[2022.4] ブラジルの偉大なるグラフィック・アーティスト、エリファス・アンドレアート氏逝く!
文●本田 健治
コロナ禍により2年ぶりとなったアルゼンチン出張からの帰途、ウルグアイ、ブラジルを空から眺めていた ⎯⎯ 3月30日昼、成田空港について日本に降り立ってすぐ、編集部に電話すると、私はブラジルからの悲報を耳にすることになる。エリファス・アンドレアート(Elifas Andreato)の訃報だ。
エリファス・アンドレアートは、ブラジルを代表するグラフィック・アーティスト、セット・デザイナー、ジャーナリストで、われわれ音楽ファンには、シコ・ブアルキ、ヴィニシウス・ヂ・モライス、トッキーニョ、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、クララ・ヌネス、マルチーニョ・ダ・ヴィラ、エリス・レジーナ、ガル・コスタなどブラジル音楽の歴史を彩るアーティストたちのLPから、現在のデジタル時代の配信作品まで、豊饒なブラジル音楽の様々なカバーアートを手がけ、世界のシーンに送り出すのに大きな役割をになってきたことで知られている。特に私たちの「ラティーナ」にとっては、1984年から本当に長い間、月刊雑誌の表紙を描き続けていただいた。感謝してもしきれない巨匠のとても悲しい知らせだ。
現在の「e-magazine Latina」は、2年前にデジタル化するまでは、もちろん紙の雑誌「月刊ラティーナ」で、その前が「月刊中南米音楽」だった。元々はタンゴの愛好会の機関誌のような存在だったものが、1970年に入りフォルクローレや、サルサ、フラメンコ、ブラジル音楽など世界のラテン音楽を幅広く紹介するようになって、特に70年代からは、自らもアーティストの招聘をはじめルようになった。80年代には、現代タンゴのアストル・ピアソラ、ブラジルのガル・コスタ、アルシオーネ、クララ・ヌネス……などが新しい世代に受け入れられるようになった。もちろん、当時は、いわゆる一般のプロモーターたちもフラメンコのパコ・デ・ルシアやサルサのスターたちも招聘して「ラテン・ブーム」とまで叫ばれはじめた時代だった。「月刊中南米音楽」から「月刊ラティーナ」と誌名も変えたのは、社内の事件がきっかけではあったが、そんな社会の背景を受けて、全てを見直す意味で再出発することにしたのだった。
とはいえ、1号だけの休刊での再出発は楽な作業ではなかった。それでも、たくさんの新しいライターたちの賛同もいただき、思いのほか順調にことは進んだのだ。が、一番苦労したのが表紙だった。私がイメージしていたのは、ブラジル音楽のLPジャケットにあるエリファス・アンドレアートが手がけたイラスト。単純に子供がサッカーボールと遊ぶ姿を描いているが、十分リズムが聞こえてくる素晴らしいイラストだった。彼の作品は、どれも感動できるものばかりだったが、中でも気に入ったそのイラストを持って、色々な日本のイラストレーターに、この「こうしてリズムが聞こえ、思わず歌が聞こえてくるような、こんな感じのイラスト」をと相談し、探し回った。当たり前だが、払える金も限られているし、そう簡単に現れてくれる訳もない……。再出発は弊社の応募に応えてくれた若い女性イラストレーターの作品で出発することにした。
最初慣れなかった彼女も大分調子を上げ、作品もだいぶ落ち着いてきた頃、ブラジルの友人から「お前の言っていたエリファスに話をしたら会ってもいいと言っている」という。ところが、同時に入ってきた情報に怖気付いた。このイラストレーターはブラジル最大のアブリウ出版で働きながらも、単なるジャケットのイラストレーターではなく、時代を捉えたライターたちと一緒に雑誌「オピニオン」を創刊したり、ステージのコンセプト・デザインも手がける上に、当時世界的に人気の雑誌「PLAYBOY」のブラジル版の表紙や、ブラジルで最も有名な雑誌「Veja」の表紙も手がける大物らしい。なにしろ、こちらは地球の裏側の弱小出版社。持ち合わせる予算もとてもじゃないがそんな大物には見合わない。「ダメもと気分、会ってみること」だけを楽しみで、乗り込むことにした。
ちょうど、招聘の契約の仕事もあったので、すぐにサンパウロの彼のアトリエを訪ねることに。確か朝早くの約束で、まだ彼は現れていなかったが、アシスタントが丁寧に応対してくれた。アトリエの床には、いつもジャケットで見て感動している素晴らしすぎる原画が所狭しと無造作に並んでいる。見ていて嬉しいのと同時に、必死に出てくる冷や汗を体の奥に閉じ込めるながら、彼の来るのを待ったのを覚えている。それからそう遅れることもなく、御大が現れた。仕事を引き受けてもらえる見込みなく、「ただ好き」と言うだけでアポをとって向かったのは、あのジスモンチの事務所に行った時とこの時が一番だったが、しかし、ジスモンチの時と全く同じように、エリファスはとても気楽に話を聞いてくれた。
「世界のマーケットでも最高の時期にあるブラジル音楽のプロモートを始めてまだ時間が経ってなく、超大物を連れて行っている割には、日本では実はまだまだファンの数は知れていましてね……」とか私は弁解から始めるしかなかったが、彼は日本という国に興味を持ってくれていて、逆に彼の方から「良いと思ったら始めるのが一番」と前向きな言葉をくれた。苦労人だった彼の言葉には優しさが溢れていた。
我々の雑誌を眺めて、「本は面白そうだが、自分はここにあるような他の国の音楽は知らないことが多すぎる。でも興味はある」と言ってくれた。「でも、一番言いにくいことですが、払えるのはXXX…(汗。恥ずかしくて書けません)」と口籠もっていると、笑いながら、「確かに高くはないねぇ」と言いながら、「できるだけ私の知っている音楽家を中心にして、知らない場合は、音楽その他の資料もしっかり欲しい。だったらやってみようか…」と言ってくれた。「エリファス・アンドレアートがOK!?」……天にも昇る気持だった。実際にラティーナの表紙に登場したのが85年4月号で、これは同年の1月頃の話だ。
かくして、1985年から2016年までの約30年もの間、エリファス・アンドレアートの絵が我がラティーナの表紙を飾り続けてくれた。もちろん、その間には彼の監修下で事務所のアシスタントが代わりに描いてくれたこともあったが。しかし、あの偉大なる巨匠から原稿を期日に間に合わせて取るのは並大抵の作業ではなかった。何日かの寝ない作業を終え、気がついたらエリファスの原稿が来ない、とエリファスとの仕事を後半の時期に担当した元編集長の船津やその後引き継いだ花田が顔面蒼白になる姿が今でもすぐに思い浮かぶ……。
考えてみると、エリファスのことをあまり紹介した記憶がないので、こんな時だが書き留めておきたい。
エリファス・アンドレアートは、1946年、ブラジル北部、アマゾン河の流れるパラー州のロランヂアに生まれ、フィアット・ブラジルの工場で旋盤工として働きながら、ダンスのボールルームを飾るパネルのペイントを始めた。これが美術関係の仕事に向き合う最初だったという。同時期に舞台美術のアシスタントも始め、67年には、前述のアブリウ出版社の研修生として働き始めたことから、その才能を開花させた。採用されてすぐに、女性問題担当のアート・ディレクターまで務めるようになり、「Vaja」誌の表紙を描いたのは78年からだったと言う。
音楽の世界との付き合いは、70年、そのアブリウ社のアート・ディレクターとして「ブラジル・ポピュラー音楽の歴史」コレクションの制作に参加したこと。彼は常にブラジルの独裁政権を批判し、エリファスの作品は「レジスタンスの色彩」と言われた。彼の参加した左翼系の雑誌「オピニオン」もこの頃に始まった。同じ思想を持つ多くの知識人たちと週刊「モヴィメント」や雑誌「アルグメント」などに執筆しながら、ジャンルを超えた「演劇」のビジュアル・ディレクターとしても活躍。72年には、すでにルイス・ゴンザーガ、マルチーニョ・ダ・ヴィラ、ミルトン・ナシメント、パウリーニョ・ダ・ヴィオラが参加した近代美術週間50周年イベントの企画・演出を担当しているし、ソルボンヌ大学卒の当時のセルソ・フルタード文化大臣の抜擢で、パリで開かれた「ブラジルの色々」(ブラジルの著名アーティストのほとんどが出演)というイベントの演出・セットを担当したり、舞台美術の方ではすぐに数々の賞も受賞した。
レコード・ジャケットの制作を始めたのは70年代だが、80年代になって、シコのアルバム『Ópera do Malandro』『Almanaque』『Vida』や、ヴィニシウスとトッキーニョの『Arca de Noé 1 e 2』『Um Pouco de Ilusão』、ジョアン・ボスコの『Essa é Sua Vida』 『Bandalhismo』等々を。
「私の芸術は、私の人生と繋がっている。私や私と似た人々が理解する世界、正義、自由を伝える役割を果たす」と語る「レジスタンスの色彩」の絶頂期を迎える。エグベルト・ジスモンチ、マルチーニョ・ダ・ヴィラ、ゼカ・パゴヂーニョなどの作品を通じて、シャープ音楽賞や、レコード制作者協会の出したレコード・ジャケットに与えられる賞を24個も受賞してきた。
ポリグラムが支配的だった南米市場に勢いよく飛び込んできて、新たなムーブメントを起こしたソニー・ミュージック・ブラジルの仕事にも力が入った。『Academia Brasileira de Música』と『Sambas Enredos』(史上最高のサンバ100選)のジャケットを担当する等々。また、最近ではブラジル文化の貴重な情報の収集、整理のほか、TV局や政府の大仕事を引き受けるなど、まだまだブラジル文化には多大な貢献をしている真っ最中の重要人物だった。
2009年、当時のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領から文化功労賞を授与され、2011年には、倫理的・民主的価値の擁護と人権のために尽力した人々に贈られるウラジミール・ヘルツォーク特別賞も受賞している。
私は彼のアトリエにもその後も何度か伺っては、色々教えを乞うてきた。日本に初めてフンド・ヂ・キンタルを招聘したという話をした時には、実はブラジルでの彼らのステージのバックに飾られていた素晴らしいセットがエリファスの作品だということに私は気づいておらず、逆に彼からフンド・ヂ・キンタルのブラジル音楽界での重要性について深く教えられたり。いつだったかフラっと訪ねた時には、以前モントルー・ジャズ・フェスティバルで聴いて(観て?)驚いた、あの「チェーンソー・パフォーマンス」のインテリ・アーティスト、トン・ゼーがいて、2人が実はトロピカリア時代からの大親友だったと教えてもらった…… 彼の周りにはいつも型破りで偉大なアーティストたちがいて、多くを教えられた。いつか日本で個展でもできたらと「夢」を話してきたんだが……。
巨匠エリファスは、数日前に心臓発作を起こし、2度の心臓手術を行なってきたが、3月29日朝、新たな心臓発作に抗しきれなかったそうだ。残念すぎる悲しい知らせだ。 合掌
(ラティーナ2022年4月)
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