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[2021.04]日本のラテンシーンを作ってきた人たち〜ラテン音楽編《後編》〜

文●岡本郁生

《前編》《中編》はこちら↓

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※《中編》で書いたオルケスタ246結成の経緯について、石山実(現:実穂)さんからご指摘をいただきました。
 青山『ロブロイ』で松岡直也さんとセッションを始めたときのパーカッションは石山さん、斎藤不二男さん、ラリー寿永さんでしたが、やがて、石山さんと斎藤さんが脱退し、ソンの楽団で活動。それが発展して77~78年はじめごろにオルケスタ246になったとのこと。納見義徳さんはあとから加入したそうです。訂正いたします。

 1979年に来日したラテン・パーカッション・ジャズ・アンサンブルは、ある意味で、ファニア・オール・スターズ以上に日本人ミュージシャンたちに影響を与えたといえる。

 ファニア・オール・スターズが来日した1976年、日本人はサルサについてまだほとんど何も知らなかった。しかし、この来日に刺激されて、さまざまな人たちが “新しいラテン音楽” としてのサルサに注目しそれを目指した。それはミュージシャンだけでなく、音楽ファンたちも同様である。その中で、オルケスタ246やオルケスタ・デル・ソル、松岡直也のグループなどが活動を開始する。

「変な話ですけど、ぼくがキューバ音楽だと信じていたのはじつはニューヨーク・ラテンだったんです。だって、ティト・プエンテだってニューヨーク生まれでニューヨークで育った人ですから」と松岡自身が語っているとおり(『中南米音楽』1983年2月号)、彼のように長年に渡ってラテン音楽を極めてきた人でさえ、この1970年代後半という時点に至ってようやく、キューバ音楽とサルサ(ニューヨーク・ラテン)との違いと関係性をしっかりと理解したのだった。

松岡直也_5

写真:松岡直也

 戦前のルンバ・ブームから始まり、戦後のマンボ、チャチャチャのブームを経て、ダンスホール~キャバレーといった大人の世界の中で人気を確立してきたラテン音楽は、その過程で、いわゆる芸能界へとつながる世界を醸成し、ラテン音楽を日本なりに解釈し換骨奪胎する中で独特の歌謡曲をも生み出すことになった。しかし、そこで語られるラテン音楽とは、常にキューバ音楽……しかも1950年代までの……でありメキシコ音楽だったといえる。そこにニューヨークという場所が入り込む余地はなかった。しかし、1970年代、晴天の霹靂のように現れたサルサが、ニューヨーク・ラテンという概念を一気に浮上させたのである。

 まさにそんなときに来日したラテン・パーカッション・ジャズ・アンサンブルは、ニューヨーク・ラテンの最強軍団というべきスーパー・グループである。中心となるのは、ティンバレスのティト・プエンテとコンガのカルロス “パタート” バルデスというふたり。ラテン・パーカッション(LP)社が自社製品のプロモーションの意味を込めて1979年に結成し、プエンテ、パタートのほか、ジョニー “ダンディ” ロドリゲス(ボンゴ)、エディ・マルティネス(ピアノ)そしてアンディ・ゴンサレス(ベース)というメンバーで来日した。各地でクリニックとライブを行い、当時、日本の若手ミュージシャンたちに計り知れない影響を与えたのである。

 こうして日本は本格的なサルサの時代といえる1980年代に突入していくが、ちょうどこの1980年に、敗戦直後から長らく日本のラテン界を牽引してきた東京キューバンボーイズが解散したことは、日本におけるラテン音楽史において、きわめて象徴的なことにも思われる(ちなみに、リーダーの見砂直照は1990年に亡くなったが、その後2005年に子息の見砂和照によって復活、見砂和照&東京キューバンボーイズとして現在も活動を続けている)。

 そして、1980年代のシーンを牽引したのはやはり、オルケスタ・デル・ソルと松岡直也であった。

 デルソルは1981年、ファースト・アルバム『レインボー・ラブ』をリリース。ジャケットのイラストは河村要助が担当した。冒頭のタイトル曲はペッカーのボーカルによるメレンゲだが、プエルトリコ人のジョーとカルメン・ロペス夫妻の歌をフィーチャーしたニューヨーク・テイストが濃厚なサルサや、英語によるラテン・ファンク、インストのルンバ(1930年代に流行ったものではなく本来の意味でのキューバのルンバ)など、かなりバラエティ豊かな内容であり、それが、ファニアに代表される、当時のニューヨーク・ラテンらしさを見事にとらえていた。さらに、翌1982年には、原宿クロコダイルでのライブ・アルバム『ハラジュク・ライブ』をリリース。ロペス夫妻は帰国したが、橋本俊一の歌を中心に、ウィリー・コロン、エル・グラン・コンボ、マチート(ラロ・ロドリゲス)など、サルサの名曲のカバーを中心とした選曲で、客席のもの凄い熱狂ぶりに驚かされる。

 思えば、ファニア・オール・スターズの『ライブ・アット・ザ・チーター』が日本に紹介されたのが1970年代半ば。その中に収録された「デスカルガ・ファニア」のベース・ソロの途中、客席から自然発生的に聞こえてくる手拍子によるクラーベのリズムが、多くの日本人にとって最初のクラーベ体験だったはずだ。『ハラジュク・ライブ』が録音された1982年、ほとんどの日本人にとってクラーベはまったく未知のものだったが、デルソルのライブ会場では……マニアが集まっていたとはいえ……それが完全に理解され、バンドと一体となっているのだ。

オスケスタデルソル_5のコピー

写真:オルケスタ・デル・ソル(1982年)

 とはいえ、ラテン音楽界自体が大いに盛り上がっていたのか? といえば、そうではなかった。ファニア・オール・スターズは来たものの、興行的には大赤字だったためプロモーターは二の足を踏むようになり、現地で最高潮に盛り上がっている旬のサルサ・アーティストが来日するということはまったくなかった。さらに、1970年代半ばに各社からリリースされた日本盤も、セールスが伸び悩んだため徐々に廃盤の憂き目を見ていたのである。そんなわけで1970年代末~80年代半ば、来日や日本盤リリースという意味ではまったく低調な時代だったといえる。

 だがその一方で、現場はこのように熱く燃えていたのだ。デルソルは、クロコダイルやピット・インで定期的にライブを重ね、知る人ぞ知る……といった感じでファンはじわじわと広がっていく。また、キューバ帰りの清野一家によって恵比寿に「ボデギータ」が開店、ラテン音楽に飢えたマニアたちのたまり場になっていたのもこのころである。

 松岡直也の方はといえば、1979年にウィシングを結成。1980年にスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演すると、直後にこのライブを収録した2枚組アルバムをリリースし、一躍注目を集めることになった。メンバーは、ペッカー、高橋ゲタ夫をはじめデルソルとかなり被っているが、ウィシングの方は歌なしで、よりジャズ~フュージョン寄りの、いわゆるラテン・フュージョンを目指していた。デルソルが、若手のスタジオ・ミュージシャンを中心に「好きでたまらないサルサをとにかくやりたい!」と、いわば趣味のバンドとしてラテンを真剣に追及していたのに対して、松岡の方はもともとがラテンのプロであり、一時期裏方にまわっていたこともあったためか、よりメジャーを目指していたように思える。ウィシングからよりコンパクトな編成の松岡直也グループとなって、1983年には再びモントルーに出演。独自のラテン・フュージョンを確立し、数々のインストゥメンタルによってヒットを飛ばすととともに、1985年には中森明菜に提供した「ミ・アモーレ」でレコード大賞を獲得するという快挙を成し遂げた。ちなみにこの曲はもともと「赤い鳥逃げた」として、よりニューヨーク・ラテン・テイストの強いアレンジとなっていたが、のちに歌詞とアレンジを変えてリリースされたものである。

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 その松岡で忘れられないのは何といっても、単身ニューヨークに乗り込んで録音したアルバム『見知らぬ街で / Fall On The Avenue』(1982年)である。

 当初、“ラテンの王様” ティト・プエンテとの共演を想定していたものの不測の事態が起こり頓挫。しかし結果的に、ジェリー・ゴンサレス(コンガ)、ホセ・マングアル・ジュニア(ボンゴ)、ニッキー・マレーロ(ティンバレス)、レイ・バレット(コンガ)、オマー・ハキム(ドラムス)といった、ニューヨークのラテン~フュージョンの精鋭たちが参加したセッションとなった。本場の伝統を継承してきた人たちの中に松岡が飛び込むことによって、それぞれの解釈の違いがクッキリと現れ、それがぶつかり合うことによって、真の意味でのフュージョンが実現した傑作となったのだ。

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 そしてこの時期、イラストレーターの河村要助がさまざまな雑誌などに発表した文章と書き下ろしの素晴らしいイラストを集めた単行本『サルサ天国』(1983年)、そして続編というべき『サルサ番外地』(1987年)を出版。この2冊は、サルサという音楽の本質を見事についた名著として長らく記憶されるものとなった。『サルサ天国』の中に印象的な文章がある。

 サルサの根源はいうまでもなくカリプソで、そのうちの、スカとメレンゲが合体したものがサルサで、非常に西インド諸島のフレーバーの強いものだ。イギリスのモダン・ロマンス、ヘアカット・ワンハンドレッドなどが、その旗手たち……。
 何ですかこれは? 私は口が裂けてもこういうことは言えません。82年5月24日号『平凡パンチ』の特集記事、「この夏、大流行の兆しを見せるサルサを、写真とイラストによる徹底レクチュアー」の冒頭の部分から引用してみたのだ。日本の夏、サルサの夏は、早くもこうして汚されたのである。

 このように、一般誌で特集が組まれるほど、当時サルサが注目を集めていたことは事実。しかし実際のところ、実態はまったく理解されていなかったようだ。ここから透けて見えるのは、戦前から続く「ラテンは南国のユルい音楽……」という日本人の勘違いではないだろうか。

 しかし、そんな中でも、新しい芽は着実に育まれていた。「サルサ・デ・ダンシン」と銘打って毎月ラテンのライブを行っていた原宿クロコダイルなどが拠点となり、新しいバンドが次々に登場したのだ。たとえば、高校生のころからデルソルのライブに入り浸り準メンバーとなっていた大儀見元と女性ボーカルのNORAが中心となったオルケスタ・デ・ラ・ルスが結成されたのは1984年秋。同じころ、NORAとオルケスタ246のメンバーだった森村あずさらを中心に、女性サルサ・グループのチカブーンが活動を始めている。

 そして1987年12月、ファニア・オール・スターズ来日から11年のときを経て、ついにニューヨーク・サルサの本命中の本命、ウィリー・コロンが来日した。サルサ・ファンに大きな衝撃を残したこの初来日公演の招聘はエムアンドアイカンパニーで、翌1988年にはファニア・オール・スターズ6(ファニアの精鋭によるインスト・グループ)、そして1989年にはルベン・ブラデスの来日を実現させ、1990年からは、「カリビアン・カーニバル」と題して、真夏の日比谷野外音楽堂にてラテン音楽のフェスティバルを開催することになったのである。第1回の出演者は、オスカル・デレオン、タブー・コンボ、オセロ・モリノー&ザ・カリビアン・バンド、そして、オルケスタ・デ・ラ・ルスというラインナップであった。

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写真:オルケスタ・デ・ラ・ルス(ニューヨーク公演|1989年)

 デラルスは、前年(1989年)にメンバーの自腹で初のニューヨーク公演を実現しセンセーションを巻き起こすと、1990年にはファースト・アルバムが日米同時発売。なんと、サルサ/トロピカル・アルバム・チャートで1位に輝くとともに、一躍、世界レベルのバンドへと駆け上がっていたのである。さらに、1993年には国連平和賞を受賞することになった。

 さて、このようなフェスティバルが実現した背景には、当時、日本がバブル経済の真っただ中にあった、という事情もある。そしてバブル経済は大量の外国人を日本に呼び寄せ、その中には、コロンビア人や南米の日系人といったラティーノたちもいた。この1990年前後から、六本木や新宿といった盛り場では、週末、東京近郊から遊びに来る日系人たちが集まるラテン・クラブが登場。やがて日本人の間でも人気となって活況を呈し、それ以前の日本のラテン音楽シーンとはまったく別の、在日ラティーノたちを中心としたラテン音楽シーンが作られていった。

 ちょうどそんなときに沖縄からデビューしたのが、日系ペルー3世のアルベルト城間を中心としたディアマンテスだった。アルベルト自身は出稼ぎで来日したわけではないが(全米日系人協会の歌謡コンクールで優勝し歌手になるために1980年代半ばに来日)、ディアマンテスとしての活動を始めたのは1990年代初頭。デビュー・アルバムに収録された「ガンバッテヤンド」は、まさに出稼ぎ日系人たちを励ますような熱いラテン・ロックとなっていた。また、1980年代半ばに結成されたチカブーンがこのころにメジャー・デビューを果たし、テレビ・ドラマの主題歌を手掛けるなど注目を集めたほか、デラルスを脱退したカルロス菅野が熱帯JAZZ楽団を結成して新たなラテン・ジャズ・ビッグ・バンドの道を探るなど、1990年代には、ラテン音楽シーンに新しい波が押し寄せていたのである。

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写真:アルベルト城間(1994年)

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写真:チカブーン(1992年)

 そして、日本に、サルサ・ダンス・ブームが押し寄せてきたのも、ちょうどこの90年代半ばのことである。

 まだまだ書きたいことはあるのだが、いったんここまでで一区切りをつけて、このあとはまた機会を改めてご紹介することにしよう。

(ラティーナ2021年4月)

*参考資料:
・「中南米音楽」バックナンバー
・『ジョイフル・フィート』松岡直也オール・スターズ(ANT)
・『見知らぬ街で / Fall On The Avenue』松岡直也
・『サルサ天国』(話の特集)
・『サルサ番外地』(筑摩書房)

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