[2024.12]『唄方プロジェクト』 ジャマイカへ行く♪(前編)
文●宮沢和史
日本のフォークソング、和製ロック、流行歌、演歌、ムード歌謡。自分の音楽性の基盤にあるのはそれらの音楽であることは間違いないと断言できる。物心ついた時から、いやそれ以前から耳に入ってくる音楽の量は圧倒的に日本産だったわけだし、自分が生まれ育つ環境において無意識に共感できたり、逆に未知なる異郷に思いを馳せたりと、日本製音楽はまさに自分の血肉が形成される過程においての滋養に他ならなかった。ただ同時に言えるのはそういった音楽を創造してきた作曲家、作詞家、編曲者、演奏家たちなどは、異国の音楽、ヨーロッパや南北アメリカ大陸をはじめ、そのほかの第三世界の音楽への探究心と憧れを少なからず自身の音楽制作のモチベーションとしていたということ。そういう意味では近代の日本のポピュラーソングはそもそもハイブリッドで、ミクスチャー音楽なんだと言っていいと思う。昭和の敗戦により生活も文化も外来化していく一方で、日本懐古という反対方向へのベクトルも共存し、この国では多種多様な独特な音楽シーンが発展していくことになる。
自分自身、海外の音楽だと最初に意識した音楽はやはりビートルズの作品だった。家にあったLP「Let it be」は音楽への好奇心を大いに掻き立ててくれた。ギター、ベース、ドラム、というバンドサウンドのアンサンブルを構成する楽器への興味を持つことを促された。中学生の頃(1970代の終わりから1980年にかけて)ロンドンやニューヨーク発の “ニューウェーブ” という新しい音楽のムーブメントが世界を席巻し、当然日本にも押し寄せてきた。音楽のみならず、カルチャーシーン全体がすっかり塗り変わるような大きな波だった。それ以前の正統派ロックや技巧派に移行しようとしていたロックの支持者の中にはその波に懐疑的な者も少なくなかったが、音楽的に思春期ど真ん中で、今までに見たことも聴いたこともないサウンドに魅了された自分は喜んでその波に飲み込まれていったのだ。ひとつとして同じようなタイプのバンドがない個性派揃いのシーンの中で、特に心を奪われたのが THE POLICE と THE SPECIALS だった。イギリスのロックの範疇にありながらも、そこにはかつて体験したことのないシャープでスリリングな疾走感を感じたのだ。のちに、彼らがジャマイカ発祥のダンスミュージックであるスカをロックのフォーマットに持ち込んで、本国ジャマイカには存在しないスピード感と、時には攻撃的でさえある新しいリズムを生み出したのだということを知る。今思えば、中学時代は教会の牧師の息子、そして、お寺の住職の息子である同級生宅でたくさんのレコードを聴かせてもらった。自分の家は新しいレコードを買い続けていくような環境にはなかったので、彼らから得る情報は大変ありがたかったし、たくさんの刺激を受けた思春期を送ることできて今でも感謝している。高校に入ると音楽仲間であり部活動も一緒だった同級生の家で彼が勧める音楽を聴かせてもらうのが大きな情報源。それらほとんどは自分の知識の外にあるものだった。中でもエリック・クラプトンがカバーしたボブ・マーリーの「I shot the sheriff」を初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れない。何よりもまずこのタイトルに心を撃ち抜かれた。その同級生の凄いところはオリジナルであるボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのアルバム「LIVE!」も合わせて所有していた点である。今のように世界の情報をリアルタイムで収集できる時代ではない状況で、よくこの二人を関連付け、2枚のLPを購入したものだ。エリック・クラプトンの作品はカッコ良かったが、「LIVE!」のボブ・マーリーとアイ・スリーズの魂から噴きこぼれるマグマと噴火のような歌声と、ザ・ウェイラーズの未体験のグルーヴの渦の虜にすっかりなってしまった。
このように、自分にとって、異文化に憧れ新しい音楽を生み出してきた日本産のポップスの中に居ながらにして、アメリカ・イギリス以外の文化圏で一番最初に強烈に影響を受けたのはジャマイカのスカでありレゲエだったのだ。そして、自分の音楽的価値観を形成していく上で忘れてはいけないのは国内・国外の垣根を取り払ったイエロー・マジック・オーケストラのメンバーたちの音楽活動との出会いである。彼ら三人もスカ・レゲエに刺激を受けていて、ご自身の作品のいくつかにその影響がうかがえる。
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