[2020.10]【太平洋諸島のグルーヴィーなサウンドスケープ③】甘い誘惑、苦い過去 ―北マリアナ諸島のサトウキビ・プランテーションの盛衰と音楽―
文●小西 潤子(沖縄県立芸術大学教授)
トマト、ジャガイモ、トウガラシなど、私たちの生活にもなじみ深い農産物の多くが意外にも南米原産で、大航海時代以降世界中に広まったことが知られていますよね。サトウキビの世界生産量トップは、ブラジル。だからそれも南米原産だと思いきや、およそ8,000年前サッカラン・オフィシナルム Saccharum officinarumという栽培品種が生まれたのは、太平洋諸島・パプアニューギニア。そこからインド東部、中東、地中海、ヨーロッパ、中国へと広まったそうです。英語のキャンディー、代替糖のサッカリンは、約2,500年前のサンスクリット語の古典にある3種の精製糖名のうち、カンダ、サルカラに由来するとか。ただし、サルカラは高純度の精製糖でした。
中南米のサトウキビ栽培は、1493年C. コロンブス(1451-1506)がカナリア諸島の苗をイスパニョーラ島(現・ハイチ、ドミニカ共和国)に移植したのが始まりです。スペインは、1508年以来、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバを次々と植民地化してサトウキビ栽培を始めました。その後100年間で、労働を担った先住民の80-90%が死亡したのです。一方、ポルトガルは1500年、ブラジルに畑、圧搾所、工場からなるプランテーション施設を設けました。時間厳守の集団労働で生産量をあげるために、西アフリカ・サントメ島の熟練労働者を手始めに、17世紀だけで56万人のアフリカ人奴隷が導入されました。長い船旅とプランテーションでの想像を絶する日常を耐え忍ぶ力となったのが、故郷アフリカの音楽と踊り。ラテン音楽の背景には、砂糖の甘い誘惑と苦い歴史があったのですね。
さて、日本に初めて持ち込まれた砂糖は、隋、唐からの輸入品。琉球での黒糖生産は、1623年儀間真常(1557-1644)が中国福州から導入した新製糖法が始まりだそうです。琉球、奄美にはサトウキビをめぐる数々の物語がありますが、今回の舞台は北マリアナ諸島。サイパン、テニアン、ロタなど北マリアナ諸島やグアム島には、チャモロ Chamorroと呼ばれる人々が住んでいました。ところが、1565年から333年間スペインの支配を受けるなか、17世紀末スペインとの闘いに敗れると北マリアナ諸島のチャモロはグアム島に強制移住。19世紀半ばまでに伝染病などでチャモロの人口は半減しました。そこで、チャモロとも交易関係があり、北マリアナ諸島の一部にも定住していた中央カロリン諸島のレファルワシュ Refaluwasch (通称カロリニアンCarolinian) が、農業従事者として導入されました。米西戦争後の1898年、アメリカ領となったグアム島から分断された北マリアナ諸島は、売却先のドイツの政策によって、コプラ生産地へと転換が図られます。今度は、グアム島からチャモロが北マリアナ諸島に移住させられ、レファルワシュはサイパン島の一部に集住させられました。
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