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[2008.6]《今年はジルに抱擁を!》ジルベルト・ジル再考 第4回 ジルベルト・ジル〜1人の政治家として

 本記事は、ジルベルト・ジルの2008年の来日ツアーの前に半年にわたり特集した中の、月刊ラティーナ2008年6月号に掲載された記事です。今年、16年ぶりに来日することを記念し、筆者の岸和田さんにご協力いただき、本記事を再掲いたします。

文●岸和田 仁

 ジルベルト・ジルは多才である。今更いうまでもないことだが、ミュージシャン、作曲家にして作詞家であり、詩人、作家でもある。だが彼の教育履歴からすると、もともとは経営学部卒の多国籍企業の幹部候補生(厳しい選抜試験をパスしたキャリアのエリート)であったのに、自らの意思でミュージシャンの道を選択したのであり、現在は政治家、現役の大臣(2003年から文化大臣、現在6年目)でもある。
 今回は、彼のアーティスト以外、とりわけ政治家としての側面を、系統的ではなく〝恣意的〟にフォローしてみよう。

1988 年、サルヴァドール市会議員のジル。ジルは当時から現在までPV ( 緑の党) に所属する。

 彼の政治家稼業について入る前に、まずブラジルの歴史において、文人やアーティストが政治家になった例がいくつかあるので、それらをざっとみておこう。

 まず、ブラジル社会論の古典『大邸宅と奴隷小屋』などの著作を残した社会人類学者ジルベルト・フレイレ。彼は1946年から一期(4年)のみだが、連邦下院(制憲議会)議員をつとめている。彼が提出した法案の一つとして、憲法をマンガ小冊子で国民に配布するというユニークなものがあったが、結局法律にはならなかった。
 あるいは作家ジョルジ・アマード。『果てなき大地』、『ドナ・フロールと二人の夫』などの作品で知られる文豪が、下院議員になったのは1945年だが、党が非合法となったため48年国外亡命している。所属していたブラジル共産党(PCB)の指示に従い、選挙に勝てる〝タレント候補〟として出馬、当選したものだが、自ら提出した法案はカンドンブレのテヘイロ(礼拝所)の合法化ぐらい(本人の説明)であった。ちなみに、当時の同僚議員には、のちに武装都市ゲリラのリーダーとなるカルロス・マリゲーラとか、中国派(のちアルバニア派、現在は〝自主独立〟路線)の分派(ブラジルの共産党PC do B)を指導することになるジョアン・アマゾナスらがいた。

 学者ではサンパウロ社会学派を代表した社会学者フロレスタン・フェルナンデスが1980年代末一期下院議員をつとめている。彼はインヂオ研究からはじめてブラジル従属社会批判を激烈に展開した学者だが、晩年は〝純正社会主義〟をもとめる立場からPT(労働者党)に所属し、議員としては本会議はじめ出席率の高い真面目議員であったが、政治家として活躍したかというと、議論が分かれるところだろう。
 彼の弟子に当たるのが、フェルナンド・エンヒキ・カルドーゾだ。従属論の名付け親である社会学者は、まず上院議員になってから、大臣(外務、財務)を経て、1995年から2002年まで二期大統領をつとめている。所属政党はPMDB(民主運動党)からPSDB(社会民主党)だ。
 歌手で最初に連邦議員になったのは、アギナルド・ティモテオだろう。1982年に下院議員にPDT(民主労働党)から出馬して大量票を得て当選した時は、マスメディアの紙面をハイジャックしたほどの扱いだった。一期でやめたあと、1995年再び立候補、当選したものの、任期途中でリオの市会議員に当選、といったドタバタ議員であった。
 現在の国会(下院)には、フォホー歌手であるフランク・アギアール(サンパウロ選出、PTBブラジル労働党)とエディガール・マゥン・ブランカ(バイーア選出、PV緑の党)がいるが、議会場での派手なパフォーマンスで新聞記事になることはしばしばであるものの、政治家としての仕事については合格点をあげられるか疑問だろう。
 また歴代の文化大臣についてもごく簡単にみておきたい。ブラジルの行政においては、もともと教育行政と文化行政は一つの省(教育文化省)が担っていたが、サルネイ政権(1985−89)で文化省を独立させ、著名な経済学者セルソ・フルタードが大臣に就任している。フルタードは今や教科書になっている『ブラジル経済の形成と発展』『ラテンアメリカの経済発展』などの著作で知られ、初代のSUDENE(東北伯開発庁)長官として地域経済発展にも実績のある学者であったが、文化大臣としての功績は意外とない。ルーラ現大統領の前任F・H・カルドーゾ(在任1995−2002)政権で文化大臣を務めたのが、政治学者フランシスコ・ヴェフォートであった。彼は「マルクス読書会」(1995− )の時からカルドーゾの親友であったが、PT(労働者党)の創立者の一人であり、のちにルーラ党首の側近として党の事務局長を数年間(1984− )つとめたほどのPTの中核人物であったが、党を離れカルドーゾ政権が成立すると大臣になったのである。
 政権の流れからすると、ジルはこのヴェフォート大臣の後釜ということになる。

 さて、政治家としてのジルを解剖するならば、原理主義的な要素はまったくなくフレキシビルであることは大方が同意するところだ。ということは政治的な問題が起きると原則論をかざして論争し物議をかもすタイプではなく、ある面うまく立ち回りながら波風を立てずにやり過ごすタイプである、といってよい。こうした政治的柔軟性をどうやって習得したのか。その背景として、生まれ育った環境、大学までの教育環境をみておく必要がある、と筆者はみている。
 その辺を知るための資料はいくつもあるが、Songbook〝Gilberto Gil〟Vol.2(1992年)に収録されている、同著の編者アルミール・シェヂアキによるインタビューが適当だろう。この中でジル自身が自らの出自やファミリーについて詳しく語っているので、もっぱらこれに基づいて彼の少年期をみてみよう。

 ジルの生年月日は1942年6月29日、生まれはサルヴァドールであるが、幼少時、州都から300km以上内陸(西南方向)に入ったイトゥアスに移動している。彼の父親は医者にして政治家で、ジル自身の言葉に従えば「小さな地方都市では、支配階級に属するファミリー、ブルジョア・ファミリー」であった。「僕の父親は、地元のリーダーの一人で、その町というよりもその地方に二人しかいなかった医者の一人であった。まちも地域も政治的に二分されていて、一方が父親でPSD(社会民主党)に属し、もう一人のドトール・ゴウヴェイアは保守派のUDN(全国民主同盟)だった。だから、PSDの人たちは病気になると僕の父のところに通院し、UDNに属する人たちはゴウヴェイア先生のところで治療してもらっていた。だから、もしPSDの人が生死にかかわるような急病になって、父が不在だと死ぬしかなかったし、UDNの場合も同様だった。というように、政治的対立のひどい田舎で父は政治ボスの一人だった」。市長や市会議員選挙であれ、連邦議員や州知事であれ、選挙となるとジルの家は選挙本部となっていた。1950年の大統領選挙の時(この時ジェツリオ・ヴァルガスが返り咲く)のことは子供心ながら今でもよく覚えている由だ。

 父親の患者たちの多くは貧しい人たちであったため、治療代が払えず、現金のかわりに豚とか鶏、羊などの現物を置いていったが、彼の家は演劇の舞台の如く、様々な登場人物が入れ替わり、様々なシーンが演じられ、日々の脚本も書き換えられていたのであった。また、様々な宗教行事、年中行事も田舎町イトゥアスでは、いわば彼の家を中心に営まれていた。そんな子供時代の実体験が、ブラジル政治の現場体験とオーバーラップしていたのである。

 黒人人口の割合が多いバイーアといえど も、黒人でありながら医者というのはレア・ケースであったが、ジルの言葉によれば、「黒であり、白人でもあり、父はムラート(白黒混血)だが頭の中は白(白人)で、髪の毛も白髪だった」、「確かに、稀なケースで、なんというか、黒人プチブルジョアで成功者であった、といえるだろう」

 また、母親は小学校の先生で、叔母も祖母も同様。教師を退職した祖母がジルの基礎教育を施したのであり、教育家ファミリーのなかで現実の政治も見ながら育った、というのがジルの少年期であった。すなわち、地元庶民層に溶け込んだ、進歩派黒人インテリ家庭、ここがジルの政治原体験といってよいだろう。

サルヴァドールの中学時代のジル(左から3人目)

 9歳から10歳になった頃サルヴァドールの学校へ転校し、その頃一番影響を受けた音楽がルイス・ゴンザーガであったことから、最初に買ってもらったのはアコーディオンであった。19歳の時、楽器をアコーディオンからギターに取り替えてミュージシャンとしてデビューするちょっとまえ、公務員試験を受けて合格、1962年から財務省の職員(税関の係官)として働きながら、大学で勉強を続けていた。

 1964年12月、経営学部を無事卒業したが、当初予定していたのは米国ミシガン州立大学の大学院(MBA)への留学であった(もし予定どおり留学していたら、研究者か大学教授になっていたはずだ)。その準備をしていた時、Gessy-Lever(現 Unilever)の入社試験をうけないかという話が持ち上がった。当時サンパウロ主体の事業をブラジル全国に拡大しようということで、優秀な学生を北はペルナンブーコから南はサンタカタリーナまで36名集め、選抜試験を行なった結果4名が選ばれた。州別では、バイーア1名、サンパウロ2名、パラナ1名となっており、ジルもその一人であった。

 正にキャリアの選ばれたエリートとして採用された彼らに用意されていた道は特級コースであり、サンパウロで 6ヶ月ほど研修を行なってから英国、インド、オーストラリアの工場3ヶ所へ派遣され、現場で鍛えられてから、ブラジルに戻っていきなりマネジャー級のポジションを与えられることになっていた(ここでまた、もし、だが、もし彼がそのままエリートコースを歩んでいたら、最初の黒人経営幹部か役員になっていたはずだ)。

©Priscila Casaes Franco

 既に、「ホーダ(車輪、運命)」や「プロスィッサン(行進)」を発表、レコーディングしていたジルは、「ロウヴァサゥン(賞賛)」を作曲、これをエリス・レジーナが歌ったことでたちまちヒットしていくのだが、その時期がこのエリート研修と重なっていたのである。会社にばれてしまい、人事担当から「君のサンパウロ研修は終了間近で、海外派遣も会社として正式に決定済みなんだが、音楽をやるのか、会社の仕事をやるのか、選択したまえ」といわれ、一週間以上悩みつづけ、父親にも配偶者(当時はベリーナ)や友人たちとも話し合った挙句、ジルは音楽の道を選択する。

 結果としては、音楽の道を選んだとはいえ、経営学という実学を修めたことが、彼のバランス感覚を深耕したといえるだろう。また、ついでにいえば、Unilever は、ロッテルダムに本社を有する典型的な多国籍企業で、今日ではマーガリンはじめ食品全般から整髪剤の如きデイリー品までカバーしているが、もともとは戦前のオランダ捕鯨時代に鯨油からマーガリンを生産して急成長し、その後アジア・アフリカでのパームオイル搾取でも〝悪名高い〟会社だ。その〝反動〟ないし〝罪滅ぼし〟のせいか社会活動に大変熱心で、ブラジルではコミュニティー活動や識字教育に長期的な大型資金援助を現在も行なっているが、ジルの時代は地域や人種の区別なく人材広く採用する方針を打ち出していたのであろう。その意味では、先進的な企業であり、そうした会社をジルが選択したというのも、なかなか先見の明があったといえるかもしれない。

 さて、政治家ジルの軌跡を追わねばならない。1979年、黒人としてはじめて「バイーア文化審議会」委員を委嘱されたのが、政府系の仕事を始めた初っ端で、1988年サルヴァドール市の市会議員に立候補し、当選(所属党はPV緑の党で、これは今日まで変わらない)。この年社会学者アントニオ・ヒゼリオとの共著で『O poético e o político(詩人にして政治家)』を発刊し、政治への発言を開始。翌年には環境保護を目的とする「Onda Azul」運動を立ち上げ、その勢いでサルヴァドール市長選挙への出馬を目論んだが、バイーア政治における「左のボス」ヴァルディール・ピレス(「右のボス」はアントニオ・C・マガリャンイス)に阻まれ、出馬できず。2003年からルーラ政権の文化大臣であるが、オフィスでの仕事はみえてこないものの、大臣ミュージシャンとしては、例えば、2003年8月ニューヨークの国連本部において開催された、バクダッドで爆死した国連外交官セルジオ・ヴィエイラ・デ・メロを追悼するコンサートなど国際的な活躍はこれまで報じられた通りだ。

 2005年1月、ベテラン俳優パウロ・アウトランが「ジルは音楽活動で大儲けしているけれど、ブラジルの大臣として何をやったのか私も知らないし、誰に聞いても誰も知らない。」と痛烈に批判、特に演劇への支援・理解が全くないと糾弾。ジルは「文化大臣の仕事として演劇だけ優遇するわけにはいかない、様々な活動をやっており、子供たちの演劇活動や地域演劇を支援しているし」と反論したが、演劇界は親ジルとはいえないだろう。2006年8月20日、組織的公金横領スキャンダルで人気が急落していたルーラ大統領を励ます文化人の集まりが、リオのジル宅にて大統領夫妻も参席して催されたが、アルシオーネ、ゼカ・パゴヂーニョはじめ80名余が「公金横領はなかった」とルーラ支持を表明。この会合に呼ばれていた朋友カエターノもカカー・ヂエゲス(映画監督)も出席を断った。この〝事件〟からも原則主義(カエターノら)と現実主義(ジルら)の〝対立〟を観ることが出来よう。


 ジルは、最近「私は政治家でない、一人の政治家でしかない」、「みんな文句ばかりいうが、文句のみで誰も何もしない」といった発言を繰り返しながら、現実の大臣という職務をこなしているといえるだろう。2008年の末までに大臣をやめる、と何回も発言しているが、代表的黒人知識人であるアブディアス・ナシメント(90歳)や女優ゼゼ・モッタから「やめないで」と熱烈支持コールが届けられている。

 ここで乱暴な私的感想をいえば、ジルはトロピカリア運動に象徴されるように文化革命家ではあるが、政治革命家ではない、となろうか。

(月刊ラティーナ2008年6月号掲載)







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