[2022.10]【太平洋諸島のグルーヴィーなサウンドスケープ㉗】 移住と「ふるさと」の音楽と踊りの往来と発展 ―沖縄の『浜千鳥』と『南洋浜千鳥』を中心に―
文●小西 潤子(沖縄県立芸術大学教授)
「旅」は、住む土地を離れて一時的に他の土地へ行くこと。一方、「移住」といえば「一時的」という印象が弱くなり、政治や宗教、経済上の要因で生活の場を変えることを指します。移住するには、「生きる」ための決断を伴うともいえましょう。
太平洋諸島の文化と暮らしは、人々の移住があってこそ成り立ったといえます。まず、1500年前にアジアから人類が到達したことで、太平洋諸島に音楽や踊りの種がもたらされ、芽生え、育まれました。その後、自然災害、出稼ぎ、教育、戦争、核実験などの理由から、自発的あるいは強制的に別の島への移住を余儀なくされたり、欧米や日本など太平洋諸島外の人々が征服、布教、開拓、商売などの理由で島に入り込んだりした結果、混淆様式の音楽や芸能が発展してきたのです。このような音楽文化の成り立ちは、世界中の多くの地域で見られますが、比較的歴史が浅い太平洋諸島の場合、広大な海に広がった島々の集合体内部や外部との移動の経緯や音楽の変化がとらえやすい特徴があります。
別の島に移住した人々は、しばしば「ふるさと」を思って歌を作りました。その1つとして、日系ハワイ移民1世による「ホレホレ節 hole hole bushi」をご紹介しました。豊かさを求めてやってきたハワイで、苦労をして農園開拓をし、その地で子どもや孫と共に定住する決意がうたわれています(2022年7月号)。
サイパン、パラオ、ヤップ、ポナペなど旧南洋群島には、沖縄からたくさんの出稼ぎ労働者が移住しました。家族と別れて南洋に渡り、故郷に錦を飾りたいと決意する男性の歌として、最近では、宮沢和史さんもリリースしているのが「南洋小唄」です。作詞作曲をした比嘉良順自身も、南洋での生活経験がありました。20世紀初め頃の沖縄は「手紙より先に金を送れ」と言われるくらい、生活が困窮していたそうです。
移住地で暮らしが安定してくると、人々は音楽を娯楽として楽しむようになります。旧南洋群島でも、とりわけ北マリアナ諸島(サイパン支庁管内)では、1930年代に入ると沖縄県出身者が全人口の50%以上を占めるようになりました。サイパンの南ガラパンの町は、さながらリトル沖縄。1931年、沖縄県人会が朝日座(那覇)の元幹部と若手役者を招聘したのを皮切りに、著名な役者による興行が始まりました。1932年には、渡嘉敷守良(1880-1953)がテニアンに巡業。伊良波尹吉(1886-1951)は、南ガラパンの沖縄芝居専用小屋「南座」を活動拠点としました。ふるさとの様式の音楽や芸能が上演の中心だった旧南洋群島のリトル沖縄で、伊良波尹吉が1933年に創作した『南洋浜千鳥』は、「伊良波が見た南洋らしさ」をとりいれた異色の演目です。
『南洋浜千鳥』のもととなったのは、玉城盛重(1868-1945)創作ともいわれる『浜千鳥』の動作です。また、『南洋浜千鳥』も『浜千鳥』も、「浜千鳥」という19世紀半ばに成立した歌に合わせます。旅先の浜辺から故郷を思う歌詞からなるので、舞台が旧南洋群島に代わっても、この歌が違和感なく受け入れられたのでしょう。ただし、「浜千鳥」と「南洋浜千鳥」の音楽表現は、声の高さやテンポ、三線の音の動きが異なるため、同じ歌詞の歌と気づかないかも知れません。
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