[2021.03]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史④】アルゼンチンでの生活
文●月野楓子
1908年に日本を出発した第一回ブラジル移民のコーヒー耕地での生活は、彼らが当初思い描いていたようなものではなかった。そのため、配属された農地を後にし、よりよい労働条件や新たな仕事を求めて移動する人びとが後を絶たなかった。前回書いたように、笠戸丸移民のうち、1年後にも耕地に残っていたのは781名中僅か191名に過ぎない。
コーヒー耕地を出た移民たちは、港へ向かった。港は自分たちが乗ってきた船が着いた場所であり、また、他の場所へ向かうことのできる出口でもある。港の周辺で仕事を見つける者、内陸の鉄道工事の現場に向かう者、大挙して1箇所を目指すわけではなく、それぞれが、広い南米大陸の中であちこちへと散った。そして、転住した者の多くがアルゼンチンを目指した。アルゼンチン日本人移民の始まりである。つまり、第一回ブラジル移民はアルゼンチン移民であった。そして、笠戸丸移民781名のうち325名は沖縄の出身であり、アルゼンチンへの沖縄移民もここから始まった。
♟移民が到着したボカの港
アルゼンチンに移動した者の多くは、首都であるブエノスアイレスを目指した。なぜなら当時のブエノスアイレスは「南米のパリ」と呼ばれ、ヨーロッパ風の建築物が立ち並ぶ経済的に豊かな南米随一の都市であり、仕事があった。都市はその生活や経済を支える労働者を必要とし、日本人移民も港での荷役、近隣の缶詰工場や靴工場での労働を足掛かりにブエノスアイレスでの生活を始めた。
彼らが最初に暮らしたのは、「ボカ」と「バラカス」という、川の河口で海に近い労働者が多く暮らす地域であった。現在のボカ地区は、ブエノスアイレスの観光スポットとして知られる。建物がカラフルにペインティングされ、「カミニート」と呼ばれる小道には土産物屋が並び、道端でタンゴが披露されることもある。また、あのディエゴ・マラドーナが愛し、世界的にも有名なサッカーのクラブチーム「ボカ・ジュニアーズ」(Boca Juniors)の本拠地でもある。
♟カミニートにあるこの建物も元コンベンティージョ
♟ボカジュニオール・スタジアムのすぐ近くに今も残るコンベンティージョ
移民たちはそのボカ地区にある、「コンベンティージョ」と呼ばれる長屋で暮らした。そこは日本人移民だけでなく、イタリアから来た貧しい移民たちにとっても生活の場であった。コンベンティージョの部屋は薄い仕切りのみで、十分な設備もプライベートなスペースも無い場所であった。多くの物を持たずに移動してきた移民たちは床に寝るほかなく、狭く冷たい部屋で決して快適とは言えない生活を送った。コンベンティージョには、初回のブラジル移民で最も多かった沖縄出身者のほか、鹿児島出身の移民らも暮らしていた。
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