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[2018.04]AFRO BAHIA 2018 〜アフロ・バイーアの静かなる新潮流〜メールインタビュー

メールインタビュー●宮ヶ迫 ナンシー理沙 texto por NANCI LISSA MIYAGASAKO


Xênia França

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©Thomas Arthuzzi

—— 生まれ育った環境や自身のストーリーについて教えていただけますか?

 私は、カンデイアスという沿岸部の街で生まれ、カマサリという工業都市で育ちました。両親は早くに離婚し、母に育てられました。想像力を育む場がたくさんある家で、普通の幼少期を過ごしました。テレビやラジオが大好きでしたが、最大の関心ごとはずっと音楽でした。母のLPを触るのが好きで、小さい頃から音楽は感動を与えてくれるものでした。音楽を体系的に学んだことはないけれど、父、ジョルジ・フランサは歌手で、それを少し受け継いだのかもしれません。ラジオを聴くのも好きな時間の過ごし方でした。サンバヘギをたくさん聴いて育ち、バイーアのブロコ・アフロ(オロドゥン、イレ・アイエ、ムゼンザなど)は私にとってスタンダードな入り口でした。他にも、ジャヴァン、ジルベルト・ジル、カエターノ・ヴェローゾ、エルザ・ソアレス、エリス・ヘジーナ、エヂソン・ゴメス、ボブ・マーリー、アフロ・サンバ...... マルガレッチ・メネゼス、ミルトン・ナシメントは特に影響力のあった人たちです。

 アメリカの黒人アーティストの作品も、ずっと存在感がありました。マイケル・ジャクソンが大好きで、彼の作品を飾った祭壇を今も家に残しています。マイケルの作品を通して、スティービー・ワンダーや、ジェイムズ・ブラウン、ホイットニー・ヒューストンなどの素晴らしいアーティストにも出会い、インスパイアを受けました。青年期に入って、カマサリ市のブラスバンドに入ってより音楽に近づきました。他のブラスバンドが集う大会などに参加する中で、徐々に音楽に真剣に向き合いたいと思うようになりました。私自身は特に何の楽器も演奏しないのですが、バンドの先頭にたつ〝モール〟と呼ばれる役をやっていました。その後、情報系の大学に入学したのですが、17 歳の時にモデルとして仕事をするためにサンパウロに引っ越すこと を決めて、そこからすべてがスタートしました。

—— バイーアで生まれた黒人にルーツを持つ女性として、どのように作品に影響を与えていますか?

 ソーシャルメディアは、異なる場所に散在していた若者を繋ぐことができたのだと思います。世界中の黒人の若者は流行する文学、音楽、ファッション等において新しい語法を再発明し表現してきました。私が子どもの頃はブラジル、あるいは世界の黒人の著名人は、現在に比べ1割もいなかったような気がします。私たちは、先祖や他の黒人の権力者たちが過去に闘い、長期間投資してきたことの結果なのです。私のアルバムは、北東部出身で、故郷を離れて生きる黒人女性をうつしだした作品です。私にとって、先祖性の原理に近づくことは、自身の文化保持や救出するという意味において非常に重要です。バイーア出身の黒人女性として、音楽や前に挙げたブロコ・アフロの詩を通して自らの個人性を称えることを学んで来ました。私自身の作品を通して自らの黒人性を自己肯定できたときに、私もこの価値観のプロモーターであることを自覚します。私たちは、エネルギーを蓄えきてきてこの時代に爆発したのだと思います。私たちは継続しているものの一部なのです。

—— これまでのキャリアで影響を受けた人物はいますか?

 幼い頃から聴いてきたいろいろな作品、黒人の先祖性、バイーアの文化から学んだことがサンパウロでの経験と混ざり合い私に影響しています。それは大地、環境、記憶、そしてイマジネーションからやってきます。

—— これまで最もよく聴いたアルバムを 5 枚挙げてください。

・Dangerous / Michael Jackson

・Radio Music Society / Esperanza Spalding

・New Throned King / Yosvani Terry

・Miseducation / Lauryn Hill

・Voodoo / D'Angelo

・Baduizm / Erikah Badu

5 枚よりもたくさんありますが、この 6 枚は外せません。

—— 日本の読者やリスナーへのメッセージをお願いします。

 最初のアルバムを作ろうと決めたとき、自分のヒストリーを語りたいと考え、自らキュレーションしました。日本でアルバムをリリースすることになるなんて想像もできなかったので嬉しくて仕方がありません。言葉は壁にならないのですね。音楽は私たちを繋げていく。先祖や人々の間にあるエネルギーから生まれた私の作品は、繋がっていくための扉。きっと、愛というとてつもないエネルギーによって私たちは繋がれているのだと思います。このアルバムに込められた愛に共感し、作品を通して自身の中にあるポジティブで美しいものを見つけ、それを世界に放ってもらえたらと思います。いつか、みなさんに生でこの作品をお届けできることを楽しみにしています。

AIACE

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©Matheus Leite

—— 生まれ育った環境や自身のストーリーについて教えていただけますか?

 私の音楽的ストーリーは、母のお腹の中にいたときまで遡ります。両親は、生まれてくる子に歌手になってほしいと夢を託し、将来アーティスト名を選ばずに済むように Aiace〈アイアッシ〉と名付けました。言葉を覚えたのと同時に歌い始めて、1歳8ヶ月の時にはカエターノ・ヴェローゾの「O Ciúme」、ハウル・セイシャスの「Mosca na Sopa」、作曲家でドラム奏者の父ジレノ・フェリックスの曲やブラジルを代表する作曲家の曲を歌っていました。家では、幅広くいろんな音楽を聴いていました。ボブ・マーリーのレゲエ、トロピカリアの歌手達、ルイス・メロヂア、ザ・ビートルズなど。サルヴァドールの中心地区から少し離れたラウロ・フレイタスという地域で生まれ育ちましたが、幼い頃は、アーティストである両親の友人たちが父と作曲をするために、週末うちに集うものでした。遠かったのを言い訳に、うちに来ると皆泊まっていくので、音楽三昧のフェスタが繰り広げられました。ギター演奏や歌のホーダ〈輪〉、作曲活動が行われていた環境の中で育ちましたから、私の音楽形成において多大な影響を与えたことは間違いないです。

—— バイーアで生まれた黒人にルーツを持つ女性として、どのように作品に影響を与えていますか?

 バイーアは、アフリカ大陸以外の地で黒人の比率が最も多い州ですが、今でも差別は根強く残っています。黒人文化の再評価や活動スペースは以前よりも広がりましたが、社会的な格差の実態からも見て取れるように構造的な偏見を解決するのは困難です。私の置かれている立場はとても優遇されていて、例えば環境の整った私立の学校で学ぶことができたというようなチャンスに恵まれていました。だからといって偏見や差別を全く感じてこなかったわけではありません。10 代のころ、街のショッピングセンターでパトロールをする守衛に目をつけられることもしばしばありました。人間関係のなかで除外されることも、黒人女性なら誰もが経験していることを私も経験しましたし、世の中で売られている商品が私の身体的特徴に当てはまらないものばかりだったということも覚えています。サルヴァドールの街を女性が一人で歩いていると、嫌がらせに遭うことは度々ありますが、それが黒人ならその頻度はなお一層酷いということも。それら全ては私の肌の色に関係するものでした。若い頃はこの社会への所属意識が持てないこともありましたし、現在ほど黒人女性アーティストがいませんでした。自分を投影できる存在というのは、社会への所属意識や、自己の安定、安心を得るための促進要素だと思います。 現在は、社会の目立つ場所に黒人女性が進出していて、私もその世代の一人であることを光栄に感じます。そのなかで、私が今やっている音楽は、私のこれまでのヒストリーと、さらに言えば我々の先祖が背負ってきた夢や歴史の結果であると言えます。黒人をルーツにもつ私たちが、目立つ場所に立ったとき、それは個人的な成果ではなく、私たちの先達が闘って切り開いた成果であると理解しています。だから、このスペースに感謝すべきだと。そういうなかで歌うということも、政治的な行いだと思っています。

—— これまでのキャリアで影響を受けた人物はいますか?

 音楽家であった両親の影響で幼いときからたくさんの音楽と触れ合ってきたことが、間違いなく影響しています。母はいつもCDやレコードをプレゼントしてくれてエリス・ヘジーナ、ミルトン・ナシメント、エリゼッチ・カルドーゾ、シコ・ブアルキなどを知りました。素晴らしい歌手であるラッツォ・マトゥンビは父の良き友人で私にステージで歌うきっかけをくれた人でもあります。歌手への道を進むと決意したのは、算数の宿題をしながら、マリーザ・モンチの『Barulhinho Bom』を聴いていた11 歳のときでした。そのアルバムを聴きながら、なんとも言葉にできない感情が湧きあがってきて、私も聴く人をこんな気持ちにさせる人になりたいと、聴く人が一瞬でも全てを忘れて音楽に身を任せられるような、そんな音楽を奏でる人になりたいと思いました。だから、マリーザ・モンチも私がこの道を選ぶきっかけをくれた人です。

—— これまで最もよく聴いたアルバムを 5 枚挙げてください。

5 枚だけ選ぶのってとても難しいですが......

・Barulhinho Bom / Marisa Monte

・Clube da Esquina / Milton Nascimento

・Voz e Suor / Nana Caymmi e César Camargo 

・Transa / Caetano Velozo

・Acabou Chorare / Novos Baianos

—— 日本の読者やリスナーへのメッセージをお願いします。

 まずは、日本のみなさんにこうして私のことを語る機会がとても嬉しくて感謝でいっぱいです。そして、バイーアのミュージックシーンはいま躍動していて、極めて多様であることをお伝えしたいです。新しく知るべきことがたくさんありますよ!

LUEDJI LUNA

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©Danilo Sorrino

—— 生まれ育った環境や自身のストーリーについて教えていただけますか?

 私は、サルヴァドール出身です。カブラという地区で生ま れ、ブロタスというところで育ちました。今は、サンパウロとサルヴァドールを行き来しながら生活しています。音楽は、両親が聞いていた音楽にとても影響を受けました。ミルトン・ナシメント、ルイス・メロヂア、ジャヴァンその主な人たちで、それから、グレゴリー・アイザックス、アルファ・ブロンディ、ピーター・トッシュ、エヂソン・ゴメスなど父が聴いていた 80年代のレゲエ全般...... そうして、低音と管楽器に夢中になりました。そんななかで特に大きく影響し、私にとって学びの場となったのは、〈ハシオシーニオ・レント〉でした。バトゥーカし(太鼓をたたき)に我が家の中庭に集まった、父の職場の仲間たちが演奏し、ブラジルの一番いい大衆歌集を歌うのを聴きながら毎週末を過ごしました。そんな子ども時代を過ごしました。
 今、取り組んでいるプロジェクト「Um Corpo no Mundo」では、アンゴラ、カーボ・ヴェルデなどの音楽を参考にして研究しています。マイラ・アンドラーデ、サラ・タヴァーレス、アリニ・フラザォン、そしてバントゥの言葉で曲をつくるバイーア出身のチガナ・サンタナの作品や活動にとても共鳴します。

—— バイーアで生まれた黒人にルーツを持つ女性として、どのように作品に影響を与えていますか?

 バイーアで生まれたことは、私には恵みをもたらします。アフリカ以外でもっとも黒人度の高い街、サルヴァドール出身で、活動家の親の元で育ち、そういう教育を受けました。70 年代、80 年代に活発に活動していた活動家のもとに生まれた世代で、私はそんな親たちの政治的プロジェクトの一部であり、政治は家族の朝の食卓の中心的な話題でした。政治に無関係な芸術をつくるなんて、不可能なのです。まず、黒人女性としての自らの尊厳と生存を保証するために、そして私も活動します。私たちという存在を守るために、先祖が闘ってきたことに対して責任を感じるし、その闘いがあったから私が私でいることがいま許されるのだから。責任を感じます!

—— これまでのキャリアで影響を受けた人物はいますか?

 いいえ。反対に、私と音楽の関係性は常に否定の関係にあって、25 歳のときに歌手になって初めて自分を肯定し理解することができました。

—— これまで最もよく聴いたアルバムを 5 枚挙げてください。

5 人ならなんとか名前を挙げられます。

Youssour N’oudour、Trace Chapman、Edson Gomes、
Milton Nascimento、Vanessa da Mata

—— 日本の読者やリスナーへのメッセージをお願いします。

 いつか日本を訪れられることを楽しみにしています。近い将来だといいな。Abraços(ハグ)!

(月刊ラティーナ2018年4月号掲載)


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