[2008.4]《今年はジルに抱擁を!》ジルベルト・ジル再考 第3回 〜ジルの中にあるルーツ・ミュージックを探る〜
文●花田勝暁
一体いくつのジャンルの音楽がジルベルト・ジルの身体には染み込んでいるのだろうか? 1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と各時代に常にMPBシーンの第一線で活躍してきたジルの音楽は、誰にも数えられない程に多様な音楽からの影響から成立しているのは、異なる時期のジルの作品を数作ピックアップして聞いてもらえれば納得していただけるところだろう。ただ、ジルはある時期に特定のジャンルにフォーカスを当て活動を行うこともある。ジルの中でも大きな位置を占めているジルの中のルーツ・ミュージックと、ジルとの出会いを取り上げたい。
2000年代に入ってから、ジルは『エウ、トゥ、エリス』(映画『私の小さな楽園』のサントラ盤、2000年)と『サン・ジョアン・ヴィーヴォ!』(2001年)という2枚のアルバムを通じて、フォホー回帰を行い、その後には、『カヤ・ンガン・ダヤ』(2002年)、『カヤ・ンガン・ダヤ・アオ・ヴィーヴォ』(2003年)という2枚のアルバムでは、ボブ・マーリー作品を中心にレゲエ・ミュージックをと取り上げた。本稿は2000年代にジルが重点を置いて紹介した音楽とジルとの関係を記したい。
ジルは楽器を一度持ち替えている。アコーディオンから、ギターへ持ち替えた。ジョアンのギターを聞いたことが決定的だったそうだ。その前後のジルに迫ってみることから、ジルのルーツの一端を覗いてみたい。
—— 何歳までアコーディオンを勉強していたの?
「音楽に繋がるための、唯一の楽器として18、19歳の時まで。19、20歳の時には、ギターを手にしたんだ。ジョアン・ジルベルトが歌い/演奏するのをはじめて聞いたすぐ後だよ。その時まで、ギターに興味はなかった。ジャコーや、ヴァルヂル・アゼヴェードとか、ポピュラー音楽に繋がった弦楽器は全部すきだったけど、ジョアンを聞くまでは、そこまで興味はなかった」
「ジョアンのあのスタイルのギターを聞いたとき、アコーディオンやピアノでみんながやろうとしていることを、ギターで実現していると思った。18、19歳の頃には、だいぶアコーディオンが上達していて、一通りのことはできているように思った。セルタネージャ音楽や、民俗的な音楽、ゼキーニャ・ヂ・アブレウやエルネスト・ナザレーの古典を学んだけれど、そのコンテキストから抜け出す時が来ていたんだ。当時のビック・バンドのサウンドとして、グレン・ミラーの音楽を聞いたりして、僕らはジャズに興味を持ち始めていた」
この文脈だけを見ると、ジルにとって〝ジョアン以前〟はあまり意味がなかったのではないかという感じがしてしまうが、そうではない。ジョアン以前に随分とアコーディンオンを学んだ時期があって、その時のヒーローはルイス・ゴンザーガだった。そんな時代があるからこそ、ジルはトロピカリア・ムーヴメントの復興の対象として、フォホーをを中心とした北東部の音楽をその1つに取り上げ、また、2000〜2001年に、映画『私の小さな楽園』での音楽担当を発端とした一連のフォホー・プロジェクトに取り組んだ。
ルイス・ゴンザーガからジョアン・ジルベルトへ。ブラジルのポピュラー・ミュージックの中心軸が前述のように動いた時代に、ジルは青年期を過ごした。
「(サルヴァドールに引っ越し)一年間、中学受験のコースで勉強して、試験を受けて、1952年に入学した。10歳の時だ。それで同じ年に、アコーディオンの学校にも入学した。母がアコーディオンを買ってくれたんだ。僕は、音楽を勉強することに興味を示していて、アコーディオンは僕の当時の音楽世界の全てに繋がっている楽器だったんだ。つまり、ルイス・ゴンザーガのセルタゥンの音楽。片田舎の土地のサンフォーナ弾きの音楽に、繋がっていた。それに、アコーディオンは大都市でも重要な楽器として注目を浴びはじめててきた。リオ、アカデミア・マスカレーニャス、サンパウロ、ペルナンブーコ、サルヴァドールといった都市で変化が起きていた。アコーディオンは、1950年代には、1960年代にギターが重要だったのと同じく、非常に重要な楽器だった。つまり、都市の中産階級の家庭で育った青年たちのカルチャーに繋がった楽器であった。アコーディオンは、多くの若者に、音楽をはじめるきっかけや、音楽家として活動をはじめるきっかけを作っていた。それで、この時期、ルイス・ゴンザーガによって決定づけられたアコーディオンという楽器の新しい魅力に熱狂的に魅せられて、アコーディオンを学ぶことができないかと母にお願いしたんだ」
ジルはアコーディオンを学ぶが、それとは別に後に音楽学校で音楽理論も学んでいる。「ジルは全く音楽を学ぶことなく自然と音楽を作り始めたのかどうか」という点は、私はずっと気になっていたところだったので、この以下のジルの発言を読んで、腑に落ちるところが大きかった。ジルの作る音楽のメロディーやハーモニーがとても豊かな動き/響きをもっていることが、理論にも裏付けられていることがわかり、すごく腑に落ちた。複雑なコードやコード進行を、楽器を持った途端から、動物的な勘だけで出来たわけではなかったのだ。
—— 音楽を勉強したの?
「ソルフェージュ(楽譜を中心とした音楽理論を、実際の音に結びつける訓練)の方法なんかを学んだよ」
—— どのくらいの期間?
「4年間だよ。だけど、さぼり気味だった。本当のことを言うと、そんなに興味がなかったんだ。僕は音楽をしたかった、音楽にすぐにアクセスできるテクニックを学びたかった。それで、僕の音楽センスにすぐに反映させたかった。当時起っていた音楽カルチャーに密接に関係するような感覚を磨いてくれるような音楽。今まさに生まれているものを生み出したかった。軽妙な芸を身につけたかった。ルイス・ゴンザーガのようになりたかった。現代的なハーモニーと密接に繋がっているようなルイス・ゴンザーガのような創造力が欲しかった。理論だけとか、古いことには 興味が湧かなかった。それで、理論の面でそんなに学校には頼らなかった。学校はクラシック音楽のことばかりだったから、学校では、ソルフェージュを学んだり、楽譜の書き方なんかを教わった。でも、教材は、時代遅れで、古いもので、理論面で学校に興味はなかった」
—— その時に作曲するようになったの?
「ええ。ギターを使ってね。アコーディオンでも、すでにたくさんの曲を作っていた。でも、作曲したものとして残していなかった。たくさん即興して、バイアゥン、ショッチを演奏したり、ショーロやサンバを演奏した。でも、自分でもきちんと覚えてもいなかった」
——「これこそが僕自身なんじゃないんだろうか」って思ったりした?
「その通り。そう思って記録しなかったんだ。だから、作曲家のように曲を作ることに、全く興味がなかった。フレーズを作る音楽家に興味があった。それで、ジョアンをはじめて見た時に、何かを話しているようなスタイルに惹かれた。楽器を弾きながら歌を歌える、歌いながら自分で伴奏をつけられるという人間の可能性をはじめて目の当たりにした。もちろん、ルイス・ゴンザーガがその可能性を示していたけど、彼はバンドとコミュニケーションし、開かれた感じだった。ジョアンの場合は、全く閉じたコミュニケーションの穏やかなスタイルで、やってのけていた。彼は、1人の人間に集中するイメージを作り上げた。ルイス・ゴンザーガは自分で歌い、伴奏したけれど、こういうイメージを与えなかった。ルイス・ゴンザーガは、人気者のイメージ、つまりたくさんの人が集まるフェスタのイメージだ。歌い演奏している時、ルイス・ゴンザーガは1人ではなく、周りの多くの人の存在を感じさせた。ジョアンは全く反対だった。1人の人として、1人の音楽家としての孤独という印象を与えた。それで、創造する個人としての孤独という考えを持つようになった。そんな風に思ったのは、はじめてだった。そこで、僕の自分の音楽を、自分の曲を、自分で作曲した曲、僕のために僕のことを歌った僕が作った歌、もしかしたら他の人にためになる歌、僕という個人に焦点があった歌、そんな歌を持つ必要が出てきたんだ」
ジルは一時期サラリーマンとして働いていた時期があったということは前回触れたが、サラリーマン試験と同時に、ジルはマイアミへ留学し、マスターをとるという選択肢も考えてた。もし、この時、マイアミへ行っていれば、ブラジルの1960年代後半のカウンターカルチャーが「トロピカリア」という名前を持つことはなかったと思うと、運命の悪戯を感じるが、ジルとレゲエとの出会いにも悪戯が作用する。ジルがレゲエと出会うのは、亡命先のイギリスでだった。ジルがレゲエを吸収してブラジルへ帰国するということがなければ、ブラジル音楽へ、レゲエが浸透する事情も違ったものになっていただろう。
—— (亡命した直後の)この時、レゲエにすでに興味があったの?
「レゲエが登場したのはもっと後でだよ。ロンドンでの初めの年、チェルシーに住んだ。2年目には、ノッティングヒル・ゲートに住んだ。そしてそこで、レゲエに出会ったんだ。ノッティングヒル・ゲートはまさに、レゲエ
の震源地だった」
—— とても強烈な印象だった?
「いいや、レゲエは僕の心を直撃しただけだ」
—— ロンドンに住んでいる時、ウッドストック・スタイルの最後のフェスティバルだったワイト島でのフェスティバルに行ったりした?そこで演奏した?
「カエターノたちと行ったよ。〝オフ〟での演奏はした」
—— イギリスは、まだ音楽的に豊かな時代にあったの?
「うん。ビートルズが『アビーロード』を発表して、オノ・ヨーコはジョン・レノンとプラスティック・オノ・バンドをはじめて、ローリング・ストーンズは『レット・イット・ブリード』を発表し、トラフィックがいて、クリームが解散して、レッド・ツェッペリンが活動をはじめた、って時期だった。それにプログレッシヴ・ロックが始まった頃で、ジェネシスやキング・クリムゾンもいた。僕は、これらの音楽が、個人的にすごく好きだった」
—— 彼らのライヴを見にいったりした?おもしろかった?
「行ったよ。さっき名前を出したアーティストを見るのに、すごく行った」
レゲエ以外にも、ジルは亡命中に多くの音楽を吸収していたことがわかる。エレキ・ギターを使用するようになったのも、亡命した時がはじめてだった。不幸にも亡命せざるを得なかったジルは、幸運にも多くの音楽を吸収して帰国した、こんな風に言えないことはない。
時代を近づけて、2000年代のジルの活動に話を戻したい。フォホー回帰、レゲエ回帰の作品発表/ツアーを行った後に、ルーラ大統領の下、文化大臣に任命された。それ以後は、グッと音楽活動の機会は減った。が、唯一大臣になってから以降に発表したのが、ライヴ録音の『エレトロアクースチコ』というアルバムだ。タイトルが「エレクトロ」と「アクースチコ」を合わせた造語であることから分かるように、エレクトロ・ミュージックの技術と、生のライヴ演奏を融合させようということがコンセプトだったこの作品では、オリジナル曲にカヴァー曲を織り交ぜながら、ジルらしい混血音楽を奏でている。ジルが昨年から行っている『バンダ・ラルガ』ツアーも、何か一つのルーツを掘り下げるタイプのコンサートではなく、『エレトロアクースチコ』路線のジルの混血音楽の魅力を万遍なく披露してくれるスタイルのコンサートだ。本年中に、『バンダ・ラルガ』というスタジオ・アルバムも発表されるとも聞くが、キーとなるタイトル曲「バンダ・ラルガ」を、國安真奈さんに訳して頂いた。一足早く「アフリカからインターネットまで」ジルのアイデンティティーが表現されたコンサートの中心曲を味わって下さい。
[今回のインタビューは、アルミール・シェヂアキがジ ルベルト・ジルの「ソングブック」発刊時に、ジルに行ったものから抜粋しています。]
(月刊ラティーナ2008年4月号掲載)
ここから先は
世界の音楽情報誌「ラティーナ」
「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…