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[2020.12]マラドーナと音楽(前編)

Grafitti de Diego Maradona en el barrio de La Boca, ciudad de Buenos Aires|Author=Cadaverexquisito 

文●フアンホ・カルモナ 

Text by Juanjo Carmona

「1日だけマラドーナじゃなければチャーリー・ガルシアになりたい」

 あまり知られていなかったが、マラドーナは音楽と密接な関係があった。マラドーナに捧げられた曲が多く存在するのはご存知の方もいるだろうが、彼自身歌も歌い、アーティストたちと多くの時間を過ごした。

 ディエゴ・アルマンド・マラドーナは間違いなくラテンアメリカで最も崇拝された人物だ。8歳にしてディエゴ少年はボールを巧みに操ってアルゼンチンで最も貧しい地区ビジャ・フィオリートから旅立ち、世界で最も優れたプレイヤーへと成長した。まず日本でU-20のタイトルを獲得し、当時は南イタリアのチームとして見下されていたナポリで活躍。ついには1986年にはアルゼンチンにW杯優勝をもたらした。マルビナス戦争で戦ったイングランドとの歴史的一戦では神の手(マノ・デ・ディオス)でゴールを入れ、その数分後にはサッカー史上最も美しく芸術的と評されるゴールを決めた。「キャプテン翼」のフアン・ディアスの如くマラドーナは60メートルあまりを脚の近くに置いて駆け巡り、ゴールキーパーを含めてイングランドチームを煙に巻いたのだ。その頃から現地紙では「左利きの詩人」としてこのスポーツを芸術のレベルにまで昇華させた。多くのファンにとってマラドーナはインスピレーションの源として神格化されるようになっていった。

 マラドーナは自身の出身地を忘れない純粋さがあった。FIFAの汚職にも決然と対抗したし、親友フィデル・カストロの足跡を辿ってラテンアメリカの極右やカトリック教会とも真っ向から対峙した。一方で私生活はコカインの使用、アルコール摂取、どこにいっても注目の的であり続けたいというエゴによって大いに乱れた。

Queenとステージに

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 あまり知られていないがディエゴはマイクとステージの中に大きな情熱を見出していた。マラドーナと音楽と関わる最も古い記録は1981年3月8日。21歳の頃、ボカ・ジュニオルズの練習をすっぽかしてQueenのアルゼンチンでのライヴの招待を受けた。その夜のステージの熱狂とオベーションをマラドーナは忘れることはなかった。

 「こんなにハッピーにしてくれたフレディとQueenに感謝したい」冒頭でそう述べてマラドーナはステージの上で「Another One Bites the Dust」を歌いきった。マラドーナはまぎれもない音楽愛好家で、分け隔てなく音楽に耳を傾け、音楽製作家たちに愛情を注いだ。

マラドーナとタンゴ

 マラドーナの父親は生粋のタンゲーロだった。父が愛して止まなかったガルデル、トロイロ、フリオ・ソーサへの情熱が彼の元に届いたのはバルセロナに移籍し、母国を懐かしんでいた頃だった。ディエゴは自作のタンゴも作ったし、「カミニート」をフリオ・イグレシアスとプラシド・ドミンゴとともにカンプ・ノウで7万人の観衆の前で披露さえした。タンゴはその時から常に聴き続け、フットボール以外のテレビ出演はGrandes Valores del Tango や la Botica del ángelといった音楽番組がほとんどだった。アントニオ・ガサージャの番組では「El sueño del pibe(少年の夢)」を歌い上げた。歌詞は貧しい街を出た少年がフットボール選手になってリーグで活躍する夢となっていて、マラドーナ自身の姿と重なる。もっとも細部はマラドーナ流となっていて、「(大きくなったら)バルドネーロ、マルティーノ、ボジェ(20世紀前半の伝説的フットボーラー)になるんだ」に代えて「マラドーナ、ケンペス、オルギンになるんだ」となっていて、ナポリ時代のボローニャ戦でのゴール後、父親に捧げたダンスセレブレーションと並んでYoutube上で見られる貴重な姿となっている。


1986年メキシコ大会

 1986年のメキシコ大会の同僚によれば、バスの中で聴くカセットを用意し、スタジアムに着く前は大合唱だった。そのプレイリストの中にはボニー・タイラーが1983年に歌った「Eclipse total del amor」、セルヒオ・デニスのメランコリックな「Gigante Chiquito」、そしてスタローンがロッキーの映画用にサバイバーに依頼したアドレナリンを高ぶらせる「Eye Of The Tiger」があった。「この曲をスタジアムに着く2ブロック前にかけて気持ちを高めていた」とリカルド・ジュスティ(1986年優勝メンバー)は著書の中で語っている。

 マラドーナの好みは多岐にわたり、歌う欲求は次第に高まっていった。デュオ・グループ、ピンピネラと「Querida amiga」を録音したり、ディアンゴのライヴに登場もした。90年代に入ってドラッグの使用で活動が制限されていた頃ユニセフの招待を受けてピエロと慈善団体向け音源を録音した。その中でも最も知られるのはアンドレス・カラマロの『Honestidad Brutal』に収録されたランチェラ曲「Cargar la suerte」だろう。


 フットボールの世界から引退後もマラドーナは喝采を求めてアレハンドロ・レルネルが数々の賞を受賞した「Todo a Pulmón」、「Volver a Empezar」 、「Salón Vacío」を歌い、自らのレパートリーに加えていった。レルネルとは2000年からステージにも立つようになり、ボカジュニオルズでのラストマッチの後行われたヒルトンホテルでのディナーでペレ(もう1人の神)や世界のベストプレイヤーたちに目の前でビセンテ・フェルナンデスの「El Rey」を歌った。

「王座もないし王妃もいない

わかってくれる人さえも

でも俺は王であり続ける」

 その頃はスタジアムでロス・ピオホス、ロス・ラトネス・パラノイコス、ベルスイ・ベルガラバットといったマラドーナに曲を捧げたロックバンドのライヴに登場することも多く見受けられた。この頃になると80年代に一時企画が持ち上げられたオリジナル盤作成の可能性さえ再度浮上した。ところがリハーサルを重ねるような秩序とルーティンは持ち合わせておらず、結局のところはソニーと契約書を交わしながらも『El Diego de la gente(みんなのディエゴ)』において一人称で自らの人生を語るというものに終始した。

後半へ続く

(ラティーナ2020年12月号)

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