[2021.10] 【アルゼンチン・ニュース】 ブエノスで常に至高善を求めた音空間「カフェ・ビニーロ」がコロナの犠牲...いざ次のラウンドへ〜ポルテーニョが愛した伝説の音空間の話
文●本田 健治 texto por Kenji Honda
ブエノスアイレスのパレルモ地区に2009年にオープンしたライブ・カフェ&レストラン「カフェ・ビニーロ」が、コロナ禍の影響を受けてとうとう閉じることになった。
自分もバンドネオンを演奏するチェチェ・オルドニェスと、2003年からのタンゴダンス世界選手権の草創期を実質的に動かしていたテレサ・ロドリゲスが、その職を離れてブエノスアイレスの新しい音楽ムーブメント揺籃の地を目指して活動を開始。もちろん最初から上手くいったわけではなく、苦労しながら、仲間を集め、リリアナ・エレーロ、フアン・ファルー、フリエタ・ベネガス、ソレダー・ビラミル、レオ・マスリア、マリア・ジョアン&ギンガなど、内外の優れた音楽家に自由な演奏の場を提供してきた重要な文化の発信地だった。アーティストたちにとっては,いつ来ても自由で楽しい場所。アルゼンチン・ポピュラー界の大御所たちとも気軽に話ができる場所だった。アーティストたちにとって、急にリハーサル会場が必要な時には、空いてさえいればほぼ無料で場所を貸してくれる。ただただ高いアンテナを立てていることが、仲間の暗黙の了解だった。コロナの前までは確実にブエノスアイレスの文化的名所、インディペンデント音楽の象徴といわれる存在になっていた。しかし、ここも、パンデミックの影響で閉鎖に追い込まれた。
ディエゴ・スキッシ、フアン・キンテーロ、アカ・セカ・トリオ、キケ・シネシ、ダニエル・マサにウーゴ・ファトルーソ、FRANZ(ファラスカ、レイ、アグリ、ニシンマン、サラテ)、ラミーロ・ガジョ、テレサ・パロディ、ディノ・サルーシ、ホセ・マリア・サルーシ、エル・アランケ…挙げていたらキリがないが、誰にも愛される空間だった。表に面したレストラン&バーでも、独自のレーベルを販売するテラスでも、もちろん客席でも自由に話し合う雰囲気がある……。
ポルテーニョが愛した音空間の話。パレルモ...
ブエノスアイレスは非常に保守的な街と言われる。しかし、1983年に軍事政権が終わり,亡命していた文化人、作家、音楽家たちがこぞって帰国し、昔から自由な雰囲気があったこのパレルモ地区に集うようになって、少しづつそんな前向きの文化的空間が生まれだしたように記憶している。このパレルモ地区というのは、ブエノスアイレスでも一番広いバリオ(地区)で、植物園から、美術館、広い公園までたくさんある。パレルモ地区はコルドバ通りを挟んでビジャ・クレスポ地区と向き合う。元々このあたりは洋服のデザイナー、仕立屋、裁縫屋などが多かった地域だが、83年にアルゼンチンが民主化されてから、急激に若者を中心として発展してきたところ。パレルモ・ソーホーは、もちろん、NYマンハッタンから名を借りたこの地域にボヘミアンなアーティストたちが移り住むようになり、休日には、セラーノ広場(正式名称はコルタサル広場)を中心に、今では世界中の若者たちや、意識の高い観光客を惹きつける一大マーケットになる。画家たちが自慢の作品を並べ、アクセサリーから、可愛らしいサンダルや下着まで著名な若者デザイナーたちを生んできた。また、アメリカTV((宮沢和史の「島唄」がチャート・トップになってブエノスアイレスを訪問した時に出演した局)を始めTV局ができるようになった隣の地区はパレルモ・ハリウッドと呼ばれ、この辺りが若者文化の爆発的震源地になった。やがて、この店に集まる客の中に、気の利いた政治家や文化人に不動産屋がいて、彼らが本格的にパレルモ地区の再開発をし始めたのだそう。ソーホーやハリウッドと命名したのは不動産業界の仕掛けだったとも言われるている。
カフェ・オメロ
まず、83年に亡命していたパリから帰国した女性歌手スサーナ・リナルディが名付け親になった「カフェ・オメロ」が、セラーノ広場(コルタサール広場)のすぐ近くにオープン。
マルコーニ・トリオがステージの上から、「やるよ…」と声をかけると,客席にいたゴジェネチェは左手に葉巻かパリシエン(ジタンのようなタバコ・ネグロ=タンゴ人はタバコはこれにしなさい!と)、左手にマティーニまたはカンパリ・ソーダ、たまにポケットに手を突っ込んで何やらモソモソ……の姿で、客との会話から、いつの間にかマルコーニの音楽に対するレシタード(詩の朗読)調に移り、やがて徐ろにステージに登り、彼の圧巻の歌世界になっていく……女ゴジェネチェ、アドリアーナ・バレーラも、あのタランティーノが酷く酔っ払いながらも確実に太い、左手で刻む低音の振動に合わせる歌が極上だった。ステージングそのものが素晴らしかった。こうして観光客相手ではない、地元の進歩的な文化人が集まる場所として有名になっていった。作家や、TV人、画家、デザイナーたちが,この店から新しい文化の伝統を創り上げていった。
とは言え、「カフェ・オメロ」が開店した80年代の数年間はこの街で夜に明かりが眩しいのはせいぜいこの辺りだけだったのだが、だんだん地域が活性化し、文化を愛する仲間が若者の間にも増え、進化していった。現在のセラーノ広場の混雑ぶりを、当時は全く想像できなかった...。
クルブ・デル・ビーノ
その「カフェ・オメロ」が何の事情か店を閉めると,今度はそこから100メートルほどセントロ寄りに戻ったところに「クルブ・デル・ビーノ」がオープンした。名前の通り世界的に最良の評価を得ているアルゼンチン・ワインをカチョ・バスケスという道楽好きの経営者が始めたクラブ。300人ほどの小劇場スペースの前のテラスでは客の好みに会わせてワインをブレンドするサービスも行っていた。ここでの主役は、オラシオ・サルガンだ。相棒のデ・リオのギターだけでなく、わがラティーナがプロデュース、録音した「ヌエボ・キンテート・レアル」が毎土曜日に出演していた。ちなみに、このクルブ・デル・ビーノももちろん観光客のための店ではなかった。目指したのはポルテーニョ(ブエノスアイレス人)のためのポルテーニョの良質の文化だ。この店には、他にマルコーニ、ネリー・オマール、ディノ・サルーシ、ホセ・サルーシ、後にリディア・ボルダ、リリアーナ・エレーロ…まさに、タンゴの本物の大物たちから、バラーダ・クリオージョの歌手、ブエノスアイレス文化に酔いしれる人間たちにとってはとても大切な場所だった。ヨーロッパで活躍するダニエル・バレンボイムも、アルゼンチン ・ロックのレジェンド、チャーリー・ガルシアもカチョの仲間でよく遊びに来ていたし、その心意気は少しづつだが、しっかりと若者に継がれていった。しかし、2,000年にオーナーのカチョがティグレの川で急死してから息子が数年は頑張ったのだが、徐々に世界的に販売網を広げて忙しくなってきたワインの本業の方に力を入れるようになり、ここの活動はストップすることになった。
その後を受けるように登場したのチェチェがオーナーで、テレサ・ロドリゲスが運営、キュレーターを務めた「カフェ・ビニーロ」だった。場所は、パレルモ地区でもセラーノ広場からは13ブロックほどセントロ寄り、Goritti通り3780番地、2009年に開店した。じつはアルゼンチンで若者たちに支持される音楽に、大きな展開の場がたくさん与えられているわけではない。ニセト・クルブという東京・恵比寿のリキッド・ルームみたいな海外のロック、ポップス、ジャズ、レゲエ、ブラジル音楽などのコンサートをやるクラブ(モレーノ・ヴェローゾやカシン、ジョアン・ボスコなどもここでやっていた)が 、アルゼンチン・ロック以外となると、本当に小さな空間に仲間が手作りのカクテルに、折りたたみ椅子を並べて20人くらいの、本当のサロン・コンサートを開くことが多い。ピュアな気持ちを続けるにはそれで良かったかも知れないが、マーケットを作り出すには如何しても、本格的なピアノを置いた(これが実は第三世界では簡単ではない)広いスペースが如何しても必要だった。その意味でもこの店の存在は大きかったのだ。
ブエノスアイレスに観光で行くと、必ずタンゴ・ハウスのチラシや名刺が置いてあって、ホテルのフロントが、お薦めのタンゴ・ハウスを紹介して貰えて、予約までしてくれ、時間になると、専用のバスが迎えに来てくれる。だから、ハイ・シーズンには一杯になったりする。しかし、その売り上げの50%ほどを旅行代理店(ホテルも代理店から受けている)にとられてしまうから、入場料と言えばポルテーニョたちには気が遠くなる入場料になってしまうのだ。最近のタンゴ・ハウスのショーはかなりレベルも上がったが、この入場料には、いつも落胆させられる。本当にタンゴが好きな外国人ファンにしても同じだ。その点、この空間では、現在の自分たちのやりたい音楽を安い入場料で実験できるし、来るファンもその過程を楽しんだりできるわけだから、質の高い音楽が育って行くわけだ。
軍事政権時代にもあった「カーニョ14」
そう言えば、パレルモのこれらの店ができる前、オベリスコからそう遠くない場所に「カーニョ14(カトルセ)」というこれも、中心にありながら、観光客目当てではない素晴らしい店があった。アティリオ・スタンポーネが、大スター、アニバル・トロイロに相談し、1962年に開店に漕ぎ着けたという収容人員は5〜60人、気の座り心地の悪い椅子の空間...。支援を約束したトロイロの言葉は愛情を込めた「一番ありそうな事は、全員が赤字になって、カーニョ(パイプ)の中で生活しなければならなくなることだ(14という数字は悪い経験を暗示している隠語)」と表現したとか。しかも、料理という料理はなく、売られていたエンパナーダはトロイロの母親が作っていたという伝説もある。しかし、ここに集まった人間たちの凄さ。トロイロのクアルテート、エンリケ・M・フランチーニのセステート、サルガン=デリオ、ルシオ・デマーレ、セステート・タンゴ、セステート・マジョール、フアンホ・ドミンゲス……マルコーニがまだ駆け出しの頃で、フアンホ・ドミンゲスとマルコーニは開店前、いつもここで本当のアドリブ合戦をして腕を磨いていた。この店のアーティストたちは、アドリブというものを実際に習得してから、やはりタンゴは端正な形にまとめた方が似つかわしいと考えた。先鋭的なサルガン、マルコーニに共通している考え方だ。
この店は、軍事政権下で、ミュージシャンのためにミュージシャンたちが作った店だった。軍事政権下でも、伝統的なタンゴ、フォルクローレは自国の誇りと許された音楽だったから存在できたわけで、世界と同様反体制的な方向に向かったフォークソング(フォルクローレ)はブエノスアイレスではなかなか生きにくかったし、世界を知るピアソラのような音楽家は亡命ではなくとも、世界を目指して国を出る方が良かった。ピアソラは、若いマルコーニに「いつまでこの国の中で立ち小便しているんだ」とけしかけたりもしたそうだ。左翼を公言していたプグリエーセだって生きにくかったはずだ。
しかし、その後、この店は口コミで広がり、1丁ほど離れたタルカウアーノ通り沿いに移った時はもう400人(ぎっしり詰めて)ほどを収容するようになった。プグリエーセ、モーレス、キンテート・レアル...夢のような連中が冗談を言いながら音楽を楽しんでいた「場所」だった。その後もビルヒニア・ルーケ、リベロ、ゴジェネチェ、マリア・デ・ラ・フエンテ、もちろん、ダンスのコーペス&ニエベス、グローリア&エドゥアルド……キリがない、要するにタンゴの大物たちのほとんどがここに屯した。しかも、作家、制作者、画家などの大物たちも普通に出入りしていた。経営はポルテーニョ向けだったが、口コミが広がって、やがて、観光客も押し寄せるようになった。政治家も俳優・女優も押しかけた……この店で起きた最大の悲劇は、フランチーニが1978年8月27日エクトル・スタンポーニのピアノと一緒に愛するこの店で演奏している途中に倒れ,そのまま他界した事件だ。フランチーニの最後の言葉が「バイオリン、俺のバイオリンはどこだ?」だった。このカーニョ・カトルセは、1986年にスタンポーネが売却、閉鎖した。レコレータに移った時には立派なだけで、もう全く関係の無いタダの立派なタンゴ・ハウスになって、数年でなくなったらしい....この「カーニュ・カトルセ」はパレルモではなく、もっとオベリスコに近い処だったが、やはりコルドバ通りからすぐ近くだった。最近、再開店したと言うが,全く別ものだ。
「カフェ・ビニーロ」も、「カフェ・オメロ」も、時代もジャンルもかぶらないが、あの「カーニョ14」の創り上げた空間の理念を基本的に引き継いできたようだ。どこの国にもあるように、もう音楽をジャンルで聴く時代じゃないのだから、あの「カーニョ」の精神を持ちながら、パレルモ地区でブエノスアイレスの新たな音楽文化を成熟させてきているのかもしれない。ポルテーニョ音楽家たちの間では世界の波もしっかりと受け止めて、音楽家魂もユーモアも、演奏家とファン両方に存在する狂気も知性も混在する空間を欲する空気は確実にあったし、育っていたと言うことだ。
カフェ・ビニーロ
さて、ビニーロのチェチェ・オルドニェスは自身が音楽家でバンドネオンも演奏する。日曜日になると自身のタンゴ楽団を率いて演奏し、客席を自由に踊れるスペースにした「カフェ・ビニーロ」のミロンガである。しかし、彼は何もタンゴというジャンルの演奏家だけではないから、ブエノスアイレスが育んできた過去の作品は演奏しない。すべてオリジナルの作品だ。「カフェ・ビニーロ」のひとつの姿勢そのものを示していた。また、彼は音楽教師でもあった。あのECMレーベルで紹介されて一躍ヨーロッパで人気を得たディノ・サルーシの息子、ホセ・サルーシもチェチェの生徒だった。ちなみに、ディノ・サルーシも、ブエノスに帰ってきた時は、いつもこの「カフェ・ビニーロ」で演奏していたし、サルーシ親子のコンサートはいつも超満員、聴衆が入り口の扉の外まで溢れたという。また、チェチェがあるコーラスグループ、アマチュアだが素晴らしい素質を持った若者たちを真剣な表情で指揮していた姿も覚えている。
そして、テレーサ・ロドリゲス。彼女の母親はエディトリアル・ラゴスという古くからある音楽出版社の重役で、とても知的で優しいご婦人だった。テレーサはその娘で、あの40代でブエノスアイレス市長になったアニバル・イバラが就任後すぐに世界のタンゴ事情を調査し、非常に肯定的な結果を手にして、「タンゴダンス世界選手権」を創始した2003年から、彼女はその現場の総責任者として活躍した。日本で開催した2004年のアジア選手権から2007年までアジア選手権にも気を配って、来日したこともある。物腰の柔らかい人で,いつも笑顔を絶やさないが、マラソンやトライアスロンにも挑戦する中身はかなり活発な女性だ。その後、イバラ市長が件の「クロマニオン共和国火災事故」(友人が経営するディスコ「クロマニオン共和国」で火災が発生、200人近くの若者が死亡)の責任問題で辞任し、のちに大統領になるマクリが市長になった2007年にその職を辞して、少しの準備ですぐに自分の夢だった芸術家や音楽家が集う空間作りに動き出して"カフェ・ビニーロ"を立ち上げた。2009年頃だったように思う。何しろ100名も入ったら一杯の客席とレストラン&バー、パセオのある今の場所を探し出して、すぐに活動を開始した。パレルモ地区の一番南東の結構人通りの少ない場所だったが、始めてすぐに評判になり、マスコミにも取り上げられた。が、建物が古い作りだったために、衛生局や検査官、消防所から何度も言われる度に、閉鎖、改装を余儀なくされ、その上に強盗や(日本では想像できないことですね)経済危機……それでも続けてきたのを覚えている。でも、評判が急上昇し海外からも、この店で演奏したいというグループがいくつも現れた。彼女が気に入れば、ジャンルを問わず、彼女の感性のままに企画を実現させてきた。彼女の人柄が、現地の若い優秀でセンスに溢れるスタッフを呼び、誰から見ても前向きで楽しそうな空間を創り上げていた。また、当時の政権とは敵対しているはずの現在の市の政権からも任されて「ブエノスアイレス国際ジャズ・フェスティバル」の会場として利用させたり、エミリオ・バルカルセの発案で続いている「オルケスタ・エスクエラ・デ・タンゴ」に、練習や発表の場も無償で与えてきた。タンゴの関係で言えば、フリオ・パネや、ニコラス・レデスマが中心となって実現した「タンゴ・コンテンポ・フェスティバル」にも協力して成功に導いてきている。
このビニーロの活動は,ライブを提供するだけではなく、自身のレーベルも立ち上げて、CDの制作販売や、FEIDI(独立レーベル・フェリア)のミーティング、著名なミュージシャンのワークショップや、トークイベントもこなしてきた。こうして、ブエノスアイレスの新しい音楽文化活動の交流に大きなく貢献をしてきていた。
この「カフェ・ビニーロ」だが、コロナが始まりパンデミアが拡大してからはほとんど営業できなくなり、日本同様雀の涙ほどの補助金でやってきたが、結局追いつかずに、ついに不動産屋が他に貸し出しを決めてしまったよう。その後、チェチェとテレサが話し合い、疲れ切ったチェチェは一休みし、テレサは、3年前から一緒にビニーロを支えてきた夫君でもあるエドゥアルド・ミッシュと共に、抱き続けてきた理念を別の場所で更に発展させることになった。エドゥアルドは演劇界では有名な存在の俳優、監督もこなすフリーのプロデュサーで、3年前から「カフェ・ビニーロ」の文化マネージャーとして、音楽、演劇、フェスティバルのサイクルを企画・運営する一方で、自身の演劇作品を上演してきた。チェチェとの話し合いで「ビニーロ」の名前は彼女が引き継ぎ、今度の空間名は「カサ・ビニーロ」と決めているらしい。現在物件を当たっている段階で、近いうちに場所を決め、スタッフとのミーティングを重ね、コロナが落ちいた来年の夏頃まではその空間をしっかりと紹介したいと考えているそうだ。日本で文化に携わるわれわれだって同様に大変だが、理想だけは失わずにペースを取り戻していくしかない。「カフェ・ビニーロ」の閉鎖は残念だが、この力強いふたりと魅力的なスタッフがいる限り、また世の中を覚醒するような企画を送り出してくれるはずだ。
テレーサからこんな言葉が届いた。
「このコロナが始まってから、何度もスタッフと打ち合わせを開いて存続を目指してきたけど、もう限界。発表を遅らせたのは、なんとか次の目安を立てて発表したかったから。チェチェは心底疲れて、もうビニーロを続ける意欲を失っていた。私たちは「カサ・ビニーロ」の場所を探していて、目を付けている候補はあるし、11月からはコロナの規制ももっと楽になる。しっかりと準備をして来年の夏頃までには開店にこぎ着けたい。大丈夫、必ず良いニュースを届けられるので待っていて下さい! 私? 今はまた「タンゴ」に戻ってます。「キンテート・レボルシオナリオ」(元キンテート・アストル・ピアソラ)のマネージングをやりながら、準備中。キンテートも凄く良くなっているから是非聞いて下さいね」
幸い、アルゼンチンのコロナ感染に下がり、大分明るいニュースが広がり、もう不愉快な制限も解除になり始めている。この際は、閉鎖を悲しむよりは次のラウンドを楽しみに待つことにしよう!!!
(ラティーナ2021年10月)
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