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[2016.07]橋本一子 × 中村善郎 橋本の澄んだ声とピアノ 中村の甘い声とギター 25年の共演を経て拡がる ボサノヴァの世界

文●渡部晋也  Text By SHINYA WATABE

 一般的に、アーティストはとても自由に世界を泳ぎまわっているように見えるようだ。しかし実際にはどうだろう。売れっ子になればなるほど、音楽だけでなく、普段の振舞までもがファンの望みによってスポイルされる。音楽スタイルも同様で、人気が出てくるに従い本質とはあまり関係がない、微妙にずれたイメージが定着して、そこからはみ出すかどうかで評価されることがある。その結果、本質よりもイメージが一人歩きしはじめ、アーティストはそのイメージにスポイルされるようになる。

 その傾向が強いスタイルとしてボサノヴァがあるだろう。たとえばシンガーを評価する時。尺度として歌い方や雰囲気に「ボサノヴァらしさ」があり、そこから外れたことで(ほとんどが理不尽な)酷評が生まれることがある。「ゲッツ=ジルベルト」でのスタン・ゲッツのソロ・プレイを、あまりにもジャズ寄りとして歓迎しない人がいるのもその現われだ。ただ、この場合は「ジャズ寄り」という理由があるからいいけれど、なんとなく雰囲気が違うといった理不尽ともいえる尺度がまかり通ったりするから恐ろしい。もっとも「ボサノヴァらしさ」を否定して、なんでも垣根を越えればいいというわけでもない。特にサンバをルーツにしたボサノヴァのグルーヴに合わないそれを持ち込む例などは明らかにいただけない。そのあたりこそ、アーティストのセンスが問われる部分なのだと思う。

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 中村善郎と橋本一子。かたや日本におけるボサノヴァの大家とも言える存在と独創的なピアノ・プレイでジャズの世界はもちろん、それ以外でも極上の音楽を生み出してきた存在とがデュオ・アルバムをリリースした。一聴して打ちのめされた理由は、この二人が創り上げたこの上なく自由な表現のせいだった。何度も聞いてきたジョビンのメロディが終わると、淡々と紡いでいく中村のバチーダにのせて、斬新な軌跡を描く音の列がピアノから生み出される。「Eu Quero Um Samba」で乱入してくるピアノも絶品だ。そして、橋本のリリカルなヴォーカルもすごく素敵な響きを持ってそこに収まっている。

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