[2022.1] 『ユンヒへ』 ⎯ 降り積もる雪に凍った心を新たな時代の空気と人の温もりが優しく溶かしてゆく。
『ユンヒへ』
降り積もる雪に凍った心を
新たな時代の空気と人の温もりが
優しく溶かしてゆく。
文●圷 滋夫(映画・音楽ライター)
人はハグをすると、脳内にオキシトシンという “幸せホルモン” とも言われる成分が分泌され、相手に対して優しい気持ちになれるという。このことは既に科学的にも証明されていて、実際に試してみれば誰もがその感覚を実感出来るはずだ。そして本作を観れば、やはり登場人物に対するじんわりと染み渡るような温かな気持ちで心が満たされ、自分が少しだけ優しい気持ちになっていることに気付くだろう。
韓国で暮らすシングルマザーのユンヒ(キム・ヒエ)に、20年以上前に別れて今は日本で暮らすジュン(中村優子)からの手紙が届く。ジュンは20歳の時に韓国人の母と日本人の父が離婚し、韓国を離れて父と一緒に日本に移り住むが、すぐに北海道の小樽に住む伯母マサコ(木野花)と一緒に暮らすことになる。そしてユンヒが受け取ったジュンの手紙は、本当はこれ迄の何通もの手紙と同様に出されるはずもなかったのだが、なぜかマサコがジュンに内緒で投函してしまったのだ。そしその手紙を盗み見たユンヒの娘セボム(キム・ソヘ)は、二人がかつて恋人同士だったことを知り、偶然を装って二人を会わせようと画策する。セボムは母を旅行に誘い、一緒に小樽へと向かうが……。
本作ではユンヒとジュンの過去と人となりが、まるでミステリーのように少しずつ明かされてゆく。しかしその表現は決して扇情的でも思わせぶりでもなく、長い時間をかけて降り固まった雪の塊を、少しずつ丁寧に溶かしてゆくように、二人の胸の奥に長年封印された心模様を静かに炙り出してゆく。セリフはいかにも雪国らしく訥々と語られ、映像は透明感のある冬の風景を登場人物の心情と重ねて繊細に映し出す。そして音楽はピアノを中心にチェロやヴァイオリン、木管楽器などのオーガニックな調べが響き合い、登場人物の想いに優しく寄り添っている。こうした自然な肌触りの表現だからこそ、二人の関係は性的マイノリティーという枠を超えてより普遍的な愛として昇華され、多くの人の胸に素直に届いて共感を得るはずだ。
しかし手紙の端々やユンヒとその兄との会話などからは、当時二人が直面したであろう同性愛者に対するあまりに過酷で理不尽な社会状況も見えてくる。そんな時代だったと言ってしまえば簡単だが、それが今もまだ改善されずに続いている部分もあるからこそ、二人が日常生活の中で漂わす、残りの人生に対する諦念にも似た感情(背景には日本における韓国人差別も匂わせている)に打ちひしがれてしまうのだ。そしてそんな未来への希望を持てない二人の凝り固まった心を解きほぐすのが、新しい世代のセボムだというのもまた動き始めた時代によることを示しており、LGBTQに対する寛容さがやっと開かれつつある今の空気を感じさせてくれる。
またセボムの計画に協力し、なかなかいい味を出している彼氏(ソン・ユビン)の趣味が、色々な物をリメイクすることだというのも、行き過ぎた消費社会に対するアンチテーゼのようでいかにも今風だ。。そして劇中で何度も繰り返しつぶやかれる「雪はいつ止むのかしら?」という言葉の「雪」が、女性の、そして様々なマイノリティーの生きづらさを象徴するものだとすれば、高く積もった雪が溶けるのは「春」であり、セボムの「セ」は「新しい」、「ボム(ポム)」は「春」、つまりセボムが「新しい春」を意味することもまた象徴的であり、とても感慨深い。
そんな美しい雪の風景を小樽で撮った理由を、イム・デヒョン監督は岩井俊二監督『Love Letter』からの影響だと語っているが、他の影響については特に言及していない。それでもいくつか他にも(デヒョン監督が意図しているかどうかは別として)この二つの作品には共通点がある。そもそも手紙というアイテムが両作とも重要なモチーフになっていて、手紙に書かれた住所を頼りに家を探しに行く。そして手紙のやり取りをするのは両作とも女性同士で、雪の中の墓参りのシーンも出てくる。また具体的なシーンの状況だけではなく、儚く美しい映像やアコースティックで切ない音楽から受ける印象や、鑑賞後に湧き上がって来る感情も、やはり似ているように思える。
余談だが1995年に日本で公開された『Love Letter』は、韓国では日本文化が段階的に解禁され始める1998年以前から、映画好きの間で大量の海賊ビデオが出回るほど有名で、1999年に正式公開されてからは中山美穂の印象的なセリフ「お元気ですかー!」が流行語になる程の大人気となった。1986年生まれのデヒョン監督が、もし思春期にこの作品を観てそれが本作にも繋がっているとしたら、個人的にはちょっと嬉しくなってしまう。また岩井俊二のフィルモグラフィーには、やはり手紙をモチーフとした日韓合作でぺ・ドゥナ主演の短編『チャンオクの手紙』(2017)や、それを長編にした中国映画『チィファの手紙』(2018)と邦画『ラストレター』(2020)もある。
最後に、本作には3回それぞれ違う組み合わせでハグをするシーンがある。いずれも分かりやすく感情を伝えるような言葉はなく、ただただ抱き締め合いながら相手のことを思い、優しい時間が流れる。またセボムは両親が離婚する時に母親を選んだ理由を「パパより寂しそうに見えたから」と語り、ジュンは父親を選んだ理由を「父は私に関心がないけど、母は私のことばかり気にして、私のせいで自分自身を責めていた」と語る。どちらも自分の望みというより相手を考えての選択だ。このように本作には我を張って自分を押し付けるような人物はほとんど登場せず、根底には相手を思う利他的精神が流れているように思う。その精神を象徴するのがハグであり、だからこそこのハグをする3つのシーンは心地良く、印象深く心に残るのだろう。
本作は韓国の権威ある映画賞、青龍映画賞で監督賞と脚本賞を受賞した他、多くの映画賞を受賞している。
(ラティーナ2022年1月)
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