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[2021.05]【島々百景 第60回】 大正区 大阪府

文と写真●宮沢和史

 この『島々百景』は本紙が紙媒体であった頃から続けていて、39話まで来たところで一旦単行本にまとめて発売した。連載開始当初から宮沢が旅をしてきた島々について書き連ねてきたわけだが、単行本になる最後の方では島に限らず、海無し県の山梨県や奈良県についても書いた。「そもそも地球上の陸地は全て“島”じゃないか!」「“島”とは必ずしもアイランドを指す言葉ではない。他所とは一線を隔てた自分たちのテリトリーである“シマ”を指す言葉でもある」という言い訳めいた言い分で武装し、その後も時には内陸地の場所も取り上げてきた。前回は、一貫して自然と人の営みとの共存をテーマに漫画を描き続けた矢口高雄先生が昨年2020年の11月にお亡くなりになられ、追悼の意味を込めて出身地の秋田について書かせてもらった。今回は大阪府大正区。「?」と思われる方もいると思うが、今回はタイトル通り偽らざる“島”だ。地図をご覧になっていただきたい。大阪湾へ流れ込む淀川の水系と大和川水系によって生み出された三角州のうちの一つであり、木津川と尻無川に挟まれ見事な島を形成しているのにお気づきだろう(汗)。

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 大阪市の西側に位置し大阪湾に接する大正区は昭和7年に行政区の一つとして発足しその名がつけられた。その三角州に人が住み始めたのはどうやら江戸時代初期の頃のこと。その後新田開発が行われ、水路の利を活かし旅客用や貨物の舟が行き交うことで賑わった。明治になると近代的な紡績工場が誕生し、造船業も始まり、阪神工業地帯における重要な役割を担っていく。
 日露戦争、第一次世界大戦、を経て戦後恐慌、関東大震災、世界恐慌による昭和恐慌の影響を受け日本人の生活が厳しくなる中、それ以上に沖縄では“ソテツ”で食いつながなければならないほど疲弊しきっていた。『1924移民法』によりアメリカ合衆国への移民が難しくなったこともあり、内地への出稼ぎが活発化する。特に大阪への移住が急増し、中でもこの大正区は大工業地帯であり、雇用が多く出稼ぎ移民たちの受け皿の役目を果たした。後続のために先人たちが簡単な住居を作ってあげるなどの世話をし、それを頼りにまた多くの移住者がここへとやってきた。しかし、彼らの生活ぶりは内地の人間からしたら時には奇異にうつることで差別の対象となり、雇用があるとはいえ職種の選択や賃金面で不当性があったと想像するに難くない。だからこそ、大正区の沖縄出身者たちの助け合う精神、結束力が強まっていったのだろう。

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