[2024.1]【連載タンゴ界隈そぞろ歩き ⑩】コロン劇場1972
文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura
今回は、先日公開されたBest Albums 2023 ④にて私が挙げたアルバムに関する話を掘り下げてみる。
対象とするのは以下の2つ。
Horacio Salgán y su orquesta / Teatro Colón 1972
Astor Piazzolla y su Conjunto 9 / Teatro Colón 1972
両アルバムとも1972年にブエノスアイレスのコロン劇場でのライブ録音である。
Concierto de la música ciudadana (市民音楽コンサート)
コロン劇場といえば世界三大劇場の一つに挙げられるクラシックの殿堂だが、実は同劇場とタンゴとの関わりは意外に古い。この点について参考になる記事を挙げておく。
前者はブエノスアイレスで活躍するバンドネオン奏者、西原なつき氏によるもので、2ページ目に歴史への言及がある。後者はWebメディア "El Litral" に掲載されたコロン劇場とタンゴの関わりに関する記事。
これらによれば、現在の場所に劇場ができた1908年の2年後、1910年のカーニバルでは様々な音楽とともにタンゴも演奏されている。また1928年に催された "Gran Festival Artístico" はタンゴのフェスティバルで、複数の楽団、歌手、ダンサーが出演したという。1931年に劇場が公有化されブエノスアイレス市営になって以降も、タンゴが演奏されることについては議論がありつつもしばしばその機会はあった。特にペロン政権下ではそのポピュリズムの影響もあって機会は多かったが、ペロン政権崩壊後は一転して門戸が閉ざされる。
状況が変わったのはラヌッセ大統領の軍事政権下にあった1972年。アルゼンチン作詞家作曲家協会 (SADAIC) の働きかけによって "Concierto de la música ciudadana" (市民音楽コンサート) が実現する。8月17日にタンゴ、19日にフォルクローレのプログラムが組まれ、タンゴの日にはフロリンド・サッソーネ楽団、オラシオ・サルガン楽団、セステート・タンゴ、アストル・ピアソラとコンフント・ヌエベ、アニバル・トロイロ楽団、そして歌手のロベルト・ゴジェネチェとエドムンド・リベロ (いずれもサルガン楽団の伴奏) が出演した。なお上記の記事によればオスバルド・プグリエーセとオスバルド・フレセドにも声がかかったらしいが、出演はかなわなかった。
当日の模様はテレビとラジオでも中継された。テレビの映像については以前から断片がYouTubeに上がっていたが、2021年になって全編通しのバージョンが公開された。
間違いなく第一級の貴重な記録である。であるが、しかしこの音質のひどさは…残念でならない。
というのがつい最近までの状況だった。
Horacio Salgán y su orquesta / Teatro Colón 1972
個人的な話だが、2023年12月半ばのある日、SpotifyのRelease Rader (新リリースの音源の中から、ユーザーが普段聴いている音楽の傾向に合わせてピックアップしたものを提示してくれる自動生成プレイリスト) を聴いていたらロベルト・ゴジェネチェの声で "Sus ojos se cerraron" が流れてきた。伴奏はサルガン楽団っぽい。最後には拍手、つまりライブ録音…え!?と収録アルバムを表示してみたら、"Teatro Colón 1972" とあるではないか。まさに "Concierto de la música ciudadana" のライブ録音だ!
というわけで、何の前触れもなく突然現れたのがこのアルバム。カバー写真には Horacio Salgán y su orquesta と書かれているのでBest Albumsの記事でもそのように書いたが、ゴジェネチェもリベロもソロ歌手で、サルガンは彼らに対しては伴奏楽団という位置づけとも思われるので、Spotify上の表記である "Horacio Salgán - Roberto Goyeneche - Edmundo Rivero Teatro Colón 1972 (Live)" の方が適切かもしれない。
それはともかく、何より驚いたのが圧倒的に音が良いこと。上のYouTubeとは比べ物にならない。モノラルではあるがこれ以上の贅沢を言ってはバチが当たる。そして、YouTubeには収められていない曲が入っているのも驚き。例えば3曲目の "Desde el alma" はこちらにしかない。改めてYouTubeでその前の ”Flores negras" と次の "Tierra querida" のつなぎのところを確認すると、解説者が「ロシータ・メロ作曲のワルツ」と言っているのが聞こえる。まさに "Desde el alma" のことであり、当日同曲は放送された痕跡が伺える。何らかの事情でカットされた形でビデオが残り、それがアップされたということなのだろうか。それを補う意味でも今回の音源は本当に貴重だ。
映像でもわかるが、この時のサルガン楽団は総勢約30名という大所帯。バンドネオンはトップがレオポルド・フェデリコで計6名、バイオリンはトップがフェルナンド・スアレス・パスでビオラと合わせて計16~7名、チェロ4名、コントラバス2名、そしてもちろんピアノにサルガン。さらに曲によってハープとバスクラリネットも加わる。特に "Flores negras" でのこの2つの楽器の響きが印象的。一方、1960年代からサルガンがほぼ常に活動を共にしてきたギタリストのウバルド・デ・リオがいないのも興味深い。
なお、Apple Musicのこのアルバムの配信では、曲ごとの「・・・」のアイコンをクリックするとクレジットを表示することができ、そこに全ミュージシャンの名前が挙がっている。バンドネオンが管楽器となっていたり、いないはずのドラムスがクレジットされたり、人名にスペルミスがあったり、と若干注意が必要だが、興味のある方は確認してみていただきたい。
というか、他ではクレジットの明記はないのだろうか。リリース元が正しい情報を置いておいてくれるとありがたいのだが…。
器楽曲パートに続いて登場するロベルト・ゴジェネチェ、エドムンド・リベロのそれぞれの歌も素晴らしい。ゴジェネチェはまだ音程の乱れもなく、なおかつ絶妙の間を持った語り口。リベロは深みのある低音。惚れ惚れする。
Astor Piazzolla y su Conjunto 9 / Teatro Colón 1972
さて、12月半ばの日に話を戻す。サルガンの録音が出たということは、もしや…とSpotifyを検索してみたら、あった!ピアソラのコンフント・ヌエベのライブ録音!
こちらはサルガン以上にレアである。そもそもYouTubeには "Fuga y misterio" と "Adiós Nonino" しか上がっていなかったのだ。それがいきなり全ステージ分と思われる6曲を、しかも十分良好な音質で聴けるようになってしまった。失神級の大事件。
こちらのメンバーは9名なので、全員ここに挙げておこう。
バンドネオン:アストル・ピアソラ
バイオリン:アントニオ・アグリ、ウーゴ・バラリス
ビオラ:ネストル・パニック
チェロ:ホセ・ブラガート
コントラバス:キチョ・ディアス
ピアノ:オスバルド・タランティーノ
ギター:オスカル・ロペス・ルイス
パーカッション:ホセ・コレアーレ
ピアソラの究極のアンサンブル《コンフント・ヌエベ》は1971年末から72年末にかけて活動したグループ。結成直後にブエノスアイレス市の直属となっている。残された2枚のアルバム "Música popular contemporánea de la ciudad de Buenos Aires vol.1&2" (ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第1集、第2集) は非常に完成度が高く、このグループの音楽性をほぼ完璧な形で味わうことができる。しかし、ファンというのは貪欲なもので、完璧な音源があればあったでもっと生々しい音も聴いてみたくなる。実はこのグループにはローマで録音されたライブ盤もあるのだが、おそらく本来はリリースを目的として録られたものではなく、楽器間の音量バランスが非常に悪い。今回のアルバムはそういった問題もなく、我々が望んだ生々しい記録を提示してくれる。
収録曲の中では、個人的に大好きな "Onda nueve" がまず嬉しい。この曲の中核をなすオスバルド・タランティーノの即興ソロは当然ながらスタジオ盤とは異なり、そのテイストの違いを味わう楽しみが増えた。"Verano porteño" は1分07秒あたりの弦セクションが加わるタイミングでバスドラムが4つ打ちのような形で入るのがスタジオとは異なっていて興味深い。スタジオ盤には収録されていない "Adiós Nonino" は既に映像で観てその壮大な編曲に圧倒されていたのだが、クリアな音で聴くことによってさらに圧倒される。いや、とにかくアルバム全編が熱い。何度でも繰り返して聴きたくなる。
今回のリリースの背景と今後
改めてコロン劇場のWebサイトを確認すると、今回の録音は "Teatro Colón Heritage Collection" としてリリースされたものの一環で、他にはマルタ・アルゲリッチ他クラシックの多くの音源がリリースされ、またリリースが予定されている。今のところデジタルプラットフォーム向けだけだが、一部はCDやレコードでのリリースも予定されているらしい。
今回のリリースは劇場の持つ録音を貴重な文化遺産として広く音楽愛好家に届けることを目的としている、と述べられている。公的な劇場が行う文化事業として、称賛に値する素晴らしいものであると言えるだろう。そして、今後のリリース予定の中には同じ1972年のコンサートからセステート・タンゴとアニバル・トロイロ楽団も含まれている!タンゴファンとしては、何とありがたいことか。リリースが待ち遠しい。
もっとも、ちょっとだけ気になるのがアルゼンチンの政権交代。大丈夫だよね…?
(ラティーナ2024年1月)
ここから先は
世界の音楽情報誌「ラティーナ」
「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…