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[2008.7]《今年はジルに抱擁を!》ジルベルト・ジル再考 第5回 ジルの体内を流れるバイーア/ブラック・ミュージックの濃厚な血流

 本記事は、ジルベルト・ジルの2008年の来日ツアーの際に半年にわたり特集した中の、月刊ラティーナ2008年7月号に掲載された記事に、音源を加えた内容となります。今年16年ぶりに来日することを記念し、筆者の中原さんにご協力いただき、本記事を再掲いたします。

文●中原 仁

 シリーズ「ジルベルト・ジル再考」、第5回は「バイーア」そして「ブラック・ミュージック」をキーワードに、ジルの壮大な音楽世界に迫っていくことにしよう。
 言うまでもなく、ジルベルト・ジルはアフリカ系ブラジル人で、アフロ・ブラジル文化の都・バイーア州サルヴァドールの出身だ。バイーアに根ざしたアフリカ性は、ジルが先天的に備えているアイデンティティである。
 しかしながら、初期のジルの音楽において、アフロ・バイーア成分はさほど顕著ではない。67年のポピュラー・ソング・フェスティヴァルで入賞し、トロピカリアの序章となった曲「日曜日に公園で(ドミンゴ・ノ・パルキ)」でビリンバウの演奏を取り入れたのと、ロンドン亡命の直前にカエターノと共にサルヴァドールで行なったサヨナラ・コンサートで、地元の民族音楽グループのメンバーを迎えて「日曜日に公園で」を歌ったことが数少ない例(このライヴ録音は『バーハ69』で聴ける)。また、トロピカリア時代のジルは率先してロックの要素を取り入れたが、アフリカを起点としたつながりがあるブルースやR&Bの要素はまだまだ希薄だ。
 その理由として、ひとつはジルが生まれて間もなくバイーア州の内陸部に移ったこと、サルヴァドールに戻って最初にマスターした楽器がアコーディオンだったことがあげられる。つまり彼のルーツ・ミュージックは、ルイス・ゴンザーガに象徴される北東部の音楽だったのだ(本誌4月号を参照)。

 もうひとつ、音楽の道に進んだジルにとって決定的だったのが、同世代のジョルジ・ベン(現在名はジョルジ・ベンジョール)の存在だ。盟友カエターノ・ヴェローゾが、著書『ヴェルダーヂ・トロピカル』の中で興味深いエピソードを披露している。2人がバイーアにいた時代、ジルはジョルジ・ベンの音楽に夢中になった。ある日、ジルがサルヴァドールのナイトクラブに出演した際、「もう私は自分で曲を作り、それを歌うことをやめた。私がやりたいと思っていたことをすべてやっている人物が登場したからだ」と語り、その夜はまったく自分の曲を歌わずジョルジ・ベンの曲だけ歌い続けたという。
 63年のデビュー時点でサンバとブルースやR&Bの本能的なミクスチャーを体現していたジョルジ・ベンの音楽を聴き、ジルは「してやられた」と思ったのだろう。カエターノは、自分もジョルジの音楽は好きだったが、ジルがそこまでジョルジの音楽に左右された理由が当時は理解できなかったそうだ。同じアフリカ系ブラジル人だからこそ、ジルはジョルジに直感的な何かを感じとり、そして憧れや尊敬や嫉妬など複雑な感情にとらわれたことが想像できる。
 一時期はジョルジ・マジックの呪縛にとりつかれていたが、間もなくジルはジョルジの作曲術やギターワークの影響を受けながら自分自身の音楽を模索し始めた。その後、2人は出会うべくして出会い、68年にジルはジョルジの作品「ケレモス・ゲーハ」を、ジョルジ(ギター)とカエターノ(コーラス)を迎えて録音した。

 ジルの音楽の中にブラック・ミュージックの要素が出始めたのは、ロンドン亡命中の71年に録音した『ジルベルト・ジル』。全曲、英語で歌い、ブルース・ロックやR&Bの色が濃厚だ。ロンドンで英語圏の音楽を身近に体験したこと、ブラジルとブラジル音楽を客観的に見る環境にいたことから来る、ごく自然なアプローチと言えるだろう。ちなみに、このアルバムに先駆けて70年にロンドンで録音したサントラ盤『コパカバーナ・モナムール』(99年に初CD化)からは、ジョルジ・ベンの影響がハッキリとうかがえる。

 ロンドンから帰国した後、75年にジルは因縁(?)の人、ジョルジ・ベンとの本格的な共演を果たした。2人の双頭アルバム『ジル・ジョルジ(オグン・シャンゴー)』。オグンもシャンゴーもカンドンブレの神様の名前。2人が各々の曲を持ち寄ってスタジオに入り、ギターをかかえて向かい合い、細かい取り決めなしのライヴ・セッション形式で録音したアルバムだ。時間の経過も気にせず、心ゆくまで魂の会話を繰り広げ、ジルの作品「フィーリョス・ヂ・ガンヂー」では2人が共有するアフリカン・ルーツにたどり着いた……、そんな雄大なロマンを味わえる、スピリチュアルな魅力あふれる快作である。

©Priscila Azul

 そして77年、ジルは初めてアフリカの大地に立った。ナイジェリアの首都ラゴスで開催された「第2回世界黒人文化芸術フェスティヴァル」に出演し、現地に1カ月滞在した。その体験と成果を、ジルは帰国後すぐ実行に
移す。そうして生まれたアルバムが『ヘファヴェーラ』。76年発表の前作『ヘファゼンダ』と同じく、それぞれ「ファヴェーラ(都市のスラム)」「ファゼンダ(農園)」の前に「再、さらに」を意味する「RE(ヘ)」を配したタイトルで、ルーツを確認し未来へと向かう姿勢を打ち出している。

 『ヘファヴェーラ』でのジルは、バイーアを立ち位置として右手でアフリカを、左手でUSAのブラック・ミュージックをとらえた。パーカッションを多用し、アフリカの打楽器バラフォンを題材にした曲、カンドンブレの儀式から生まれたイジェシャー(アフォシェ)のリズムに乗った曲、フィーリョス・ヂ・カンヂーのレパートリー、アントニオ・カルロス・ジョビンの「ジェット機のサンバ」のライト・ファンク調のカヴァーなど、スカッとした汎アフロ・ミクスチャー・サウンドを展開。ジルの音楽性を確立したエポック・メイキングなアルバムである。

 ここで、フィーリョス・ヂ・ガンヂーとジルの関係について触れておこう。フィーリョス・ヂ・ガンヂー(ガンヂーの息子たち)は、アフォシェと総称されるサルヴァドールの黒人たちの団体の草分けで1949年に創立された。カーニヴァルではターバンをまいた白い衣装のメンバーがイジェシャーのリズムに乗ってパレードし、その壮大で神々しい姿は「動く白いじゅうたん」に例えられる。
 ジルは子供の頃からフィーリョス・ヂ・ガンヂーが大好きだった。ところがロンドン亡命から帰国後のカーニヴァルで、ジルは悲しい光景を目撃した。彼の目に飛び込んできたのは、財政上の理由で存続が危なくなり、所
在なげに道ばたに腰かけたガンヂーの人々。胸を痛めたジルはその後、ガンヂーのメンバーとして積極的にカーニヴァルに参加し、『ジル・ジョルジ』ではガンヂー讃歌のオリジナル曲を、『ヘファヴェーラ』ではガンヂーのレパートリーを歌うなど、彼らを応援した。こうしてフィーリョス・ヂ・ガンヂーは息を吹き返し、今日に至るまでサルヴァドールのカーニヴァルのシンボルとして人々から敬意をもって迎えられている。
 ジルは『ヘファヴェーラ』の中で、ガンヂーの曲だけでなく、74年に結成されたブロコ・アフロ、イレ・アイェの曲も歌っている。ガンヂーもイレ・アイェも民族的なルーツに根ざした団体であり、同じバイーアのアフリカ系ブラジル人として彼らに共鳴し、活動をサポートする姿勢が感じられる。

 ところでこの時代、リオではUSAの黒人たちの 〝ブラック・イズ・ビューティフル〟精神に影響を受けた〝ブラック・リオ〟と呼ばれるムーヴメントが広がり、バンダ・ブラック・リオ、ウニアゥン・ブラックといったソウル〜ファンク・バンドが登場した。その機運に呼応するかのように、ジルは77年、ナイジェリア公演に同行したバンドを母体とするブラジル・ヴェリー・ハッピー・バンド名義でシングル盤をリリースした。これはほとんど話題にならずに終わったが、ファンキーなサウンドは今でも聴きごたえ十分だ。
 アフリカを実体験したジルは、次にUSAを目指す。78年7月、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演した後、ロサンゼルスに向かい、以後の約10ヶ月はロスを拠点に生活した。その間、セルジオ・メンデスのプロデュースで現地のミュージシャンと共演したアルバム『ナイチンゲール』をUSA向けにリリース。フュージョン〜メロウ・ソウル系のサウンドに乗って自作曲の再録を中心に、英語で歌った曲も多く、完全な海外向けの作品だが、USAのミュージシャンとの共演は決して無駄ではなかったと思う。

 そして79年、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズで名高い「ノー・ウーマン、ノー・クライ」のポルトガル語ヴァージョン「ナゥン・ショーリ・マイス」をリリース。このシングル盤は75万枚の大ヒットを記録し、ほぼ同時期にリリースされたエリス・レジーナの「酔っぱらいと綱渡り芸人」と共に、軍事政権末期のブラジルにおいて無実の政治犯の釈放と亡命者の帰国を訴えるシンボルとなった。

 同年、ロスで『ヘアルシ』を録音して帰国。このアルバムには「ナゥン・ショーリ・マイス」をはじめ、イジェシャーのリズムをポップにアレンジした「トーダ・ミニーナ・バイアーナ」などの人気曲が数多くある。

 これ以降、80年代前半にかけて、ジルの音楽はポップ指数が高まり、ブラック・ミュージック色も濃くなった。81年の『ルアール』からは、アース・ウィンド&ファイアーのサウンドに影響を受けた名曲「舞台(パルコ)」がヒット、これは現在までジルのライヴのクライマックスに欠かせない定番となった。「アシェ・ババー」ではイジェシャーのリズムが全開。続く82年の『ウン・バンダ・ウン』にもイジェシャーのリズムに根ざした曲があり、ジルという音楽家の中でアフロ・バイーアのリズムもUSAのブラック・ミュージックも完全に溶け合って一体化したことが感じとれる。

 ところで、ジルがレゲエを初めて知った時期は、ロンドン亡命中の70年にまでさかのぼる。「ロンドンでの2年目にはノッティングヒル・ゲートに住んだ。そしてそこで、レゲエに出会ったんだ。ノッティングヒル・ゲートはまさにレゲエの震源地だった」(4月号より引用)。そこにいたのはジャマイカからの移民たちだろう。一緒に亡命していたカエターノ・ヴェローゾは早速、イントロとエンディングにレゲエを配し、歌詞にもレゲエ体験を反映した曲「ナイン・アウト・オブ・テン」を録音したが(注:ロンドン録音盤『トランザ』に収録)、ジルはすぐに手を出さず、アフリカやUSAブラック・ミュージック体験を通過した後に初めてレゲエと向かい合った、という違いがある。
 「ナゥン・ショーリ・マイス」を歌ったジルは80年、ジミー・クリフとのジョイント・コンサートをブラジル5都市で行なった。その模様はテレビの特別番組として放送され、レゲエが本格的にブラジルに上陸した。そしてジルは84年、初めてジャマイカに出向き、ボブ・マーリー亡き後のウェイラーズとの共演で「ヴァモス・フジール」を録音。この曲を含むアルバム『ハサ・ウマーナ』には他にもレゲエ調の曲が多く、ルイス・ゴンザーガの「ヴェン、モレーナ」もレゲエのリズムでカヴァーしている。ジルの音楽のレゲエ頻度が高まったのは、このアルバムからだ。

 85年の『ヂア・ドリン・ノイチ・ネオン』では、レゲエがジルの音楽の看板になった。「都会のあばら家で」「南アフリカ解放への祈り」などでのメッセージ性の強い歌詞は、レベル・ミュージックとしてのレゲエの精神にも符合する。サウンド面でも、イジェシャーとレゲエ、ファンクとサンバのミックスを実現。この力作を引っさげて、ジルは86年に初来日公演を行なった。


 これ以降もジルは前進を止めず、あらゆる音楽を貪欲に吸収、消化しながら独自のパン・ブラック・ミュージックを追求してきた。『オ・エテルノ・デウス・ム・ダンサ』(89年)ではタイトル曲で当時まだ10代のエヂ・モッタをゲストに迎え、『パラボリカマラー』(92年)ではドリヴァル・カイミを「黒いブッダ」 と讃える一方、まだアンダーグラウンドな存在だったファンキ・カリオカのムーヴメントにいち早く呼応して「お前のファンキになりたい」と歌い、カエターノとのコラボ盤『トロピカリア2』(93年)ではオロドゥンやジミ・ヘンドリックスをカヴァー。『クアンタ』(97年)ではインターネット時代の到来を先取りした曲「ペラ・インテルネッチ」でDJのスクラッチをフィーチャーする一方、最古のサンバ曲とされる「ペロ・テレフォーニ(電話で)」の一節を引用。2002年にはボブ・マーリー作品集『カヤン・ガン・ダヤ』を発表した。


 「バイーア」と「ブラック・ミュージック」をキーワードにジルの足跡を追ってきたところで、最後に吉報。10年ぶりの来日とタイミングを合わせて、スタジオ録音のオリジナル・アルバムとしては実に11年ぶりとなる新作『バンダ・ラルガ・コルデル』がリリースされる。

 詳しい内容は次号以降に譲るが、発売に先駆けてブラジルのサイトにアップされた音源を試聴してガツンとヤラれた。ジルの多彩な音楽世界を網羅した強烈な力作で、ブラック・ミュージックの要素が相当に強い。レゲエ、チン・マイアやカシアーノに通じる70年代ソウル、カエターノとマリア・ベターニアの母ドナ・カノーの100歳を祝うイジェシャーをはじめ、スカ+ファンク、レゲエ+イジェシャー、ファンキ+マラカトゥなどのミクスチャーもある、と言うよりもさまざまな要素が完全に溶け合っている。
 この会心の新作を引っさげて、ジルは6月から欧米ツアーに出た。夏場にかけて各国を回り、バンドの音もバッチリ固まったタイミングでの来日、これはホントに楽しみだ。今なお鮮烈な記憶が残っている86年の初来日公演、その感動と興奮をしのぐ最高のライヴ・パフォーマンスを見せてくれるに違いない。

(月刊ラティーナ2008年7月号掲載)


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