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[2022.8]【太平洋諸島のグルーヴィーなサウンドスケープ㉕】 ハワイと小笠原―クジラが繋いだ歴史の始まり―

文●小西 潤子(沖縄県立芸術大学教授)

 それは、1830(天保元)年のことでした。江戸から南に1,000㎞ 離れた無人島ボニン・アイランズ Bonin Islands に、サンドウィッチ Sandwich 諸島から欧米の男性5名(アメリカ人2名、イギリス人2名、デンマーク1名)と太平洋諸島の男女計20名(一説では、男性10名および女性5名)が入植したのです。目的は、捕鯨船の薪水供給地の確保。枯渇した大西洋のセミクジラとホッキョククジラに代わって、輝度の高い脳油がとれるマッコウクジラの大群が、ジャパン・グラウンドと呼ばれる日本近海に発見されたからです。

 鎖国中の日本で、1824(文政7)年の水戸藩の大津浜事件、薩摩沖の宝島事件など、水や食料を求めて英国の捕鯨船員が相次いで上陸したのも、そのため。捕鯨船は、母港への帰港までに4年以上の航海をし続けたこともあった時代でした。しかし、翌年江戸幕府は「異国船打払令」を下し、1842(天保13)年の「薪水給与令」発令まで外国船は理由なく追放されました。

 当時、欧米では鯨油は、石油に匹敵する重要な資源でした。ランプのみならず灯台の照明用としても需要が多く、ほかにも機械の潤滑油、繊維の光沢仕上げ材、皮なめし材、羊毛洗浄用の液体洗剤の材料となり、ヒゲや骨は甲冑、洋傘、帽子、コルセットなどに用いられたのです。しかし、冷凍保存技術もなく鯨肉を食しないことから、欧米の捕鯨船は肉等をほとんど破棄しました。

 図1は、1831(天保2)年にボニン・アイランズのピール・アイランド Peel Island に寄港したロンドンの捕鯨船ケント号の船医トーマス・ビール (1807-1849) が、その著書『マッコウクジラの博物誌』に掲載した挿絵です。その時、ケント号はピール・アイランドに、サンドウィッチ諸島の女性6名を送り込みました。

図1 Beale, Thomas 「マッコウクジラと捕鯨者」 (1839),
The Freshwater and Marine Image Bank

 ボニン・アイランズとは小笠原諸島、サンドウィッチ諸島とはハワイ諸島の欧米側による名称でした。それにしても、小笠原諸島は無人島だった?…ハワイからの移民…?? と謎が謎を呼びますよね。江戸幕府は、1670(寛文10)年遠州灘で遭難したミカンを積んだ船の漂着により、無人島(後の小笠原諸島)の存在を知り、1675(延宝3)年富国寿丸で、島谷市左衛門を船頭とする乗組員32名を派遣しました。一行は、現地を探検して地図を作り、緯度を測って島の位置を示し、祠を作ってその脇に「此島大日本之内也」と残したのです。

 にもかかわらず、江戸幕府は1862(文久元)年まで放置していたところ、イタリア系イギリス人マテオ・マザロ Mateo Mazarroを団長とする外国人の一団が、ボニン・アイランズに定住し始めたというわけです。一団を結成させたのは、ホノルルのイギリス領事R. チャールトンRichard Charlton (1791–1852) 。一団は、定住後、トウモロコシ、サツマイモ、カボチャ、タマネギを栽培し、ブタ、ヤギ、アヒルを飼い、ウミガメを捕獲して、寄港する捕鯨船に売って生活しました。1840年頃の記録では、生活には英語とポリネシア語起源の言語が使われていました。

 マザロの死後、ボニン・アイランズの首長的な役割を果たした人物が、ナサニエル・セボレー Nathaniel Savory (1794-1874)でした。最初の入植者の一人で、アメリカ・マサチューセッツ州出身のナサニエル・セボレーは、日本に開国を促したM. C. ペリー Matthew Calbraith Perry(1794-1858) が1853(嘉永6)年、旗艦サスケハナ号で寄港した際にも、外国奉行水野忠徳(1810-1868)ら一団が1862(文久元)年に咸臨丸で「小笠原回収」のために来航した際にも、友好的に接しました。なお、水野忠徳一団の通訳は、中濱万次郎(1827-1898)でした。離島であるがゆえ、小笠原諸島は激動の時代の影響を受けていたのです。

 小笠原諸島は、ナサニエル・セボレーの死後2年目にあたる1876(明治9)年、日本の領地として国際的に認められました。ナサニエル・セボレーの墓碑は、その銘文の歴史的価値により東京都指定有形文化財(古文書)に指定されています(写真1,2)。

写真1 ナサニエル・セボレーの墓碑
(小笠原村父島、2022年6月7日 撮影:小西潤子)
写真2 ナサニエル・セボレー 墓碑の解説
(小笠原村父島、2022年6月7日 撮影:小西潤子)

 その頃のハワイはといえば、1810年にハワイを統一したカメハメハ1世 KamehamehaⅠ(1758-1819)の亡き後を継いでカメハメハⅡ世(1797 -1824)が王座に就き、継母のカアフマヌ Ka’ahumanu (1768?-1832) が実権を握った時代でした。1820年にアメリカン・ボードが布教を開始し、キリスト教を受け入れたカアフマヌはかつての禁令制度を廃止して、在来の神と神官の存在を否定しました。

 太平洋貿易の拠点となったハワイからは、1790年代から中国の広東に向けてビャクダンが輸出されましたが、1830年頃には枯渇してしまいました。一方、1825年前後にはマンゴーが持ち込まれ、オアフ島ではコーヒーとサトウキビのプランテーションなど商品作物の栽培やラム酒の製造も始まりました。また、1830年にはカリフォルニアからカウボーイがやってきました。

 捕鯨船が最初に現れたのは、1819年でした。小笠原に寄港した捕鯨船の多くは、ハワイを経由してきたのです。1824年になると、ハワイ諸島に寄港する捕鯨船は年間100隻に及び、1828年にはホノルルに112隻、マウイ島ラハイナに47隻と増え続けました。アメリカの捕鯨船が最も多く、1835年からの10年間にアメリカの捕鯨は最盛期を迎え、船の大型化も進みました。その一方で、ギャンブルや不摂生な暮らしをする「ならず者」が上陸したことで、ホノルルの治安は著しく悪化しました。

 カメハメハ Kamehameha Ⅰ世(1758-1819)の孫にあたるバーニス・パウアヒ・パーキー・ビショップ王女 Bernice Pauahi Pākī Bishop (1831-1884) が生まれたのは、ちょうどその頃のこと。有名なビショップ博物館は、夫のチャールズ・リード・ビショップがパウアヒ王女を称えて、1889年創設しました。ハワイの人々が生き残るために、ハワイの言葉、文化、伝統を重んじる教育が重要だと考えたパウアヒ王女の遺志により創設されたのが、ハワイの伝統とキリスト教の教義に則った私立のカメハメハ・スクールです。

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