[2021.01]音楽が世の中を大きく変えた時代〜1974年、スペインの記憶
文●本田 健治 texto por Kenji Honda
COVID-19が相変わらず猛威を振るう中、世界中本当にいろいろなことがストップしている。このe-magazineも海外からの来日アーティストがないから、その紹介記事も組めない。弊社の招聘制作の仕事も止まったままだ。我々と特に関係の多い中南米諸国を見渡しても、コロナの勢いは増減の繰り返しで、ラテン諸国内での音楽イベントすらほとんどがストップ状態。頼みのワクチンが効くらしいことだけが唯一の望みと言うことか…。
しかし、世界にはコロナの感染上昇によって、都合の悪い話題が薄れていることも多々ある。例えば、ついこの間まで話題になっていたスペインのカタルーニャ問題。スペインというと、経済の方では少し前まで、EU圏でもかなり良い方向に向かっていると言われていたのに、3年前にカタルーニャの自治政府が中央政府の反対をおしきって独立住民投票を実施。結果は、圧倒的な差で独立の意思を示したが、中央政府は自治政府幹部や活動家を拘束。プッチダモン州首相はベルギーに脱出して、昨年の2月には、コロナ禍が叫ばれる中、カタルーニャに近いフランスのペルピニャンで大集会を開き、中央政府を刺激している。
2月26日の大集会から後もカタルーニャではコロナが激増している。もともとスペイン経済の中で、カタルーニャはスペイン全体の経済成長の原動力だったのに、近年は経済成長率が国内他地域の平均を下回った。今はユーロ圏第4位と好調だったスペイン経済の足をひっぱっている状態。なのに、この独立問題と独立派幹部の亡命、拘束…今は、これらが原因でさらなる不況。心配だが、とりあえず世界の視線からは一時離れた格好。あの独立住民投票に、同じ独立志向のバスク地方が同調しないか、心配されるが、実はバスクはすでに徴税権まで自治州が持ち、すでに財政上も高度な自治権を与えられているし、なによりバスクは鉄鉱石も算出するなど原料関係の心配もない。恐らく影響はないだろうといわれている。
8月、今度はフランコ亡き後、国王に即位、フランコ派のクーデターを命がけで阻止した前国王のフアン・カルロスが汚職疑惑で国外脱出の報。それも過去の愛人問題やその愛人がらみの巨額の汚職疑惑だ。コロナ時代でもどこにも負けていない、笑うしかないスペインのニュースも続いている…。しかし、コロナの収束どころか状況が悪化する中、そんな話題もマスコミ的にはすべてストップ状態だ…。
さて、私がはじめてスペインに出かける1974年と言えば、日本はずっと続けてきた高度成長がオイル・ショックで躓き、世の中に不安がよぎった時代。実はそれまで私の海外旅行といえば、69年に行った復帰前の沖縄だった。あのグラスファイバーの船底から覗けた色鮮やかな魚や珊瑚礁とは裏腹に、車は右通行、ひめゆりの第三外科壕跡の惨状には大きな基地...足許のはずなのに,感じた自分の無知さをずっと引きずっていた。大学時代と言えば、あの70年安保闘争の真只中、頭の中では世界を意識しながらも、どちらかというとフラメンコ一色。誰も知らない、パコ・デ・ルシアとリカルド・モドレーゴのLPからコピーばかりして盛り上がっていた。サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」やセルジオ・メンデスのブラジル66が世の中にはびこっていた。で、卒業後はレコード会社へ。オランダ資本の会社でヨーロッパや中南米の音源に強い会社で、ロス・インカスやバーデン・パウエルのLPは理由を誰も知らずにすでに良く売れていたし、世の中的にはようやくサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」やセルメンのボサノヴァが世の脚光を浴びたりした。しかし、それが南米起源の音楽と言うことには全く気にもとめていなかった。会社に入ってすぐ、ジョルジ・ベンや、バーデン・パウエルも来日していた。それでも、他のブラジル音楽も豊かで面白い事をまだ知らされていなかった。あくまでも欧米経由だからだ。そんな中で、パコ・デ・ルシアを筆頭にしたフラメンコ・シリーズ、クリスティーナ&ウーゴ、メルセデス・ソーサを核にしたフォルクローレ・シリーズ、新人だったガル・コスタや、ジル、カエターノ、ベターニアらを配したブラジル・シリーズと、はっきり南米起源を打ち出した質の高い企画を世に紹介できた。楽しかったし、忙しかった。英米が中心の業界に風穴を開けられたことだけでも、なかなか痛快ではあった。楽しかったし、忙しかったが、こんな会社なんかにいては何時までも海外なんか行けない。どうしても若いうちに現地の空気感を直接体験したい...その一心でアンカレッジ経由の飛行機に飛び立った。それが1974年春。
この頃、レコード会社で紹介したアーティストたちの中で、youtubeやSpotifyで紹介できるもの(時期がずれているものもあるが)はここに。
パコ・デ・ルシアは67年に,はじめて本格的なソロ・アルバムを録音したが、その中からは5曲目の「Impetu」、それ以外はすべてその後に録音された彼の代表曲ばかり。
ガルコスタは、みんなが十分知っているので、個人的に思い出のある曲を。本当は、「Tren Das Onze」のスタジオ録音とライブ録音を混ぜ会わせた最高のも探したがSpotifyにもyoutubeにもない、残念。「Eternamente」はGalが83年にリオのカネカゥン劇場で歌った大感激のライヴ。私もこの場にいて2年後の2度目の招聘を決めたが、頭の固いプロデューサーのせいで、ついに日本のステージでは何故か聴けなかった。ジョアン・ボスコの弟、トゥナイの作品。アルバムは「GAL Tropical」に。
メルセデス・ソーサは、まずスペイン語圏の力あるアーティストを紹介したい一心でレコード会社の倉庫から探し出した宝物「アルヘンティーナの女たち」の一枚から。名ギタリスト、リカルド・フランシアのギターがまた良い。でも、コピーしても無駄です。彼のギターはネックを長〜くして高音が足されていた。曲は「捕虜の女ドロテア」。インディオの捕虜になったドロテア・バサンは、国軍に救出されたが、育てられたインディオ酋長やその子供たちへの愛から祖国への帰還を拒否。国軍の隊長でジャーナリストでもあったルシオ・マンシーラが書き留めた「ランケルのインディオへの遠足」に書いたエピソードにフェリクス・ルーナが曲を書いた。他にビオレータ・パラ集にも良い曲が一杯なのに、Spotifyには現れない。
初めてのマドリード
マドリードでは、私が東京でフラメンコと出会い、毎晩通っていた新宿ゴールデン街のフラメンコ酒場「ナナ」の仲間の紹介で、同じ年の友人がマドリードで経営する大きな貸アパートに住んだ。面白いところには世界中の面白い人間が集まるものだ。毎夜いろいろな人間も尋ねてきた。そこに住む日本女性に恋をしてバルセロナからはるばるやってきた熱い男や、知的な若いフランス美人の立ち振る舞いに、家事のすべてをこなした昔の日本女性の美しさも垣間見るなど新たな発見もたくさん経験。フィリピンからやってきた女子大生は、親が当時のフィリピンの警察要人で、親が国内に居ては危険、とスペインの親戚に預けられていた...世界の問題を早くも肌で実感する......マドリード在住の友人(オランダの日系ホテルで板前をやっていた)のスペイン・マグロの寿司や、細スパゲティ代用の拉麺をすすりながらの話は、どれも新鮮だった。何より、彼らから初めて聞くフランコ政権下の市民の生活実態は興味深かった。
古いファシズムの権化、フランコ総統の末期で、すでにファシズム独裁の力は失いかけていたが、前年には後継と目されていたカレーロ・ブランコが真昼の市内でバスクのETAによって自動車ごと爆殺されたり、市民に発砲できるファランヘ党のグアルダ・シビルという国家憲兵もまだ街を闊歩していた。
さらにガルシア・ロルカの詩の全集が街の書店にはようやく並んでいるものの、ロルカが処刑された場所を撮影しようとグラナダにでかけた海外のジャーナリストが行方不明になった噂も聞いた。ロルカが銃殺されたのがピスナールの丘のオリーブ畑と特定されたのはまだその大分後のことだ。
とりあえず、スペインに来たのだからとレコード屋を覗くと、マドリードの大きなレコード店でもフラメンコ・レコードのスペースは東京の山野楽器のそれよりも狭く、フラメンコを聴くならアンダルシアに行くしかないと悟ったりもした。で、逆に当時のスペインでは、フリオ・イグレシアス、カミロ・セストなどのポップス系が一番。世界中何処でも一番売れているのはポップス系で、民俗音楽系などは都会では少数、という世界の常識を知ったのもこの旅からだった。しかし、そのポップス系でも当時のヨーロッパで一斉を風靡していたのが、アルゼンチンのアルベルト・コルテスの歌う「ノ・ソイ・デ・アキ」。曲を作ったアルゼンチンの反体制派歌手、ファクンド・カブラルがヨーロッパに亡命したのは1976年だから、コルテスがこの曲をヨーロッパ中で大ヒットさせた後のこと。何しろ、マドリードでは何処に行ってもこの曲が聞こえてきていた。
このアルベルト・コルテスは、私が帰国して大分経って、あるレコード会社と日本一の広告代理店がやってきて、彼をなんとか売り出したい、と。面白くなりそうだ、と身を乗り出したが、なんと日本語で録音して売り出したいと話が変わってきた。グラシエラ・スサーナじゃあるまいし。「う〜ん、彼がやると言えばおやりになって下さい。私は乗れませんので」と断ったら、暫くして話はなくなった....。
当時のマドリードは、もちろんシエスタがまだはっきり機能していて、朝早くから働くが、13時から16時は完全に休み。しかも、夜は8〜9時頃までで一般の店は終わり、フラメンコのタブラオと、フランコの家族が経営しているとかいうドラッグストアがかろうじて開いていただけ。ちなみに、私のメモによると、当時のマドリードにはフラメンコのタブラオは、サンブラ、アルコ・デ・クチジェロス、ロス・カナステロス、ラス・ブルハス、エル・カフェ・デ・チニータス、ラ・ベンタ・デル・ガト、エル・ドゥエンデ、コラル・デ・ラ・パチェカ、トレス・ベルメーハス等々、少なくとも15軒あまりあったが、とにかく観光客相手だからやたら入場料が高い。私はスペイン広場に近い、本格的な出し物ばかりやるタブラオ(サンブラ?)に仲間をつくり、ワインだけで一晩中聴いて録音していた。その店でフェルナンダ&ベルナダ姉妹の歌が聴けたのが、マドリードではフラメンコの最高の体験だった。
マドリードの生活では、すべて共同。食材の買い出しも料理も当番制、大きながま口の財布があって、その金で買いだし、無くなると順番の次の者が決められた額を補充すると言う、何となく公平なやり方だったから、1人で生活する術も覚えた。これも一つの海外での大事な体験だ。ある日、日本から持ってきたカセット・デンスケ(当時発売されたばかりのマイク1本でステレオ録音ができるかなり本格的だったもの)のヒューズが飛んでしまい、熱を出すほど探し回ったが、マドリードではどうにも手に入らない。日本のソニーに電話したら、スペインはバルセロナに支店があるだけという。で、丁度聖週間が終わって、これからフラメンコ・フェスティバルが田舎街への巡演の季節になると言う。情報を探しながら、バルセロナからスペイン国内とポルトガルに向けて旅をすることにした。
カタルーニャ、バルセロナ
その最初がバルセロナ。すべてがマドリードとは違っていた。1974年のバルセロナは、隣国ポルトガルで「カーネーション革命」が成功した直後というのもあってか、よりいっそうフランコに縛られたマドリードより自由に見えた。もちろん、最近でこそフラメンコ風成分を取り入れる若者も出てきているが、当時は、例えばタブラオは、寂れたのが1件あっただけ。地方によってこんなにも違うのか?ついこの間まで禁じられていたはずのカタルーニャ語も結構あちこちで話されていた。
ガウディの「サグラダ・ファミリア」も「グエル公園」も、「カサ・ミラ,カサ・バトリョ」も期待以上の素晴らしさだったし、街全体にマドリードで感じた堅苦しさがない。それまで生活してきたマドリードとはだいぶ勝手が違う。ランブラス大通りでは夜中の12時を過ぎてもたくさんのキオスコは
開いていていて、ファミリーたちが楽しそうに散歩していた。カテドラル周辺の公園では伝統の踊り、たくさんの男女が手を上で繋ぎ輪になって踊るサルダーナが踊られていたし、人間の塔も普通に観ることができた。素晴らしい街だが、まだまだ不便さが残るマドリードよりは開放的で、国際都市の雰囲気があった。
マラガ生まれのピカソはこのバルセロナで貴重な10代の約10年間を過ごした。まだ少年時代、勿論キュビズムに至る前のバルセロナ時代のデッサンや、いわゆる「青の時代」と呼ばれるいわゆるやや陰鬱な、しかし質の高い作品をここに残しているが、ピカソの生まれながらの才能に感動。日本で一番の知名度を誇るバルサ、FCバルセロナは、どんな時代にもこの街の誇りで、対レアル・マドリードの試合になると、スペイン中の人間が自宅やBarのTVの前にかじりついて、街頭からは人っ子一人居なくなる。噂には聞いていたが、まさしくその想像以上の光景を目にした時は、試合そのものよりも驚いたほどだ。他にも、至る所でカタルーニャとマドリーを中心とするフランコ・スペインの違いを実感して、もっと深く興味を持つようになるのにさほど時間はかからなかった。旅の方も、この辺りからかなり真剣になってきた。
さて、このカタルーニャは、スペインでもフランスに接した、そう大きくはない地方だったが、イギリスの産業革命がまずゆっくりとこの地に到達し、1900年に100万だった人口も1935年のスペイン内戦前には近隣州からの国内移民によって280万人にふくれあがっていた。当時は繊維産業が主な原動力だったが、そこに労働者運動が起こり、最初に無政府主義も生まれた。 だから、フランコは内戦勝利後に弾圧を繰り返すのだが、60年代になって更に発展した。92年のオリンピックに向けてはラテンアメリカ諸国、北アフリカ、アジア諸国からの移民が増え、現在はカタルーニャ全体で750万人、バルセロナだけで350万人が住んでいる。
リュイス・リャックの《レスタカ》
さて、マドリードのレコード店で、親しくなったレコード店の3人に勧められたレコードが結構あったが、そのうちもっとも気になったのがカタルーニャのリュイス・リャック、ジョアン・マヌエル・セラー、バスクのパツィ・アンディオン…この3枚には、多くのことを学ばされて貰うことになった。中でも一番良く聴いた曲の一つが、リュイス・リャックの「レスタカ」だった。はっきり言って、スペイン語もまだおぼつかないのに、カタルーニャ語がわかるはずもなく、その歌詞の内容を知ったのは、帰国後暫くしてスペイン語の歌詞を発見、高場将美さんに訳して貰ってからのこと。ただ、このリュイス・リャックがカタルーニャの闘士で、フランコを「腐った杭」に例えて歌っている曲で、スペイン市民戦争以降、カタルーニャ語を話すことを禁止された中、カタルーニャ語で歌い、フランスに亡命せざるを得なかった歌手らしい事は人に聴いて知っていた。しかし、非常に美しい曲で、この地では圧倒的に支持されていると言うことだけはわかっていた。(次回に続く)
(ラティーナ2021年1月)
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