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[2011.02]ウルグアイ・アーティスト名鑑~偉大なるビッグ・アーティストたち

文●西村秀人、谷本雅世

◆アルフレド・シタローサ Alfredo Zitarrosa

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 1936年モンテビデオ生まれ。ウルグアイの「語り」を象徴する歌手。文学青年だったシタローサはラジオのアナウンサーとして働いた後、1964年旅先のペルーで歌手としてデビュー、帰国後録音した自作「ある娘のためのミロンガ」がヒット、当時アルゼンチン音楽に独占されていたウルグアイのヒットチャートで初めて1位を獲得したウルグアイ音楽家となった。ほどなくアルゼンチンでも人気を得るようになり、順調に両国でアルバムを制作、その鼻にかかった低音の語りでウルグアイを代表する「声」となった。1976年2月、軍政を嫌い出国、アルゼンチン、スペイン、メキシコへ渡り亡命生活を続け、1983年アルゼンチンで帰国コンサ-トを行い、84年ウルグアイに帰国するが、89年に病気で死去。「ドニャ・ソレダー」「ベーチョのバイオリン」「私の国のアダージョ」「ステファニー」「黒いギター」「メロディア・ラルガ」など、社会性をたたえた名曲は今も歌い継がれている。彼の死後、伴奏ギタリストが中心となってクアルテート・シタローサが結成され、そのレパートリーを受け継ぎ現在まで活動を続けている。

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『カンタ・シタローサ』
(Orfeo=EMI 8 59518 2)
※オリジナルはTonalレーベルで1966年発表


◆ルベン・ラダ Rubén Rada

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 1943年生まれ。ウルグアイのカーニバル音楽「カンドンベ」や「ムルガ」をベースに、ジャズ・ソウルの要素を加えたアフロ・ウルグアイ音楽のパイオニア。その名は本国のみならず、ラテンアメリカ諸国にも一流エンターテイナーとして知れわたっている。1965年伝説のバンド「エル・キント」でエドゥアルド・マテオと共に活動、70年からは「トーテム」の中心人物として多数のアルバムを残す。その後アルゼンチンへ渡り、独自のコミカルで親しみやすいキャラクターによってバラエティ番組やラジオ番組に出演、マルチな才能を発揮した。70年代末には北米、1991~94年はメキシコで活動するが、基本的にはアルゼンチンとウルグアイ両国で活動しつつ、海外公演を続けている。彼の才能は作曲の素晴らしさと歌唱力およびカンドンベに基づくパーカッシヴな音楽を極上のポップスとして昇華させたオリジナリティにある。子供番組では「ルベン・ラーおじさん」として活躍、広く慕われている。常にウルグアイ・ポピュラー音楽界の中核にあって、アフリカ性を提供してきたマエストロ。

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『キエン・バ・ア・カンタール』
(Universal=Interdisc 0133732) 2000年発表


◆エドゥアルド・マテオ Eduardo Mateo

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 1940年、カーニバルと歌を愛する家庭に生まれる。6歳からピアノを学び、独学でギターも習得。1957年、友人たちとブラジル音楽のバンドを結成し成功。1964年、ブラジル南部へのツアーで得た収入でエレキギターを購入。1965年にルベン・ラダらとエル・キントを結成、ウルグアイ音楽とボサノヴァ、ビートルズなどの外来音楽の要素を巧みに組み合わせ、「カンドンベ・ビート」とも呼ばれたその音楽は後進に多大な影響をもたらす。1972年ソロ活動を開始、ファースト・アルバム『マテオ・ソロ・ビエン・セ・ラメ』を発表。その後ウルグアイは軍事政権となり、多くの仲間が国外に移る中、マテオは国内で活動を続ける。しかし1970年代末、仕事の減少から活動も不安定となり、1980年代前半には両親を相次いでなくし精神的充実も困難となった。その間にもホルヘ・トラサンテ、フェルナンド・カブレラなどとも素晴らしい作品を残しながらも、経済的には最後まで恵まれず、1990年に没した際、葬儀に集まったのはわずか20人だったという。しかし近年その高い音楽性はますます再評価されている。

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『マテオ・イ・トラサンテ』
(Sondor=Lion productions) 1976年発表
(LION 634/ Sondor 4047-2)


◆ウーゴ・ファトルーソ Hugo Fattoruso

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foto por MASAYO TANIMOTO

 1943年生まれ。小さい頃からアコーディオンとピアノを始め、弟オスバルドと共に子供時代から父との「トリオ・ファトルーソ」で活躍。デキシーランドジャズ・バンドのベーシストとして活動後、1964年、オスバルドらとビートルズ・スタイルの「ロス・シェイカーズ」を結成、アルゼンチンでも大変な人気を博す。シェイカーズ解散後、1970年頃兄弟共に渡米し、リンゴ・シールマンと共に伝説のフュージョン・バンド「OPA」を結成し5年間活動、その後も米国にとどまり、1980年に一旦帰国するが、その後もブラジル、米国に長期滞在。1990年代半ばの帰国後、息子のフランシスコと新生トリオ・ファトルーソを結成、2003年からはカンドンベの太鼓隊とのユニット「レイ・タンボール」でも並行して活動。近年はヤヒロトモヒロとのデュオユニット『ドス・オリエンタレス』で毎年のように日本を訪れ、昨年(2010年)にはレイ・タンボールも初来日を果たした。もっぱら国外においてマルチな才能を発揮しつつ、ウルグアイ音楽を外に向けて提示することも忘れない才人。

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『シエンシア・フィクシオナ』
(Sjazz=EMI 7243 8 63855 2 9)
2004年発表

Ciencia Fictiona の続編  Hugo Fattoruso – Café Y Bar Ciencia Fictiona


◆ハイメ・ロス Jaime Roos

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 1953年生まれ。シャンソンやジャズを歌っていた叔父の影響を受け、1968年プロの音楽家としてデビューし、主に劇場の音楽やロックの分野で活動していた。1975年パリへ移住、スタジオ・ミュージシャンとして働くかたわら、小さなパブなどで演奏活動を続ける。1977年帰国、パリで録音した4曲を含むファースト・アルバムを発表。その後すぐ再びヨーロッパに渡り、1984年までアムステルダムを拠点としてサルサ、ジャズ、ロックなどの分野でベーシストやギタリストとして活動。その間2枚の自己のアルバムも制作。帰国後、ソロ活動と並行してグループ「レピーケ」にも参加、カンドンベやムルガを取り入れた音楽で注目される。アルゼンチンでも高い人気を持ち、1998年からはメジャーのソニーの専属となっている。プロデューサーとしてムルガの名歌手ワシントン・カナリオ・ルナのアルバム制作にたずさわったり、アドリアーナ・バレーラのアルバムに曲を提供し共演したり、ウルグアイのスターという枠組みを超えた活動も目立つ。最新作は『エルマーノ・テ・エストイ・アブランド』。

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『ブリンディス・ポル・ピエロー』
(ピエロに乾杯)
(Orfeo=EMI 8 59446 2)
※オリジナルは1985年発表


◆ホルヘ・ドレクスレル Jorge Drexler

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 1964年、ユダヤ系移民の家庭に生まれる。5歳の時からピアノを学び、11歳でクラシック・ギターの勉強を始める。1987年、共和国大学主催のコンクールにおいて短編文学の分野で最優秀賞を受賞、1990年には歌曲コンクールでも入賞、1992年ファースト・アルバム『ラ・ルス・ケ・サベ・ロバール』を発表、高い評価を得る。その後2年に1枚ぐらいのペースでアルバムを制作、1996年頃からマドリードに活動拠点を移し、現在に至る。カエターノ・ヴェローゾにも似たクールな語りとコンテンポラリーな曲作りは現在のウルグアイ音楽界で際立っている。2005年彼の歌う「アル・オトロ・ラド・デル・リオ」が映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』に使用されオスカーを受賞、一気に国際的な注目が高まった。最新作『アマール・ラ・トラマ』は11作目にあたる。近年国際的な評価はますます高まるばかりだが、初期の作品にみられた軽妙さやさらっとした語り口が減り、アルバムをしっかり作りこんだ雰囲気が伝わってくるものの、やや神経質な感じが目立つようにも思える。

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『エコ』
(Warner 2564614702)
2004年発表

(月刊ラティーナ2011年2月号掲載)

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