[1982.12]連載 ものがたり 日本中南米音楽史 〜ブラジルでクラブを経営、ボサノバを体験したある日本人と、渡辺貞夫の興味深いお話
文●青木 誠
この記事はラティーナの前身である雑誌「中南米音楽」の1982年12月号に掲載されたものです。当時の文章をそのまま掲載いたします。
今月はボサノバである。先々月の続きである。
わが国のボサノバはジャズの渡辺貞夫の帰国からはじまる。1965年暮れ、彼はボストン留学から帰国し、翌66年から猛然と演奏を開始し、当時のジャズ・レーベル “タクト” に「ジャズ&ボッサ」を録音したものがジャズ・レコードとしては空前のベスト・セラーになった。ボサノバとともに、じつに颯爽と渡辺貞夫の名が世に躍り出たわけである。記録を繰ると、67年だけで彼は10枚のアルバムを録音し、そのうち7枚がボサノバである。その人気は物凄かった。
渡辺貞夫のボサノバ初体験は、留学中、ゲイリー・マクファーランドから教えられた。そのゲイリーは1962年、カーネギー・ホールの “ボサノバ・コンサート” にスタン・ゲッツ、ハービー・マンと出演している。62年はゲッツの「ジャズ・サンバ」が発表になり、ボサノバがアメリカに上陸した記念の年に当たるが、そこに辿りつくまでのボサノバの足跡はどうだったか。
ここで私はこの時代にサンパウロに住み、おなじ空気のもとにクラブを経営されていたこの人物のインタビューを載録したいのである。現在は四谷のサンバクラブ《サッシペレレ》のオーナーである小野敏郎氏である。氏は一九五八年から1973年までサンパウロに住んでいて、ながく《クラブ・いちばん》を経営された。
そこはブラジルの歌手・ミュージシャンが数多く出演した名店である。わが国のミュージシャンもブラジルにいけばかならず氏の世話になった。最近氏の招聘で来日したボサノバ・オルガンのワルター・ワンダレイをはじめとして、フローラ・プリム、ジンボ・トリオ、氏の友人・知人は数知れない。73年に帰国し、《サッシペレレ》を開店するが、その当時はサンバクラブはここ一軒だけである。 いまはブームだから十指に余る店が都内にあるが、ブームが冷えれば永続するかどうかは不明である。氏は、サンバが好きなら10年、20年とクラブをつづけてほしいものだと声低くおっしゃった。 つぎに載せる氏のお話はかならずしもボサノバだけではないけれど、年代記録で人名・曲名を羅列するよりよっぽど雰囲気がわかるので、マ、男一匹成功譚のつもりでお読み下さいな。
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