[1983.01]アストル・ピアソラ インタビュー[初来日インタビュー]
きき手:高場将美
1982.11.16 Tokyo アストル・ピアソラ インタビュー 「創造とは楽しみの要素がなくてはいけないと思うんだ。演奏しても楽しめなければ新しいものは創れない。」
アストル・ピアソラは、1921年3月11日生まれ。ピアソラの生誕100年を記念し、中南米音楽1983年1月号より、初来日時のインタビューを掲載致します。きき手は高場将美さんです。
昇ったり降りたりするのは
人生とはそういうものだからさ。
——まず現在のキンテートのメンバーについて聞きたいんですが……
「この中にタンゴ出身というのは、たったひとり、ベース奏者のエクトル・コンソーレだけだね。
バイオリンのフェルナンド・スアレス・パスはクラシック音楽の人間だ。タンゴ楽団でもたくさん演奏してきたけれどずっとコロン劇場の管弦楽団にいたし、彼の世界はクラシックなんだよ。
ギタリストのオスカル・ロペス・ルイスは100%ジャズの人間だ。61年からキンテートに参加していて、他に自身で劇場や映画の音楽の作曲、編曲をたくさん手がけている。
ピアニストのパブロ・シーグレルは クラシック出身だ」
——ジャズじゃないんですか?
「ピアノ奏法はすべてクラシックから出ているんだよ、当然のことだが」
——あなたの楽団にいたピアニストたちは、今までずっとタンゴの根をもった人ばかりでしたね。
「いや、そう断定はできない。私のもった最大のピアニストはハイメ・ゴーシスだった。ゴーシスはクラシックだよ。 タンゴも弾いたけれど、アルゼンチンの最良のピアノ楽派をそだてたビセンテ・エスカラムーサの門下生だ。彼の教えた人にはアルヘリッチやゲルバーがいる」
——パブロ・シーグレルの名前は、それまで知られていなかった……
「私だって知らなかった。ピアニストを探していたとき、ロペス・ルイスが教えてくれたんだ。名手がいるってね。 ジャズをやっているけれど、このキンテートのスタイルが出来る唯一の人材は彼だと紹介してくれたんだ」
——結果には満足ですか?
「それ以上だね。現在のものは、私のキンテートの最良のものだと思う。ピアノも最初は、2、3点の成績だったが、今では10点満点だよ」
——即興演奏が、以前より多くなりましたね。
「私たちの演奏の3〜8%がインプロヴィゼーションだね。この比率はこれからもっと大きくなると思う」
——メンバーにとってもそれは楽しいことですね。
「うん。私はね、創造というのは楽しみの要素がなくてはいけないと思うんだ。演奏して楽しめなければ新しいものは創れない。だから、編曲する時も、私はいつもメンバーを生かしてきたよ。私の大きな長所というか、有能さは、それぞれの演奏者に合わした編曲を書けるということなんだ。メンバーにテクニックがなければ、それなりの譜面を書くんだよ」
——あなたが押しつけるんじゃなくて…
「私の音楽を演奏者の方に合わすんだ。いつもそうやってきたよ。たとえば、ピアニストでオスバル ド・タランティーノがいたね。彼は大テクニシャンではないんだ。しかし、すごいタンゴ性をもっている。そこを生かす編曲ということだ」
——作曲や演奏その他を含めて、あなたの創造活動には、浮き沈みの波があったと思うんです。それを自分ではどう考えているのか、精神的なものなのか、それとも社会的なものか……
「昇ったり降りたりするのは、人生とはそういうものだからさ」
——そういうものですか(笑)
「第一に、人間は完全ではない。第二にいつまでも高い所ばかりは続かない。第三にいつまでも低い所ばかりもない」
——じゃあ、今はどうですか?
「今年は私の創作活動のいちばん実り多かった年だね。キンテートで世界国に演したし、作曲もたくさんできた」
——どんな作品ですか?
「バンドネオンとオーケストラのための協奏曲、映画音楽、それから1人の歌手のためのオペラを書いた」
——オペラというと、本式のオペラ?
「オーケストラは、死人のオーケストラなんだ。音楽家がみんな死んでいるような、そこにいないような不思議な音がする。タイトルは『情熱の犯罪』といってピエール・フィリップの詩による作品」
——というとフランスで?
「そろそろパリで初演されると思う。 ジャン・ギドニという歌手でね。上演時間は1時間10分だ」
——その他の作品は?
「ロストロポーヴィッチのために『ル・グラン・タンゴー』という、ピアノ伴奏のチェロ曲を書いた。それから、ギターソロのための『5つの小品』を書いた。本当は5つのタンゴと付けたかったけれど、そういわない方がたくさんの人が弾いてくれると思ったのでね (笑)。内容は私のタンゴなんだ」
私はすごく幸福な人間だよ。
でも音楽を書くとメランコリックなものができる。
—— 今のあなたは、そういう幅広い音楽活動をなんの制約もなく展開しているしアルゼンチンを代表する音楽家としてあらゆるところで認められていますが、最初はただの異端者、革命児だったんですね。
「私の戦争は5年に始まったんだ。その時は火星人だと思われてた」
——60年代のキンテートで、ブエノスアイレスにおける地盤が確立したんですね。
「いやいや! 60年代はきびしかったんだ。61年のキンテートはダンスホールで演奏してたんだぜ! みんなに悪口を言われ、侮辱され、それでも私はガンコだから続けたけれど、すごく困難な道だったよ」
—— よくここまで来ましたね。
「タンゴ界で、タンゴを変え、闘い、自分自身を表現するよろこびを獲得した唯一の音楽家は私だよ。今では私はナイトクラブに出演する必要はない。コンサートだけで演奏している。しかし、ずっとみんなに嘲笑されてきたんだ」
—— 60年代の末に『ロコへのバラード』が大ヒットしたのは、あなたの地位の向上に少しは役立ちましたか?「あの曲は私の芸歴の重要な点になったことは言えるね。より広いファン層への橋になってくれた。ロコ(きちがい)である私のバラードでもあるわけさ。ブラジルや、最近公演したコロンビアでも、あの曲は有名でね。『バラーダ』の作者として私の名前を知っているんだ。コロンビアで、『ロコへのバラード』のほかにも作品はあるんですかと聞かれて、ガックリしてしまったよ (笑)」
—— バラーダを作った動機は?
「大したことじゃない。あれを出品したコンクールは優勝賞金が2千ドルでね。詩人のフェレールと、2千ドルかせぎたくて作ったんだ(笑)」
—— 優勝できなくて残念でした。でも優勝曲より大流行しましたね。
「優勝したのは『最後の列車まで』。でもこの列車はいまだに駅を出てねえんだよ(笑)」
—— あなたの代表作とされるのが『アディオス・ノニーノ』、これが父の死後に作曲したもの。それから『アルフレド・ゴビの肖像』とか『バルダリート』とか『トロイロ組曲』とか亡くなった人に捧げたすばらしい音楽がありますね。その他いろいろな曲で、失ったものとか遠いものに歌いかけているし……、どうなんですか? タンゴというのは悲しい音楽なのか、それとも…「それは音楽自体のこともあるし、私自身の感性から来たものでもあるね。深いものを求める、メランコリーを求めるという人間性だね。ただ断わっておくけれど、私はすごく幸福な人間だよ。いたずらや冗談が好きだし、とても陽気だ。でも音楽を書くと、メランコリックなものができる。音楽をつくるというときは、ひとは神秘家になり、宗教的になるんだね」
●平素は、茶目っ気のある明るいオジサン。
(フアンとの交歓パーティーで)
—— バンドネオンという楽器とも関係ありそうな。
「まったくだ。バンドネオンは教会で生まれた楽器だ。アストル・ピアソラが弾くとそれはオルガンになる。バンドネオンのないタンゴは存在しない。タンゴという音楽も楽しいものじゃないんだ。力強さや、生命感はあるよ。でも、それは陽気さとは違うね。強く荒々しくても、楽しくはない。それがバンドネオンの魔法のタッチさ」
—— あなたもイタリア系ですが、タンゴは移民たちの混血から生まれた音楽といえましょうね。
「そうさ、貧しい移民の中からタンゴができたんだ。20世紀初めのタンゴの作者は100%イタリア人だよ。実はこのあいだずいぶんたっぷりとイタリアを旅行したんだ。そしたらジェノヴァの歌が、古いタンゴの旋律のもとだと解ったよ」
—— ジェノヴァというと港で……
「イタリア移民は ジェノヴァから船に乗ってアルゼンチンにやって来たんだ。ほら、フィリベルトの曲を思い出してごらん。『カミニート』とか『白いスカーフ』のタンゴのリズムをとってしまうと、まるきりジェノヴァの民謡の節まわしになるよ」
——たしかコロンブスがジェノヴァ出身ですね。船乗りの町ですね。
「コロンブスね、あの人はタンゴを作らなかったな(笑)。 コロンブスはタンゴは発見できなかった(笑)」
スイングは体の中に起きてくる何かだ。
生命感、あるいはアクセント…。
—— あなたの中のイタリアの血はどうです?
「影響あるだろうね。父は南イタリア出身だけど、母は北の方のルッカの出なんだ。プッチーニの生まれたところだよ」
—— あなたが育ったニューヨークの影響は?
「これもある。私たち一家の住んでいたのは荒くれた地帯だった。父の床屋のお得意さんはギャングだった。私だって子供のころ、まず覚えたのは警察をだますこと(笑)。私の音楽にある勇気はニューヨークで得たものだ。ひとりっ子で、街で育ったんだから、ケンカすること、自分を守ることを覚えてきた。これは私の生きかたにも、音楽にも反映しているんだ」
—— ジャズは?
「私の音楽はジャズとはまったく関係がない。ただひとつ、私のタンゴにはスィングがある。これはニューヨークでの子供時代に得たものだ」
——スィングをどう説明しますか?
「ブラジルでいうバランセオ、なにか知らず知らず足が動き、体が揺れるものだね。これは他のタンゴ楽団にはないよ。スイングは体の中に起きてくる何かだ。生命感、あるいはアクセント……」
——闘う気性とも関係ありますね。
「うん。アストル・ピアソラに何かをやらせようと思ったら簡単だよ。それをやってはいけないと禁じればいいんだ。禁じられると、やりたくなる(笑)」
—— あなたはタンゴ界に入ってから、ずいぶんケンカしてきましたね。
「ハハハ……。友人たちが心配してくれてね。昔はよく言われたものさ。
アストル、何も言うんじゃないぞ。ただ演奏して、作曲してろよ。おまえはすごい音楽家なんだから、それだけでいいんだよ。お願いだから、しゃべるなよ。黙って音楽だけやってろよ。そうしないと損するぞ」
—— このごろは丸くなりましたか?
「(笑)つい最近、またやっちゃった。アティリオ・スタンポーネはヴィヴァルディと何だかんだのミックスで、インチキな音楽だと言ったんでね。本当のことを正直に言ったんだけど」
——スタンポーネは革新をめざしてがんばっているじゃありませんか。
「だけど、モダンであるためには本当にクラシックを勉強しなくちゃ。変わったことをやったからといってモダンにはならないのさ」
——ピアソラ以後のアルゼンチンの若い音楽の実状を、いかがお考えでありましょうか?
「希望が出てきたよ、ようやく! みんなが団結して、国民意識をもっている。今まではイギリスやアメリカの真似だったね。それが、アルゼンチンの根を見直すようになってきた。バンドネオンの入ったロックとかね」
——なにか具体的な現象がありますか?
「最近アルゼンチンのロック音楽家が団結してコンサート・シリーズをひらき、8万人の聴衆を集めた。ビージーズでもアバでもなくて8万の若者が集まったらその時は目を開かないといけない! まだ下手だけれど、すごく希望がある」
——ピアソラから出発してロックやソウルに近づいていったロドルフォ・メデーロスについての感想は?
「メデーロスは何も語りかけない。電話でセックスしてるみたいだ。私はそれならプグリエーセやサルガンの方がいい」
——じゃあ、ロックの大コンサートでのアーチストで注目したいところを教えてください。チャーリー・ガルシーアやエスピネットの次の世代ですか?
「いや、中心となるのは今のふたりやレオン・ヒエコ……」
——もう、30代から10近くなった年令ですね。
「若いのでは、ニト・メストレ、グループ《カベサル》なんかが良い」
——若いタンゴでは?
「こちらは希望的と思えないな。バンドネオンならディノ・サルーシが、ものすごく良い。センセーショナルな仕事をしているよ。現在の最高だね、彼は。彼のいま作っている音楽は、フォルクローレで今までに誰もできなかった最良の音楽だ」
——タンゴが若者の音楽だった時代もあったんですが。
「40年代がそうだった。フランチーニ、ポンティエル、私……、みんな19か20歳の若者だった。若者が作詞作曲したものだけがヒットした」
——なぜ黄金時代ができたんでしょう?
「私はとても信仰深いんだ(笑)。40年代は神様が雲に乗ってブエノスアイレスの上にいたのさ。それから行っちゃって帰ってこない(笑)。あの時代は良い歌手もたくさんいた。悪い楽団でさえもたくさんあった」
——タンゴ黄金時代の大統領はフアン・ドミンゴ・ペロン。
「ペロンが倒れたら、タンゴも倒れた。そしてピアソラ登場さ(笑)。政治的、社会的な原因は当然タンゴにも影響するよね。5年のペロン失脚のあと、ビル・ヘーリーのロックンロール、そしてビートルズの時代となる……」
——激動の時代ですか。
「うーん。考えてみるとね、20世紀のもので後世に残るのは数少ないよ。音楽ならストラヴィンスキー、ラヴェル、バルトークくらいじゃないかな? 絵画ではピカソは残るね。ブラックとなると、もう解らないぜ。映画はチャップリン、サー・ローレンス・オリヴィエ?」
——電子音楽は?
「これはすごく命が短いと私は考えている。危険なことだよ。ヤマハなんてのは考えた方がいいぞ(笑)。電子音には生命がないんだ。誰がやっても出るから、人間の価値はあらわれない。簡単であるという強味はあるさ。でも便利さには、あとで高い代償を払わされるものだ」
——ピアソラは残る?
「そうね、2082年にどこかでピアソラという名が出てきてね。あれ誰だっけ
なあ? 聞いたことあるような気がするけれど。なんて言って百科事典を見て、ああそういうことをやった人か……まあその程度かな(笑)」
——あなたが今やっていることは、なんの為だろう?
「若者に、自分の国の音楽を見つめさせたいんだ」
——その若者は、タンゴを聴いてはいないね。
「だって言葉がちがうもの。16歳の若者が伝統的といわれるタンゴの語法を感じとれるわけがない。若者のことばで話さなくちゃ」
自分の発展のすがたを見たいんだ。
自分のレコードを聴いてよく考えるよ。
——あなたのタンゴの、現代の語法には当然、外国からの影響もあるわけでしょうね。
「クラシックの影響もある。つまりね、誰でもひとりの音楽家というのは、いろいろな音楽家の息子なんだ。たくさんのものを受け継ぎ、吸収して育っている。私たちは、情報をもとに仕事をしているんだよ。情報が多いほどいいんだ」
——なるほど、影響というより情報ね。その集積の上に自分の音楽をつくるんですね。インプロヴィゼーションなんかもそうですね。
「即興は、うまくいくときもあれば、平凡なときも、駄目なときもある。しかしその自由さは音楽家にとって何ものにもかえがたいものだ。そこで生きていくんだから」
●リハーサルでは適切な指示が飛ぶ
——タンゴの即興はジャズの即興と同じようではないですね。
「感性の差だね。私はフリー・ジャズはきらいだよ。フリーはむずかしい。コルトレーンとかマイルス・デーヴィスのような大天才は別だろうけれど」
——いまのジャズ、たとえばチック・コリアは?
「チックは別の世界だね。より知的な音楽だ。私のやっていることも、いくぶんチックに近いと思うよ。だから、チック・コリアやハービー・ハンコックや、バルトークやストラヴィンスキーの好きな人はアストル・ピアソラが好きだ。それがアルゼンチンの若者なんだよ」
—— ブラジル音楽は?
「素晴らしい! 作者の90%は若者なんだもの。豊かなのも当然だね」
—— とつぜん話が変わって申し訳ないんですけれど、ずっと気になっていたんです。今まであなたの写真というと、タバコをもっているポーズだったんですがさっきから少しもタバコをすいませんね。
「やめたんだよ。3年に心臓発作があってからタバコもコーヒーもやめた。私はなかなかお利口なんだよ(笑)。おかげでずいぶんお金を節約できたし(笑)。いや、なんだね、21世紀になると、人間はみんなメカニックになって、タバコもすわず、コーヒーものまず、セックスもしなくなるよ。私はそのころ生きてなくてしあわせさ(笑)」
—— あなたは自分のレコードを聴きますか?
「私はよく聴く方だろうね。自分の発展のすがたを見たいんだ。自分のレコードを聴いて、よく考えるよ。好きということでは、9重奏 (コンフント・ヌエベ)がいいね。さっき話に出た『バルダリート』とか『スム』とか。『ブェノスアイレスのマリア』もよく聴くよ。それからポリドールの『ニューヨークのアストルピアソラ』が良い。あれはキンテート最良の時期だね」
—— 自分の発展のあとをどう見ますか?
「周期があるな。62年がキンテートの最初の高潮期だね、72年は9重奏で高揚、82年は私の最良の音楽」
—— 52年はどうでした?
「バンドネオンをタンスにしまっていたよ (笑)」
ロコ同士はみんな知り合いだよ。これが
正気な人にはない、ロコの特権だよ。
——では、これから人名をどんどん挙げますから、ひとことずつ思いつくことを言ってください。
◼︎ウーゴ・バラリス
「わが生涯、最良の友」
◼︎キチョ・ディアス
「あらゆるベース奏者の家長」
◼︎キチョの兄のペペ・ディアス
「ベースについてはキチョの父だね。キチョは彼からたくさん教わったらしい」
—— ペペ・ディアスはあなたの初期の楽団にいて名手だったと聞いていますが、どうして幻の存在になってしまったんですか?
「飲みすぎとか、そういうことでね」
◼︎エルビーノ・バルダロ
「すべてのバイオリン奏者の父。偉大な演奏家。彼からフランチーニもアグリもスアレス・パスも出てきた」
◼︎エンリケ・フランチーニ
「ひとつの演奏法の発明者。彼はナンバーワンだった。誰ともくらべられない独自のスタイルを創った。スタイルをもつことはアーチストにとって、いちばん重要だ」
◼︎フランシスコ・カナロ
「私は彼の大ファンではなかった。神よ彼を天国に召し、栄光の中にとどめたまえ。外へ放さないでください(笑)」
◼︎アルフレド・ゴビ
「彼は私たちすべての父だ。特に曲の和声づけについて」
◼︎オスバルド・プグリエーセ
「私は彼を聴くと熱くなる。昔も今も、いつまでも。プグリエーセは前衛ではない。伝統派だ。しかし今日に生きている伝統派だ」
◼︎オラシオ・サルガン
「個人的に私は大ファンだ。 サルガンは46年にやった音楽の同じものを今もやっている。しかし素晴らしいものは変わらない」
◼︎エドムンド・リベーロ
「彼はブエノスアイレスのパジャドールだ。パジャドール(吟遊歌手) は草原のものだね。リベーロは田舎の人ではないけれど、都会を語りながら、堂々としたガウチョ性の何かをもちつづけている。ロンガの歌とかね」
◼︎ロベルト・ゴジェネチェ
「リベーロと違って、まったくのブエノスアイレスだ。リベー口より神経質で、不安定な下町気質をもっている。私はゴジェネチェを聴くと熱くなる。みんなは彼がもう歌えないとか、声がなくなったとか、荒れたとか、おしまいだとか言うね。たしかにゴジェネチェが良い歌手だったのは サルガンの楽団にいた時だ。でも今、ゴ ジェネチェがひとつのフレーズを語るとき、歌のきれいさなんか問題ではないんだ」
◼︎J・S・バッハ
「少しは私の音楽の父だ。バッハの作品のたった1曲でも書くことができたら、私はすぐ死んでもいい」
◼︎ヴィヴァルディ
「ストラヴィンスキーが言ったね。ヴィヴァルディは同じ音楽を200回書いた、と(笑)。私も同じ意見だけれど、でもそれがみんな素敵なんだな」
◼︎モーツァルト
「いろいろな音楽すべての、少しずつ父だ。私はどんどん好きになる」
◼︎ジョン・ケージ
「全作品が好きだ。現代のアメリカ音楽のもっとも意義深い作曲家だと思う」
◼︎ルイ・アームストロング
「ひとつのスタイルの中での、特に重要な人物。真似のできないフレージングをもっていたアーチスト」
◼︎ジェリー・マリガン
「彼もひとつの面でのナンバーワン。一緒に演奏できたことをとてもしあわせに思っている。彼はサックス奏者としてより編曲者として重要だと思う。彼の音楽はずっと変化しなかったといわれるけれど、オスカー・ピーターソンはいつもピーターソンであって偉大だ。さっきのサルガンと同じことが言える」
◼︎スタン・ゲッツ
「好きだね。音楽の発展に寄与したなんてことでなく、音色が素晴らしい」
◼︎ジョルジュ・ムスタキ
「大詩人。一緒に仕事できてよかった」
◼︎ヴィニシウス・ヂ・モライス
「ブラジル最大の詩人」
—— エグベルト・ジスモンチ、知ってますか?
「知ってるさ! ロコ(きちがい) 同士はみんな知り合いだよ。これが正気な人にはない、ロコの特権だよ。エグベルトは奇蹟のように素晴らしい。ブラジルでいちばん重要な音楽家だと思う」
◼︎オス・ノーヴォス・バイアーノス
「好きだね。狂うほど好きではないが」
◼︎ナディア・ブランジェ
「私の第二の母」
◼︎アルベルト・ヒナステーラ
「私の友人、私の先生。もちろん大作曲家だ」
◼︎スサーナ・リナルディ
「歌手というより女優だね。彼女がタンゴを歌ったことは、タンゴにとってとても良いと思う」
◼︎マルタ・アルヘリッチ
「天才だ。彼女がアルゼンチン人だったのは私たちにとって何という幸運だろう」
◼︎メルセデス・ソーサ
「彼女がアルゼンチン人だったのは、私たちにとって何という幸運だろう」
◼︎アタウアルパ・ユパンキ
「彼がアルゼンチン人だったのは、私たちにとって何という幸運だろう!」
◼︎ホルヘ・ルイス・ボルヘス
「エルネスト・サバトと同様に、彼の作品に音楽をつけることができたのは、私にとってたいへんな名誉だ。ボルヘスはアルゼンチンを出ればノーベル賞をもらえるだろう (笑)。だってガルシーア・マルケスは故国から追い出されたらノーベル賞をもらったじゃないか。スエーデン人というのは、かなり底意地が悪いんだよ。亡命した時に賞をくれるんだ」
◼︎マーガレット・サッチャー
「さーて…… 外見がおそろしいね。ゴジェネチェとのライヴ録音のレコードで『古道具屋』にサッチャーのことが出てくるから聴いてください」
(中南米音楽1983年1月号掲載)
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