[2015.1]永遠の《リズムの王様》フアン・ダリエンソ研究〈下〉
文●ガブリエル・ソリア/翻訳●鈴木多依子texto por GABRIEL SORIA / traducción por TAEKO SUZUKI
ある年の12月14日
フアンがこの世にやってきた
広い心とセンチメンタルな
バイオリンを携えて
あなたの音楽はタンゴに輝きを与え
この街のアイドルとなったあなたを
人は「リズムの王様」と呼ぶ……(「12月14日」より)
1961年12月14日、RCAビクター社はこの日と同じタイトルのLP盤『カトルセ・デ・ディシエンブレ(12月14日)』を発売した。このレコードのジャケットには、ダリエンソがエルネスト・フランコや歌手のホルヘ・バルデス、オラシオ・パルマらの楽団メンバーに囲まれて61歳の誕生日を祝う姿の写真が使われている。
このレコードには、パブロ・エチムとアルベルト・ウセルがダリエンソに捧げて書きオラシオ・パルマによる朗読が入る「12月14日」が収録されたほか、新曲「エル・ウルティモ・ブリンディス」「プーロ・タンゴ」やチリ人歌手アントニオ・プリエトが歌った「デスプエス・デ・ラ・ボーダ」「ラ・カジェ・デル・ペカード」の2曲が特別に収録された。
ジャケットの裏面には、作詞家・批評家のアントニオ・カントーによるダリエンソ楽団のビクター・レーベルのデビュー26周年(ダリエンソ楽団は1935年7月2日に同レーベルからデビュー)を祝うコメントが掲載された。
そのコメントの最後にはこう記された。「……彼の友人として、彼がどれほど気を張ってタンゴへの情熱を保ち続けているかよく分かっている。リズムの王様の誕生日とレコードの発売を祝い、喜んで祝杯をあげようではないか。マエストロ、乾杯! あなたに、そしてタンゴに! 」
▲歌手たちのヒット
ダリエンソは、楽団に豊富な歌手たちをそろえていた。その一人がアルベルト・エチャグエで、40年代半ばからダリエンソ楽団でルンファルド混じりのタンゴを歌っていた。アルマンド・ラボルデはダリエンソ楽団の晩年での活躍も含め何度かダリエンソ楽団で歌っていた。
1950年代初期にはアルマンド・ラボルデは退団し、代わりにロベルト・レモスが入団したが、大きなヒットを得ることはなくダリエンソ直々の指令によって2年で退団させられている。
1957年になると、ピアニストのフルビオ・サラマンカが退団する。フルビオ・サラマンカは1940年に入団して以来、17年間ダリエンソ楽団で活躍したが、オーケストレーションでは大きな責任を担い、唯一無二のピアノを奏でる楽団にとっては貴重な存在であった。マエストロ・サラマンカはダリエンソについて私にこう語ってくれたことがある。「フアンはオルケスタのリズムがぴったり合うのを好んだ。わたしが入団したときは何もかもが初めてだったが、音楽のスタイルはわが故郷(コルドバ州)ラス・バリージャスで「Mikey」というオルケスタで演奏していたからよく分かっていた。ダリエンソの40年代のヒットはずば抜けていた。夏の時期はモンテビデオのカラスコ・ホテルで演奏し、そのあとはブエノスアイレスに戻ってラジオ局〈ラディオ・エル・ムンド〉、キャバレー〈シャンテクレール〉、週末の金土日はダンス・ホールで演奏。まったく休む暇もなく毎日演奏していた。その頃は歌手エクトル・マウレがたくさんヒットを飛ばしていたね。ところが1944年、アルベルト・エチャグエがオルケスタに戻り、その後アルマンド・ラボルデが入団すると、またもや大忙しだ。オルケスタの代表者はフリオ・クリだったが、彼はたとえばその年のコンサートが終わるとすぐに次の年の契約にサインをするような男だった。演奏活動と平行してビクター・レーベルでの録音もしていて、特に「ラウソン」「カルトン・フナオ」「エル・タルタ」の売れ行きは相当なものだったね」
フルビオ・サラマンカの発言はまったくもって正しく、40年代におけるダリエンソ楽団のレコードの売り上げは非常に好調だった。ブエノスアイレスの中心街のレコード店では、ダリエンソ以外の楽団のレコードを買ってから、ダリエンソ楽団の新作を買うよう客に義務付けることもあったという。そんなダリエンソ楽団の大流行によって、その頃からダリエンソ・スタイルを模倣するオルケスタが徐々に誕生していった。最初に誕生したのはフアン・ポリート楽団で、ポリートは1938~39年までダリエンソ楽団で活躍したピアニストだった。1950年、ポリートはダリエンソそっくりの楽団でパンパ・レーベルからデビューしたが、最もうまく模倣した楽団だと評判になったのは、その後あらわれたティト・マルティンが結成した楽団だった。1951年にTKレーベルからデビューしている。
ダリエンソは模倣されることを好んだという。なぜならば、こなしきれない演奏オファーを同じスタイルで演奏する楽団に受けてもらえるからだった。だからダリエンソはティト・マルティンが正確に演奏できるよういつも自ら楽譜を手渡していた。
(フルビオ・サラマンカ)「わたしはピアノのパートは楽譜に書いていなかった。暗譜で弾いていたよ。曲数は多かったが、なにせ毎日演奏していたからね。よく覚えているのは、キャバレー〈シャンテクレール〉で演奏していたときのことだ。初回はフアンなしで演奏していて、なにも問題なく演奏できていたんだが、フアンが加わってあの指揮姿で前に立ち、楽団が演奏を始めるとたちまち音がガラリと変わったんだ。まったく違うオルケスタに変貌し、生き生きと、息がバッチリと合っている……彼の存在感がすべてを変えてしまったわけだ。それは圧巻だった。観客はフアンの指揮姿を見るのが大好きで、フアンは何度も歌手に近づいてからかったり、指で合図をしてふざけてみせたり、当時の観客はフアンの虜だったね。
しかし1957年半ばのある日、わたしは退団を決意した。これ以上演奏をしたくなかった。毎日働くことに疲れてしまって、フアンにその意を伝えると、彼はフアン・ポリートを楽団に呼び戻し、楽団の最後までポリートがピアニストを務めることとなった。もう演奏をしないと決めたわたしだったが、ダリエンソ楽団を去った日の夜、友人のバンドネオン奏者エドゥアルド・コルティがわたしに新たにグループを作るよう説得しだしたんだ。あまりにもしつこかったので、折れたわたしはダリエンソとは全く異なる自分のスタイルでやってみることにした。今ではなんとか達成できたと思っているんだけどね」
▲50~60年代
フルビオ・サラマンカが去った直後、のちに名を馳せる2人の歌手が入団した。マリオ・ブストスはルンファルド混じりの歌い口調で「ムニェカ・ブラバ」「フスト・エル・31」「ノ・テ・キエロ・マス」を歌ったが、最大のヒットはかつてアルベルト・エチャグエがダリエンソ楽団で30年代後半に録音した「マンドリーア」だった。もう1人はホルヘ・バルデスで、ロマンチックなタンゴを歌っていたため、あっという間に人気を獲得していった。「アスタ・シエンプレ・アモール」(当時の大ヒット曲)や「エン・エル・シエロ」「エル・ワルツ・デ・ロス・キンセ・アニョス」、またダリエンソ楽団でアルベルト・レイナルがかつて録音した古典曲「チルーサ」などがバルデスのレパートリーだった。「チルーサ」がヒットするとその曲はバルデスの十八番となり、楽団を去ったあとも自分の定番曲として歌い続けた。
1960年にマリオ・ブストスが退団すると同時に、若き歌手オラシオ・パルマが入団する。そのように、ダリエンソ楽団にはつねに2人の歌手が所属していた。70年になると、アルベルト・エチャグエとアルマンド・ラボルデが再び楽団に加わり、オスバルド・デ・サンティス(のちにダリエンソによってオスバルド・ラモスと改名)が新たに加わった。その3人の歌手たちは、ダリエンソ楽団の最後の録音まで歌い続けた。
▲日本のダリエンソ
ダリエンソの性格上の特徴の一つに、海外へ行かない、というのがあった。毎年夏に滞在していたウルグアイのモンテビデオは例外として、世界のどこへも行くのを拒んでいた。その理由は飛行機への恐怖心で、1935年にガルデルが飛行機事故で悲劇の死を経てからというもの、飛行機に乗ることを一切断つと誓い、生涯その志を通したのだった。
60年代、日本の観客からダリエンソ楽団の来日公演を願うオファーがあった。その強いオファーを受け、1968年に楽団歌手全員で来日ツアーを行うこととなったが、そのメンバーにダリエンソは含まれていなかった。そうしてダリエンソ抜きのダリエンソ楽団は日本へと旅発ったが、その頃ブエノスアイレスでは『ダリエンソ・エン・ハポン(日本のダリエンソ)』(AVS-3819)というタイトルのレコードが発売された。同盤にはバンドネオン奏者カルロス・ラサリとピアニストのフリアン・ポリート作曲、アルベルト・ヘレミナティ作詞の「ミ・ハポン(わが日本)」も収録されていた。この曲の興味深いところは、歌手のエチャグエが半分の歌詞をスペイン語で、もう半分を日本語で歌っているところである。エチャグエの親族には一人の日本人がおり、耳から発音を学び録音に至った。そしてレコードのジャケットには、青いスーツを着て腕にコートを掛けたダリエンソがアルゼンチン航空の機体の外階段でポーズをとっている写真が使われている。ウルグアイのテレビ番組にダリエンソ楽団が出演した際には、エチャグエとアルマンド・ラボルデはこの曲を歌い、曲の最後にオスバルド・ラモスが加わり3人で「サヨナラ!」と締めくくっている。
ダリエンソは1976年1月14日に逝去した。彼とともにあの頃のタンゴの一部がこの世を去っていった。しかし今日においてもダリエンソのレコードは世界中のミロンガで響き渡り、ブエノスアイレスやモンテビデオではダリエンソ・スタイルやレパートリーを継承するオルケスタが今もなお息づいている。
(月刊ラティーナ 2015年1月号)
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