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[2021.08]【連載 アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い⑤】寄せては引く波を見つめながら -《Wave》

文と訳詞●中村 安志 texto e tradução por Yasushi Nakamura

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お知らせ●中村安志氏の執筆による好評連載「シコ・ブアルキの作品との出会い」については、まだ今後素晴らしい記事が続きますが、今回からまた、一旦、この連載「アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い」の方を掲載していきます。今後も、何回かずつ交互に掲載して行きます。両連載とも、まだまだ凄い話が続きます。乞うご期待!!!(編集部)
著者プロフィール●音楽大好き。自らもスペインの名工ベルナベ作10弦ギターを奏でる外交官。通算7年半駐在したブラジルで1992年国連地球サミット、2016年リオ五輪などに従事。その他ベルギーに2年余、昨年まで米国ボストンに3年半駐在。Bで始まる場所ばかりなのは、ただの偶然とのこと。ちなみに、中村氏は、あのブラジル音楽、ジャズフルート奏者、城戸夕果さんの夫君でもありますよ。

 難しい「数学の授業」のお話まで行ったところで、今回は、ジョビンによるシンプルな愛の歌を1つ。1967年10月リリースの名アルバムの中心をなす、「Wave」です。ジョビン自身が作曲・作詞をし、フランク・シナトラなどにもカバーされた世界的ヒット曲。ご存知の方も多いと思います。

Wave Wave 歌詞最新

 冒頭で歌われるポルトガル語は、「Vou te contar(君に教えよう)」という言葉。実は、この1行だけは、本連載第4回でご紹介した「サビア(Sabia)」や、その後「白黒写真の肖像画(Retrato em branco e preto)」を一緒に作ったジョビンの盟友シコ・ブアルキが書き、残りはジョビンによる歌詞とされています。何があったのでしょう?
 「Wave」は、当初インストゥルメンタルで作られた曲です。ヒット後に、ジョビンがシコに歌詞作成を依頼したという流れでしたが、そろそろできたかと電話したジョビンに、シコは「1行目だけできた」として、Vou te contarと歌ってみせたものの、その後なかなか筆が進まず、ジョビンは自身で完成させることに方針転換。「君に教えよう」と歌い始めたのはシコだったが、残りは僕が教える羽目になったと、後年、ジョビンはユーモアを交えて語っています。
 完成寸前に、画竜点睛に参画した人物がいます。ミルトン・ナシメントなどに歌詞を提供することとなった、後の名作詞家ロナウド・バストスです。当時、そこまで親しくはないジョビンと一緒に作業させてもらえるか心許ないと考えた彼は、Waveのメロディーを録音して持ち帰り、後日、自分なりの歌詞の案をしたためて参上しますが、ちょうどその日できあがったというジョビンから歌詞を聞かされ、引っ込めました。バストスは何ら不満もなく、全体を聞いた後、1点だけ、ジョビンが披露した歌詞の「二度目」という上記の部分がDa segunda, a eternidadeとなっているところに「o cais(埠頭で)とひと言付け加えたらどうだろうか」と提案。これが受け入れられ、現在の歌詞になったそうです。

 続く2〜3行目の「目にはもはや見えない/心だけが理解することができる」は、サンテグジュペリの名作「星の王子さま」の中で「かんじんなことは目に見えないんだよ」と告げる王子の言葉からの着想です(L’essentiel est invisible pour les yeux)。意外な接点ですが、ここにもジョビンの思想に通ずる要素があると思います。(英語版「Wave」の冒頭では、So close your eyesと、目を閉じることで感じなさいと命じる形になりました)
 大自然を愛し、目に見えない人の心を大切にするジョビンの作風。これは、ボサノヴァ誕生に至る前の古い時期にジョビンの手で生み出された歌の中にも、既によく現れています。例えば、「Wave」のほぼ10年前となる1958年に、ジョビンが旧友ニウトン・メンドンサと共作した「Caminhos cruzados(交差する道)」という歌の次の部分はどうでしょうか。角度を変えれば、ニウトンが共同制作した歌に内在する思想にジョビンが後で染まり、後年ジョビンが作り出した素敵な単独制作の歌にもつながったのでは、と見てもよいかもしれません。

 自分はなんと愚かなことに(Que tolo fui eu)
 理屈で片付けようとした(Que em vão tentei raciocinar)
 愛にまつわるあれやこれを(Nas coisas do amor)
 誰も説明などできないものなのに(Que ninguém pode explicar)
 (Antonio Carlos Jobim & Newton Mendonça, 「Caminhos cruzados」より)

 いわゆるボサノヴァ誕生以前に生まれた曲で、後年ボサノヴァの1つとして、アレンジも当初のものとは変えて演奏されたものが少なからず存在します。例えば、ジョビンの名曲としてよく知られる「Outra vez(またしても)」は、ヂッキ・ファルネイ(Dick Farney)が最初に歌ったのが1953年。ボサノヴァの萌芽は、その誕生の目安とされる1958年よりも数年前からあちこちに存在していた。歌われる内容や様々な曲の響きなどからみても、私はそう考えています。
 さて、更に、「Wave」の歌詞の中盤あたりに、目を向けてみましょう。

 Da primeira vez era a cidade(最初は街だった)
 Da segunda, o cais e a eternidade(二度目は埠頭、そして永遠)

 「3月の水」の初版ジャケットに、ジョビン自身がオラーヴォ・ビラッキの詩を引用し、「ここから私の3月の水が来ている」と書き残したように、ジョビンは、過去の詩や歌に若い頃から幅広く目を通し、少なからぬ影響を受けています。「Wave」のこの部分についても、堅苦しくない言葉で女性の恋心や、北東部で過ごした自身の子供時代などを描く作品を残した1886年生まれのマヌエル・バンデイラの詩の中にある、A primeira vez que eu vi Teresa(テレーザ(女性の名前)を初めて見たとき)といったフレーズが念頭にあったと指摘されます。(なお、テレーザは、ジョビンの当時の愛妻の名前でもあります。)
 そして、「Wave」を締め括るフレーズは、O amor se deixa surpreender/Enquanto a noite vem nos envolver(予期せぬ動きに任せる愛/夜が僕たちを包み込む間に)という、粋なポルトガル語です。前半のO amor se deixa surpreenderの構造を、ポルトガル語の構文をある程度維持したままで言い直せば、愛という単語を主語に立てた上で、「愛しあう登場人物が想定以上の世界に突き進んでいくことを、愛の力が自ずと黙認し、その結果、2人はなすがままに流れていく」といった形。恋愛関係の深まりを、見えない力の仕業として巧みに表現した名作曲家ジョビンは、なかなかの名詩人でもあると言わざるを得ません。寄せては引く波を見つめながら、夜の帳が下りる流れと、こうした動きが並行している。それが、この「Wave」に描かれている情景です。
 なお、このあたりにも一応の参照材料は存在するようです。ブラジルの大詩人ドゥルモン・ジ・アンドラージが詠んだCão mijando no caos, enquanto Arcturo/claro enigma, se deixa surpreender(犬が混沌とした中に小便をする、その間にアークトゥルスが/ 明らかな謎で、思わず人を驚かせる)という有名な詩(Oficina irritada(苛立った作業場))がありますが、「Wave」のクライマックスとなるO amor se deixa surpreenderの表現は、そこからヒントを得たものとみられています。

(ラティーナ2021年8月)

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