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[2021.04]【TOKIKOの 地球曼荼羅⑨】ベトナム戦下のサイゴンから届いた歌 ─ 作曲家、チン・コン・ソン没後20年

文●加藤登紀子

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 4月1日はベトナムの作曲家、チン・コン・ソンさん(1930 - 2001)の亡くなった日、今年没後20年になります。
 一昨年、ホーチミンのオペラハウスで開かれたメモリアルコンサートに私はゲスト出演。素晴らしいベトナムの歌手たちと共に彼の歌を歌ったのです。没後20年の今年は彼の出身地、フエで盛大な野外コンサートを開くので必ず来てください、と言われていたのでしたが、このコロナ禍で開催が中止になったのでしょう、何もコンタクトがありません。残念です。

ひとり寝

『ひとり寝の子守唄』(1969年)

 チン・コン・ソンという名前が日本で初めて知られたのは1968年、テレビ局のディレクターがベトナム戦下のサイゴンで行われた反戦フォーク集会の音源を持ち帰り、その中の曲をフォークシンガー高石ともやさんが日本語に翻訳して紹介した「坊や大きくならないで」が最初でした。
 私はアルバム『ひとり寝の子守唄』の中でこの曲を歌っています。
 その後、1970年の大阪万博の時、チン・コン・ソンの曲を歌って「サイゴンの歌姫」と呼ばれたカーン・リーが来日し、この時、高階真さんが彼女の歌に日本語の歌詞をつけて日本でレコーディング、「雨に消えたあなた」というタイトルでソノシートで発売したのが「美しい昔(ジェム・スワ)」。この歌が素晴らしく、たくさんの歌手に歌われ、私も大事に歌ってきました。

中国コンサート・ライブ_ハルピンの夏

『ハルビンの夏』(1981年)

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『Tikiko - Cry』(1997年)

 1981年、初めて生まれ故郷で歌った『ハルビンの夏』というライブ盤のボーナストラックとしてスンガリー(松花江)の畔でギターの弾き語りで歌ったバージョンと、1997年アルバム『Tokiko - Cry』にピアノ一本でレコーディングしたものとあります。
 この二つの素晴らしい歌との出会いがメーンストーリー。けれど、それだけでは終わらなかったこの二人と私の稀有な出会いがもう一つの物語です。

 ベトナム戦争は、第二次大戦終結後、ホー・チミン率いるベトナム軍がフランスからの独立を勝ち取った時、ジュネーブ協定でベトナムが南北に分けられた悲劇から始まりました。ホー・チミンが北から、アメリカの傀儡政権だった南に、戦いを挑んだことに端を発します。
 アメリカが本格的に北爆を開始し、泥沼のベトナム戦争として長期化し、最後は1975年4月30日、アメリカ軍の撤退したサイゴンに北ベトナム軍が進駐し終戦を迎えます。アメリカ軍と南ベトナム軍が敗北し、ベトナムは一つの国になったのです。
 ところがその時、南ベトナム軍として戦った軍人や兵士や家族の多くが、ボートピープルとなってアメリカに渡り、今もアメリカのカリフォルニアに、もうひとつのベトナムがあると言われています。

 ベトナム戦争の最中、反戦歌を歌ったカーン・リーは夫が南ベトナム軍の軍人だったため、子供と一緒にアメリカに渡り、作曲家のチン・コン・ソンはベトナムに残りました。
 私がこの二人と出会うことになったきっかけは1982年、カーン・リーが東京のラジオ局の企画したアジア・ミュージック・フォーラムに招かれ、一緒に出演していた私のバンドの伴奏で彼女が歌うことになったことからでした。そのライブの本番で、ベトナムのチン・コン・ソンと電話で繋ぐというドキドキの仕掛けがあり、私がその取り持ち役になり、二つのベトナムという今も続く悲劇を知ったというわけです。

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キャプションを入れます

この本の中にはチン・コン・ソンとカーン・リーの物語が詳述されています。

 1997年突然、カーン・リーから電話があり、NHKの「家族の肖像」という番組収録で、お忍びでベトナムに帰国した帰り、日本に立ち寄ったので会いたい、と。もちろん私は飛んで行きました。
 彼女はベトナムではまだ名前を出せず、歌うことは許されず、チン・コン・ソンとの共演は叶わなかったのです。

1997,2,1 カーン・リー

カーン・リーと加藤登紀子(1997年2月1日)

1997,5,12チン・コンソン

チン・コン・ソンと加藤登紀子(1997年5月12日)

 私はその年の夏の日比谷野音のコンサートにこの二人をゲストに招き、共演を果たして欲しいと思い立ち、ホーチミンのチン・コン・ソンに会いに行ったのです。それがチン・コン・ソンとの初対面。
 この時の濃密な時間は、素晴らしい詩のように残っています。
 私の著書「運命の歌のジグソーパズル」の中に詳述していますが、チン・コン・ソンさんから溢れ出す言い知れぬ「哀しみ - エレジー」が心に残りました。

 お会いしたのは午前でしたが、お部屋は太陽の日が入らないようにほぼ真っ暗で、出されたのは炭酸水でしたが彼のグラスは琥珀色。
 ふと見ると、彼の足元にはブランデーのボトルがありました。
 私は「私のグラスにその琥珀色のものを入れて欲しいわ」と、目線でサイン、敏感にわかったチン・コン・ソンさんは、ブランデーを注いでくれました。
 なんとなく「乾杯!」から始まった対話。
 「僕は、詩を書くときも曲を作るときも絵を描くときも、酔っ払っていなかったことはないんですよ。そうしてなくてはいられないほど、苦しいことが多かったからね。」と。

 そして「ベトナムの人は、忘れることと、許すことが上手だね。そうでなきゃ生きていけないのです。」

 私は「どうしてあなたはベトナムに残ったのですか?」と尋ねた、その時の答え。
 「人は果物や野菜と同じで、その土地でないと咲けない、実れないのです。私はここにいるから詩が書ける、曲が書けるのです。」

 「では、この国を出て行った人をどう思いますか?」と聞いたらこう返ってきた。
 「あの時はここは地獄でしたから、誰だって外に出て行きたかった。無理もないことです。」と。

 ホーチミンと呼ばれるサイゴンに残った彼は、その後10年ほどは自由に創作ができなかったそうで、収容所のようなところに収容された時期もあったと聞きます。
 私がお会いした1997年、彼は再び若い歌手に曲を書き、大ヒットを飛ばしていて、押しも押されもせぬベトナム随一の作曲家として活躍を始めていました。
 「この夏に日本に」とお願いしたら、「体が許せばね」と答えて下さったのでしたが、結果無理でした。それがただ健康の問題だったか、なんらかの政治的な理由だったかはわかりません。

 このご縁は1999年、ピースボートがダナンでこの二人の共演を、と動きだし引き摺ることになりました。
 このダナンでのコンサートはチン・コン・ソンも3人のジャズバンドで歌い、若いスター歌手も参加、私は娘のYaeと一緒に出演、ですがカーン・リーはアメリカ在住のべトナム社会が許さず、来ることはできませんでした。
 私が代わりにYaeのピアノで「美しい昔」を歌ったのでしたが、本当のところ、もうすでに人々の思いは戦争の時代から離れていたのかもしれません。
 最後のフィナーレは私の「Never Give Up Tomorrow」の大セッションで、大きな盛り上がりになったのでしたが、終わった後、彼は、「会場の微妙な反応はなかなか厳しいものだった」と苦笑して言ったのです。

 この日が私とチン・コン・ソンさんとの最後の日になりました。
 2001年4月、事務所に知らない日本人からの一本の電話があり「チン・コン・ソンさんが亡くなりましたよ。」と。
 「どうして私に知らせて下さったのですか?」と尋ねたら、
「彼の部屋にあなたの肖像画があったので」とのお答えでした。
 そういえば、一度ベトナムにコンサートで行った時、ちょっとでいいから部屋に、と言われてお訪ねしたことがありました。
 その時にざっとした私の輪郭を描いて下さっていたのでした。

 ダナンのあの日から20年、2019年4月1日、チン・コン・ソンさんの没後18年メモリアルコンサートのゲスト参加するために私は久しぶりにベトナムへ行ったのです。
 迎えてくださったのは2人の妹さん、命日のこの日、ブックストリートと呼ばれる通りに人々があつまり、追悼のイベントが開かれており、私も打ち合わせなしでバンドの伴奏で「美しい昔」を歌ったのです。
 そのまま彼の命日でみんなが集まっている自宅に。1997年お尋ねしたままのお宅で仏壇にお参りをして、彼のアトリエに。そこには私の肖像画がありました。そして、上の妹さんが私のためにと作ってくださっていた黒いベルベッドのアオザイを彼のベッドルームで試着したのです。
 4月2日、3日の2日間行われるコンサートを、このアオザイで歌って欲しい、というのです。
 採寸もしていないのに、アオザイはピッタリ体に合い、驚くと同時に、こんなに年月が経っているのに、まるで身内のように迎えてくださることに感動しました。

チン・コンソン妹

チン・コン・ソンの妹と(2019年4月)

2019.4 チン・コン・ソン  メモリアル音楽祭

チン・コン・ソン メモリアル音楽祭(2019年4月)

 このコンサートでは、彼女たちの強い希望で「美しい昔」の他に「坊や大きくならないで」をぜひと言われて歌ったのでしたが、よく聞いてみると、ベトナムではこの歌が禁止歌になっているというのです。日本語ならという条件で、許可をもらったと。
「坊や静かにおやすみ 私の坊や
 あなたもいつか大きくなるわ、戦に行くわ、血に染まるでしょう。
 坊や大きくならないで そっと眠りなさい」

 戦いに行くことを拒否する歌を、今のベトナム政府は許していない! この事実を知り、私なら歌っても良い、と言う微妙な立場で歌うことになったのです。間奏部分でよかったら加わって、と言ったらサックス奏者が絶妙のソロで参加してくれました。
「昔、チン・コン・ソンとこの歌をよく演奏したんだよ。」と。

 1982年はじめてカーン・リーにあった時から、2人の共演を願ってきたのは、結局私の独り相撲で空回りだったのか、と泣きたいほどの思いでいたけれど、ほんの少しは、彼らの心に灯をともしていたのかもしれない、と思ったのです。
 チン・コン・ソンさんの言葉が改めて響きます。
「何より悲しいことは、私たちが同じ国のもの通しで戦争をしてしまったことです。その傷は永遠に消えないのです。」
 外から見ていると考えられないほど理不尽だけれど、それぞれの歴史には、どうにもならないことがあるんだ、と肝に銘じておきたい。と思います。

(ラティーナ2021年4月)



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