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[2022.11]【太平洋諸島のグルーヴィーなサウンドスケープ㉘】 アオウミガメの旅 ―小笠原で生まれ、育まれた子どもの歌―

文●小西 潤子(沖縄県立芸術大学教授)

 世界的に個体数が減り、絶滅も危惧されるアオウミガメの日本最大の産卵地が小笠原です。小笠原海洋センターは、魚類や鳥類などの天敵から捕食される確率を低くするため、父島の海岸で回収した卵を人工ふ化し、数ヶ月飼育して放流しています。アオウミガメは、採食を行う地域と産卵地の間を回遊することが知られています。小笠原諸島で産卵する個体群は、南日本や南西諸島で採食することが知られますが、放流した個体が東のハワイの手前に向かった例も観察されています。生後20~25年で成熟、70~80歳まで生きるそうですから、人間並みの寿命ですね。

 放流された子ガメに「生きて 生きて 生きぬいて/どの子も どの子も 大きくなって/またこの浜に 帰っておいでよ」と呼びかけ、「明けて 暮れて また朝に/来る日も 来る日も 大きくなって/またふるさとへ 旅は続くよ」と子ガメが答える「アオウミガメの旅」は、1985年父島の小笠原小学校に着任した大浜勝彦(当時教員)さんが、同僚の町田昌三(当時教員)さんの詩に作曲した歌です。同校では、卒業式の歌として定着しているほか、機会があるごとにうたわれています。同僚の教員だった赤間泰子さんは、母島小学校生徒たちがブラスバンドで演奏したときのことや返還20周年記念行事で、大勢の来賓や島民の前で、大浜さんが指揮をして生徒たち100人が合唱したとき、「身が震えるような思い」をしたとのことです。1994年平成天皇・皇后両陛下の行幸でも小・中学生が披露しましたし、現在でも村の行事を始め、フラ(いわゆるフラダンス)の曲にもアレンジされるなど、小笠原の人々の愛好歌となっています。

「アオウミガメの旅」小笠原返還50周年記念 母島セレモニー
海上自衛隊横須賀音楽隊

 2011年、大浜さんは絵本『あおうみがめの旅』を出版されました。32年間教員をされたなかで、小笠原に赴任されていたのは1973年9月~1978年3月の母島小中学校、1985年4月~1992年3月の小笠原小学校(父島)の計11年半ですが、小笠原への思いは相当だったのでしょう。一方、町田さんは、語学が達者で日本語学校にも赴任し、世界中を歩き回った後、現在は屋久島に在住されているとのことです。

写真1 絵本『あおうみがめの旅』 (2022年11月29日 撮影:小西潤子)
譜例1 「アオウミガメの旅」 (絵本『あおうみがめの旅』より)

 大浜・町田教員は、ほかにも小笠原の自然や歴史、文化を題材にした歌をたくさん創作・編集し、『小笠原子ども歌集1・2集』を作成して、朝礼や学校行事で歌唱指導を行っていました。たとえば、「コペペじいさん」は、「コペペじいさん/セーロン セーロン」「コペペじいさん/ダイヴォン ダイヴォン」「コペペじいさん/ダーツィ ダーツィ」と漁をする年老いたコペペさんに呼びかける歌です。セーロンは “Sail on” (帆を上げて走れ)、ダイヴォンは “Dive on” (どんどん潜れ)、ダーツィ “Dart it” ([モリを]投げろ)。1830年ハワイからの欧米系と太平洋諸島出身者が最初の入植者となった小笠原諸島には、その後も各地からの移民が定住しました(2022年8月号)。ミクロネシアのキリバス出身のコペペさんもその1人で、そのお名前はコペペ海岸という地名にも残っています。ただし、この歌のモデルとなったのは、当時実在した別の欧米系の方だったそうです。

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