[1986.07]渡辺貞夫の“走り回りたくなるブラジル”—トッキーニョらとのピュアな出会い…6年ぶりのブラジルの旅
文●池上比沙之 写真●渡辺貞夫 text by Hisasi Ikegami & photos by Sadao Watanabe
えーと、この前にブラジルに行ったのは80年の2月だったから、今回は6年ぶりということになるのかな。テレビの『音楽の旅はるか』っていう番組の仕事で行ったんだけど、ホストっていうのかな、ボクがブラジルとブラジル音楽を紹介するわけね。カルロス・ジョビンと会って話す時にはこういうこと聞いてくれ、とか、まあテレビ特有の注文がいろいろあってさ、大変だったね(笑)。「イバネマの娘」はカフェのテーブルで書いたのかとかたずねるようになってたりして。まあ、モチーフはそこで生まれたんだろうけど、家に帰ってからしっかりまとめたんだと思うよね、普通は。ジョビン自身も「家でまとめた」って言ってたよ。ハハハハ。
最初にブラジルに行ったのは68年だね。ボサノバとの出会いっていうのはもう少し前。64年ごろかな。アメリカでスタン・ゲッツの「ディサフィナード」がヒットしてて、よくラジオで聴いたね。ボクはボストンのバークリーに行ってた頃なんだけど、ルームメイトがアルゼンチン出身の男で、よくジョビンのレコードを聴かせてくれたんだ。でも当時はさ、こっちはハードなジャズをガンガンやってた時期だから、あまり興味がなかった。ところがさ、65年の2月ぐらいかな、ゲイリー・マクファーランドのグループに参加することになって、当時大ヒットしてたゲイリーの「ソフト・サンバ」なんかをやらされることになったんだ。最初は退屈だったね。スマートさっていうか、楽しみ方がわからなかったんだろうね。でも2週間ほどやったら、なんとなく楽しみ方がわかってきた。そのうち、ツアーでサンフランシスコに行ってベイズン・ストリートってクラブで演奏してたら、向かい側のエル・マタドール、ってとこにセルジオ・メンデス&ブラジル’66が出てたんだ。休み時間に、ゲイリーと一緒に向かい側に遊びに行ってるうち、ブラジル音楽がすっかり好きになっちゃったんだな。セルジオのバンドはまだコーラスなんか入ってなくて、ピュアにサンバをやっててね。ホントによかったんだよ。その後はツアーしてても、ホテルの部屋でジョビンの音楽を好んで聴いたりするようになって(笑)、ずいぶん心を慰めてもらったねえ。で、68年にブラジルに行ったら、それまで知らなかった人が、すごくいい曲を書いてるんだ。ジョアン・ジルベルトとかシコ・ブアルキ、特にシコが続々といい曲を書いてた頃だよね。もう、何の違和感もなく、すっと聴けちゃった。期待どおりっていう感じでね。ただ、現地のミュージシャンたちと実際に演奏してみたら、リズムがゆったりとしてるんで、ホーッっていう気持になったかな。これはアフリカに行って、アフリカ人のリズムを聴いた時にも同じような感じだったんだけど、とにかくゆったりしてるんだ。日本で演奏してるとさ、やれ走ったの、遅れたのってナーバスになっちゃうんだけど、彼らはそういうとこ全然ないんだよね。生活のなかに自分たちのリズムがあるわけだから、当たり前なんだろうけどさ、リズムを作って演奏してるんじゃないんだ。意識してないの。自然発生的っていうかね。だから、一泊一泊のビートがしっかりしてるんだ。一歩間違うと恐いけどさ(笑)。
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