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[1982.09]連載④ アストル・ピアソラ物語〈ロコの時代〉

この記事は中南米音楽1982年9月号に掲載されたものです。
アストル・ピアソラは、1921年3月11日生まれ。ピアソラの生誕100年を記念し、当時の記事をそのまま掲載いたします。
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文●高場将美

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1 出会ったひとびと、失ったもの

 占星術の本をおもちなら、どれでもよい、双魚宮(うお座)のところを開いてごらんなさい。そこに書いてあることはすべてアストル・ピアソラにぴったり当てはまる。
 いわく——自信家、強すぎる自尊心、人生行路での大きな変化、想像力、エネルギッシュにみえるが神経がこまかい、理想家、音楽家に向いている、強い意志とさかんな直感、自己犠牲をいとわずひとに理解されない、放浪癖、記憶力、二重人格、ゆたかな感受性。精神はおちついていることを好まず、自分自身に不満をもつため、いちど始めた仕事をまた最初からやり直したがる……
 まるで占星術師をよろこばせるために生まれてきたような人だ、このアストル・パンタレオン・ピアソラは。
 彼の人生にはいくつかの重要な出会いがある。
 最初は父ノニーノであった。この人の血がアストル・ピアソラをつくった。イタリア系の家長らしく、ひとり息子にすべての愛を注ぎこんでいた。 
 音楽家になったピアソラの先輩で良い仲間だったのがバイオリン奏者ウーゴ・バラリス。タンゴ屋の世界の道案内役にもなった。そのバラリスの縁結びで、ピアソラはデデを知り結婚する。
 デデもまたピアソラのために自分を犠牲にした。画家になりたかった女性だが家庭にひきこもった。ピアソラにとって理想的な妻であったろう。
 音楽的にピアソラを作りかえてくれたのがアルベルト・ヒナステラだった。そしてフランスでナディア・ブランジェがピアソラに自信を与えてくれた。
 アストル・ピアソラの楽団には、いつも最良の音楽家たちが集まってきた。それはピアソラの音楽の個性と内容の高さが磁力になっていたのだが、すべての点でピアソラは、まわりの人間に恵まれていたといえよう。この稀有の音楽家、数十年に一度あらわれるかあらわれないかという偉大な個性には、それにふさわしい周囲のひとびとが自然に形づくられていったようでもある。
 そしてピアソラは、誰のものでもない自分の道を、上ったり下ったりしながら進んでゆく。曲がりはしないが、決して平坦な道ではない。
 ニューヨークでどん底にあったとき、ピアソラは父の死を聞いた。彼の失ったいちばん大きな人間だったろう。
 その直後にピアソラは、初めて安定した活動に入る。ショック療法になったのだろうか?
 そして4年後、地位が確立し、人気者として若者の支持を受けていたピアソラは、自分から妻デデと子供たちを捨ててしまった。このころピアソラは創造力の枯れたのを感じてあせっていた。妻でない女性の出現と、仕事の上の行きづまりと、どちらが先だったのか? どちらかが、どちらかを誘発したのか?
 本当のところは、ふたつが同時におこったようだ。世の中はだいたいそういうものである。
 離れた方が自分のためだとわかっているのに離れることのできない女と住み、さかんな演奏活動をしながら創作欲はまったく満たされていない。頭がカラッポになったピアソラは非常なスランプに沈んだ。
 64年後半からの約3年間。この間に、いま日本でも出ている多くのLPを録音し、演奏はたいへん安定して円熟し、重みと深みがある。聴いている方にとっては、充実期だったのである。
 本人のピアソラは、自分はもう駄目だと思いこんでいた。冷静でなかったんだろうね。

2 オラシオ・フェレール/詩人

 アストル・ピアソラは自身が音楽家として終わったと結論をくだした。出口が見つからなかった。どうやって生きるベきかわからなかった。
 妻と別れてから迷信家になったというピアソラは、アルゼンチン最高の占星術師に相談にまで行った。ご託宣は、今のところ仕方がない。もうすぐ、あなたの人生を救う人間が出てきますということであった。
 予言どおりの時に、オラシオ・フェレールが、長詩のスケッチをもってピアソラの家にやってきた。
 ブエノスアイレスのマリア……。タンゴの世界の処女マリアの物語である。超現実と象徴のなかにタンゴとその人間の本質を描く場末の地獄のための宗教曲。
 ピアソラは、この物語に音楽をつけることが、自分を救うのだと直感した。今日のピアソラのために、いちばん重要な出会いであった。
 ……ピアソラの救世主となったオラシオ・アルトゥロ・フェレールは、ウルグアイの詩人であり、タンゴ・マニアだった。純粋なタンゴ・ファンで、真の研究家。《クルブ・デ・ラ・グアルディア・ヌエバ》という素晴らしいファン・クラブのリーダー格であり、会報を発行し、謄写版印刷のその本 (内容はどんなタンゴ書よりも充実していた)に最高のタンゴ論文を書き、カリカチュアを描いた。
 ピアソラを真似して作曲し、演奏したこともある(ファン・クラブのコンサートで)。ピアソラほかの売れない、すばらしい音楽家のコンサートも数多く主催してきた。非常にすぐれたタンゴ史の本を書いており、後年のことだが『タンゴの書』という、エッセーと百科事典の大作をものしている(今日タンゴのバイブルだ)。
 フェレールは常にピアソラの熱狂的ファンだった。ファンレターを書き、返事をもらって感激したこともある。
 演劇理論をまなびハンドネオンを習い大学(4年で中退)では建築学をおさめた。新聞にアルゼンチンとウルグアイの文化現象についてのエッセーを連載し、ウルグアイ大学につとめ、ギター伴奏(アグスティン・カルレバーロ)で自身の詩をよむレコードを録音した。
 オラシオ・アルトゥロ・フェレール。ピアソラの12歳年下。

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左から、オラシオ・フェレール、アメリータ・バルタール、アストル・ピアソラ(68年)

3 アメリータ・バルタール/歌い手

 フェレール詞、ピアソラ曲によるオペリータ(小ちゃなオペラ)『ブエノスアイレスのマリア』は、68年5月8日、プラネータ劇場で幕をあけた。作者たちが経費を出して興行したもので(ポスターも自分たちではった)、収益はあがらなかったが、反響はすばらしかった。ブラジルの音楽家たちが見に来たほどだ。このような劇的音楽作品について、ブラジルのシコ・ブアルキやヴィニシウス・デ・モライスと、ピアソラ=フェレールは密接な関係があった。イニシアチブはブラジルにあったようだが、『ブエノスアイレスのマリア』はブラジルの創作者たちに大きな刺激と影響を与えてもいる。
 マリアの役をつとめた女性歌手アメリータ・バルタールは、ピアソラの情緒生活を救った。彼は悪女とはっきり別れ、アメリータと一緒に住むようになる。
 アメリータ・バルタール。ピアソラより約20歳年下。前衛的な、短命だったが高度なフォルクローレ5重唱《キンテート・ソンブラス》のメンバーだった。その後、フォルクローレの個性的なソロ歌手となったが、有名にはなれなかった。ピアソラとの共演からスターになったのである。
 声は低く、太く、力強い訴えをもつ。語りかけをたいせつにするので、音程が犠牲になることがある。だから、ピアソラと結婚したとき、悪口屋が言った。
「恋は盲目というけれど、ピアソラの場合は恋でツンボになった」
 歴史的な『ブエノスアイレスのマリア』の主役をつとめる直前に、アメリータはマルデルプラタにおける国際レコード・フェスティバルの新人賞を受けて、初めてのソロLPを録音していた。
 アストルとアメリータの、音楽でも結びついた愛情生活はかなり長く続いた。その限界が見えてきたのは71年の末ごろだろうか。アストルはそのころ『AA印の悲しみ』という曲をつくった。
 AAはバンドネオンの商標。この曲のテーマは、半世紀をこえるバンドネオンのひびきの歴史であり、タンゴの悲しみの追求である。しかしAAはアストルとアメリータでもあったとタンゴ界のひとたちはいう。
 AAが正式に別れるのは、この曲の2〜3年後で、ゆるやかな暗い過程であった。その後ピアソラは、元アナウンサーで美人司会者だったラウラとの、しずかな家庭生活に入る。
 アストルとアメリータとの結婚生活がなぜ破れたのか。ピアソラの親友のひとり、彼が初めてパリに来たときから世話をしている、パリ在住のタンゴ音楽家エクトル・グラネーはこう言う。AAがヨーロッパ公演に来たとき、アストルが打ち明けた話から……。
「アメリータは若い。情熱的だ。そして女である。家に帰ってきたら、いつもアストルに抱いてもらいたい。でも、アストルはそんなにもう若くない。彼は音楽に生きている。家に帰ったら休み、考えたい」
 これは、ひとつのたとえ話であって、肉体的なことだけではない。
 アメリータと別れるときのアストルの声明がカッコいい。
「アメリータはミュージックホールのスターになりたい。私はその伴奏者になるのはごめんだ。
 ミュージックホールのばらの命は短いものだ。すぐ枯れるだろう。しかし私の音楽は永遠に残る」
 AAの、どちらのAがどちらを支配するかという問題だった。この闘争的なAAの結びつきが、アストルに大きな刺激を与え、作品を生みだしたことはたしかである。しかも、別れるときのアストルは、今までよりもずっと断固として、厳然たるものだった。成熟したのだ。

4 ロコ!ロコ!ロコ!

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 60年代末のピアソラは興奮し、高潮期だった。『ブエノスアイレスのマリア』につづいて、フェレール詞、アメリータ歌の曲がどんどんできる。『チキリン・デ・バチン』『最後のグレラ』……
 新しいタンゴのクラブ《ミケランジェロ》に出演。中世的な地下室での5重奏団(歌手アメリータと男性のエクトル・デローサス)での演奏に、ピアソラは環境の良さも加わって気をよくした。『ブエノスアイレスの秋』から冬、春まで一気にできてしまう。前衛映画『鼓動』の音楽が生まれる。歌曲も器楽曲も、どんどんわきあがった。
 69年には、ブエノスアイレス市主催の第1回イベロアメリカ歌と舞踊フェスティバルで、フェレール詞、アメリータ歌『ロコへのバラード』発表。2位だったが、話題を独占した。タンゴなのに、一部にワルツのリズムがあるとは何ごとぞとか、くだらないことまで議論になる。この曲は、レコードではロベルト・ゴジェネチェ版が、絶妙のブエノスアイレスなまりの語りで大ヒットした。
 ピアンタオ(いかれてる)、ロコ(きちがい)がくりかえされるバラードに現われたものは、何ものをもおそれない若さであり、大胆さだった。沈んでいたピアソラが、15年前の狂気をとりもどしたのである。
 さらに、音楽家としては、ありふれたモチーフから魅力的な流れを生みだす、職人的な安定をつかまえた。たとえば、『チキリン・デ・バチン』のモチーフはクラシック(ロマン派)の有名なピアノ曲と、まず同じといってよい。それでいてブエノスアイレスらしい。
 狂気と、良識のコントロールをともに持つことができたピアソラは、ロコ!ロコ!ロコ!のバラードと共に、スターになった。「売れる」音楽家になってしまったのである。居直ることができるようになった。
 40代もなかばを過ぎて、アストル・ピアソラは、できあがった。若々しいと評される不断の活動、自信と不動の地位。外国での演奏もさかんになる。フェレールやアメリータと一緒に、アルゼンチンのせまいフィールドでは満たされない動きをひろげた。
 ロコ!ロコ!ロコ!それは激しい不条理な愛への讃歌だった。おとなが失ってしまった夢の復活だった。ブエノスアイレスの空気がもっているはずの情熱への伝染病菌をとりだしていた。だから、ヒットした。この曲を作ったものも、歌ったものも、聴くものも、もう失ったことだったかもしれない。でも欲しかった。

Loco初演69

(中南米音楽1982年9月号掲載)

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