強制労働収容所)に送り込んだが、その時に一緒に収監されることになったのだ。

 やがて、収容所から帰り、音楽活動を再開、1968年になって、盟友シルビオ・ロドリゲスと最初のコンサートを開いた。この二人の音楽家は、1970年代の初頭にノエル・ニコラと共に、「ヌエバ・トローバ・クバーナ」を結成した。

 こうして、キューバの伝統音楽に当時のキューバの思想を盛り込んだ音楽がキューバから中米、南米、そして世界へと共感する輪が広がっていったのです。このパブロの突然の死に対して、世界中の音楽家やファン、知識人、文化人、作家、政治家たちが一様に彼の死を悼み、別れの言葉を贈っています。ある友人の言葉「私たちはもう彼のコンサートで生の声を楽しむことはできませんが、彼の遺志を受け継ぐことができるのです。”今日の音楽は乏しく、表面的なものだ”と考えていた彼は、歌にした物語を無限に残し、私たちの記憶に残るようにしました」…

 このパブロの音楽活動は、現在までの中南米の歴史に、この上ない影響を与えてきたと言っても過言ではない。パブロ・ミラネスの追悼記事は、中村安志さんが「連載シコ・ブアルキの作品との出会い」の中で急遽パブロの作品「ヨランダ」を取り上げて掲載する他、太田亜紀さんの追悼記事も用意している。

 パブロ・ミラネスに関するSNSへのファンの投稿で、彼の最大のヒット曲「ヨランダ」の中のこのフレーズで別れを惜しんでいる。

「Si me faltaras, no voy a morirme, si he he de morir, quiero que sea contigo」
(もし君が僕を恋しがっても僕は死なない、もし死ななければならないなら、君と一緒にいたい)

編集部

(ラティーナ2022年11月)

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