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キンテート・デル・アンヘル、父アンヘルの愛した日本 Production Notes

文・本田 健治

 今、日本を縦断公演しているキンテート・デル・アンヘルの公演。東京は2月13日文京公会堂で、昼夜満員の大盛況で、強烈な演奏で、日本のタンゴ・シーンに強烈な足跡を残した。当然事前に用意していた物だが、このままにするのはもったいないので、ここに一気に掲載。

 最初に、急告!キンテート・デル・アンヘルの東京でのイベントが2月25日、青山スパイラル・ホールで行われます。グラン・ミロンガと言って、普段あまり演奏の方に関心を持たないけれど、じつはタンゴの演奏も聴いてみたいという方のために、ダンス中心のプログラムで、自分で踊ることもできて、ダンサー・デモも演奏、歌も、すべて観客から近い距離で聴け、ご覧になれるという特別なイベントです。このイベントでは、Jack & Jillというダンサー達のコンペがあり、そこでの入賞者は6月22日のアジア選手権のJack&Jill部門の決勝にシードされます。今や、アルゼンチン・タンゴの熱はアジア中に広まっていますが、今回のこのミロンガはそのアジ選手権20周年の発表のイベントということになります。コンサートは、日本公演の曲はもちろん、ミロンガ用にアレンジした曲も演奏、楽しくダンスできる仕組みになってますよ。

グラン・ミロンガ2024
20024年2月25日15:00〜21:00
青山スパイラルホール
その他下記の詳細はをご覧ください。

https://online.latina.co.jp/blog/2024/01/16/151540

 キンテート・デル・アンヘル。1年前、この名前を聞いてすでに知っていた人は相当なタンゴ通だったに違いない。ウンベルト・リドルフィ、今までにもいくつかのグループのバイオリン奏者として来日して、すでにファンも獲得している音楽家だ。その彼が2019年に創った「クアルテート・デル・アンヘル」をキンテートに作り替えて来日したのが、キンテート・デル・アンヘルだ。彼はコロン劇場フィルハーモニーでソリストも務める名バイオリン奏者で、その父がアンヘル・リドルフィ。ピアソラが亡くなる直前に行っていた彼の最後のセステートにベース奏者として起用されていた名人でもある。

(アストル・ピアソラ、ダニエル・ビネリbn, ジェラルド・ガンディーニpf, オラシオ・マルビチーノeg、カルロス・ノッシvc、アンヘル・リドルフィcbという編成での1989年の映像が↓)

 2月13日、東京・文京シビックホールでの昼夜満員の公演は、噂のアンサンブルのあまりの迫力に、会場に集まったファンは狂喜した。はっきり言って、近年では最上級の演奏に酔いしれることになった。 

さて、今回の日本ツアーの曲目は以下の通り。

(第一部)Tango del Angel / Taconeando/ Nostalgico(ダンス3組)/ Che Bandoneon(歌)/ tuspalabras y la noche(歌)/ Sentimental y Canyengue / Chique(ダンス)/ Trampera(ダンス)/ Orgullo Criollo / Negracha / Tango al Cielo / Azabache(歌ダンス)

(第2部)Lo que Vendra / Milonga selección(ダンス)・ロス・マレアードス / Intimas(歌)/ Vuelvo al Sur(歌)/ Nochero Soy(ダンス)Escualo(ダンス)/ Zum(ダンス)/ Celos(バイオリン・ソロ)/ Un Angel en Japon/ Siempre Vuelve a BsAs(歌)/ Contrabajeando(ベース・ソロ)/ La Cacjila(3組ダンス)/ Turiunfal / Maria de Buenos Aires(全員)

 全体的に、父や自分が敬愛するアーティスト、ピアソラ、フランチーニやレオポルド・フェデリコ関連の曲が並ぶ。多くがメンバーのニコラス・エンリッチやアドリアン・エンリケスのアレンジで格調高い。リドルフィ兄妹の弦の凄まじさには誰もが震えたと思う。フランチーニが「カーニョ・カトルセ」からヒットさせ、大人気にした「アサバーチェ」には観客も巻き込んで熱い雰囲気を。また、父親との思い出の強いLo que Vendra や Triunfal の演奏は絶品。デル・アンヘルの結成発表コンサートで最初に演奏したのがこの2曲で、父親への敬愛を表現したそう。それと、カルロス・ラサリが、彼女が18才の時、このタンゴシリーズに連れてきてプロ・デビューを果たしたバネッサ・キロスの歌は、現在タンゴ界でも頂点にあるといって良い名歌手ということを誰もが認めたと思う。コロナ禍の頃からウルグアイに退避しているガスパル&カルラ。カルラも子供たちが大きくなってきて、練習の時間をたっぷり取れたせいもあるのだと思うが、レベルの高いダンスが完全に復活してきた。総じて、ダンス陣のレベルは非常に高かった。何より、聴き所、見所満載の素晴らしいステージだったと思う。

誰にも愛されたアンヘル・リドルフィ

 さて、今回のキンテートは、息子のウンベルトが、「いつか自分のグループを作ったときにはこれ」と決めていた名前がつけられた。父アンヘルの名を冠したものだ。このキンテートはこれからも永遠に続いていく物と思うので、その誕生に関わるお話を少し加えておこうと思う。

 私がこのキンテートの日本招聘を発想したのは、2019年、ブエノスアイレスの一番のお洒落スポット、パレルモ・ソーホー地区に有る小さな庭の付いた高級レストラン「El Cabernet」で、彼のこのクアルテートを聴いてからだった。確かまだバンドネオンがニコラスではなかったが、それでも素晴らしい音をしていた。私もこれまで、彼を別の楽団のバイオリン・ソリストとして起用してきたのだが、何度も「いつか彼をリーダーにした楽団を招聘したい」と考えていたから、その夜は一気に話が盛り上がった。そして、日本で、この楽団の招聘が決まってすぐにやはりこの店で打ち合わせをした。どうしてももう一本弦を入れた方が、このウンベルトのソロも生きるんじゃないか、と訴えたら、それからすぐに返事が来た。妹のエリザベスは、現在国立アルゼンチン・シンフォニーのソリストで、タンゴ、フォルコローレやロック、ポップスまでアルゼンチンの音楽なら何でも演る国立のシンフォニーでソリストをやっている。腕は定評があり、彼女を誘って試し録音をしたら、他の4人も彼女なら最高!と目を丸くして、全員がまとまった。1昨年、日本公演が決まって、その後ブエノスアイレスの「タンゴの家」で、はじめてキンテートでの音を聞いた。取りあえず集まってもらって、マイクなしでの演奏だった。ウンベルトも凄いが、さすがアンヘル・リドルフィの子供たち。この弦2本が物凄い音に聞こえる。ピッチの正確さはもちろん、生音の音量が半端ない。
 その後、今年になって10月〜11月いよいよ正式な録音。エリザベスの入ったキンテートに、メンバーたちは全員が興奮しながらの録音になった。しかし、その途中で最初のクアルテートのメンバーで、前からウンベルトたちとは仲が良かったベースのマルティン・ケレディアンが急に病死。あっけないほどの突然死だったと聞く。それで、あのコロールタンゴのコントラバス、マヌエル•ポポ•ゴメスにスケジュールを聞いたらスケジュールを変更して、このキンテートでの来日となった。録音はブエノスアイレスで最も歴史あるイオン・スタジオ。その昔、あるレコード会社の依頼で一緒にヌエボ・キンテート・レアルを、アルゼンチン初のデジタル録音をした時から私が仲良くしているエル・ポルトゥゲスをウンベルトも親しくしているようで、すぐに依頼することに。

アンヘル・リドルフィ

 ウンベルトは「自分の中のタンゴは全てアンヘルからの遺産」と言い切る。だから、このグループ名も当初はクアルテート・デル・アンヘル、今はキンテート・デル・アンヘルだ。

右から二人目が亡くなったマルティン・ケレディアン

 実は筆者はウンベルトよりも、1994年11月9日に亡くなった彼の父アンヘルの方が長い付き合いだった。多いときは年に5回も6回もブエノスアイレスを訪れていた頃、いつもエセイサから、真っ先に向かったのは、マルコーニ=アンヘルのいるライブ・ハウス。最初は「カーニョ・カトルセ」。続いて「カサ・デル・ビーノ」、そして84年からは「カフェ・オメロ」…ここに来ている仲間たちから「現在」のブエノスアイレスの音楽状況、世界からやってきている音楽家の情報も含めてブエノスの音楽状況を知るには一番だったからだ。しかも、ほぼこの二人の前には、いつもあの不世出の天才歌手ゴジェネチェがいた。1998年に外務省の依頼で引き受けた大成功した「タンギッシモ」でゴジェネチェとも親しくなれたが、良い音楽家たちとの付き合いは本当に多くのことを学べる場だった。

 タンゴは「ブエノスアイレスの音楽」だから、その他の地方出身者にとってはそこで名を成すには相当の努力がいるのだという。マルコーニはロサリオ、アンヘルはメンドーサの出身だ。だから、ブエノスアイレス以外の出身者には天才肌が多いとも言われているとおり、二人とも若くして「天才」と呼ばれていた。リドルフィはメンドーサにいた頃からバイオリン、サックス、フルート、ピアノ、アコーディオン、コントラバスなど様々な楽器を自在に演奏する名手でならしていたが、1970年頃コロン劇場に請われてやってきた名手だ。

カーニョ14

 話が前後するが、「カーニョ・カトルセ」は、その後場所も経営者も変わって昔の面影はほとんどないが、黄金時代を超えたタンゴの世界がはじめて体験した不況の時代に、当時の親分格だったピチューコこと、アニバル・トロイロが提唱して、ロベルト・グレーラ、フランチーニ(彼はこの店のステージ上で1978年に亡くなった)らと一緒に始めた、今で言うライヴ・ハウスだった。ロックが世界を支配するようになって、行き所はなくなり始めたトロイロが、タンゴ人たちに呼びかけて、自分たちも楽しめ、本当に音楽が好きな人間が心から楽しめる新しいタンゴの時代を目指そう、と始めた店だった。当初はかなり苦しい門出だったらしく、トロイロの奥さん始め、音楽家の家族も総動員して、店を切り盛りしたそうだ。それでも、毎週TVでタンゴダンスを演じていたグローリア&エドゥアルドやニエベス=コーペスなど、ダンサーの面々や、ゴジェネチェ、初期にはフリオ・ソーサと言ったスター歌手たちもほとんどが参加するようになり、次第に人気を博す様になった。どうしても店が思うように伸びなくなると、もう、新しい時代を目指す力は溢れるようになって、若かりし頃のビルヒニア・ルーケは、あの小さなステージで、ブロードウェイ張りのミュージカルを始めたり(音楽はタンゴ)…… しかし、サルガン・デリオ、ゴジェネチェらはいつもその中心にいるようになった。

トロイロと仲間たち

 マルコーニとリドルフィは、最初はまだまだ若造だったが、コロン劇場にほど近いカーニョのスペースでいつもタンゴを極めるために練習に明け暮れていた。「カサ・デル・ビーノ」ではゴジェネチェ=マルコーニ=リドルフィに加え、サルガン=デリオが人気を博し、「カフェ・オメロ」ではゴジェネチェ=マルコーニ=リドルフィのステージに週末になると、タランティーノ始め、沢山の大物ミュージシャンたちが集まってグラスを交わしながら、大合同演奏なんて事もあった。佳い時代だった…… しかし、今は、あの頃の音楽たちが世界で息を吹き返して、聴かれるようになってきたのは、本当に嬉しい限りだ。

リドルフィとマルコーニ

 さて、またアンヘル・リドルフィといつも一緒だったマルコーニは現在市立タンゴ楽団の名指揮者として活躍、タンゴ界をまとめる大きな存在になったし、一方のアンヘルは1989年、上記のようにピアソラ最終章のセステート(たまにキンテート)の一員として務めたが、このヨーロッパツアーは、かなり小さな都市まで廻ったらしく、かなりきつい旅だったという。1992年ピアソラがその途中で亡くなり、それから2年後の1994年11月9日にアンヘルもブエノスアイレスで亡くなっている。丁度、このアンヘルの亡くなった頃には、世界のピアソラ・ブームが大きく花開いてきたわけだが、ピアソラはその花開いた世界を知らずに亡くなった。皮肉なものだ。

アンヘルと15才のウンベルト

 ウンベルトは1967年1月15日、アンヘル・リドルフィ家の長男として誕生(姉と妹がいて、全員バイオリン系)。早くから父に、その後はコロン劇場フィルの第一バイオリニストとして大活躍していたシモン・バジュールに師事して正式にバイオリンを習得するようになる。父からタンゴの息使いや、演奏方や和声、シモンからはより本格的なバイオリンの演奏法を教わることになった。そのシモンといえば、最初のピアソラ・キンテートのバイオリン奏者で、あの「アディオス・ノニーノ」の最初のバージョンの録音に参加した名手。早くからシモン・バジュールにその才能を認められたウンベルトは、彼によってより豊かな音楽人生を送る術を与えられたという訳だ。16才で、あの世界的に有名な室内アンサンブル「カメラータ・バリローチェ」の創設者アルベルト・リジーにも師事して、スイスの美しいグシュタードの音楽院に招かれることになった。

グシュタード

 リジーというと、あのメニューインの最初で最後の弟子として知られ、その後アルゼンチンで「カメラータ・バリローチェ」を創設した人。そこでヨーロッパでのツアー、コンサート、レコーディングに参加することに。そして、1986年から1990年まで、アメリカに滞在し、セントルイス音楽院とインディアナ州ブルーミントンの音楽大学でハイメ・ラレードとヨゼフ・ギンゴールドに師事、1988年と1989年には、アレクサンダー・シュナイダーに招かれ、カーネギー・ホールとケネディ・センターでニューヨーク弦楽アンサンブルと共演もしている。
 1995年からは、東京、ニューヨーク、ロンドン、メキシコ、サンフランシスコ、ブリュッセルなどのタンゴ・シーンのステージで、このジャンルの偉大なミュージシャンやカンパニー(ルイス・ブラボのフォーエバー・タンゴ、オ・タンゴ、アンドレス・リネツキーのカンパニーなど)とともに、精力的な活動を開始。1996年にジュネーヴ音楽院を修了し、音楽賞も受賞している。

 そうそう、肝心のメンバーをご紹介。

 2020年民音タンゴツアーでは、コロナが始まってしまい最後の4公演が中止になった。そのツアーで評判の良かった「キンテート・グランデ」で、もっとも評判になったバンドネオン奏者がニコラス・エンリッチ。数年前だが、先ほどのお洒落地区(パレルモ・ソーホー)にあるジャズ、ロックなど、アンテナの立った若者たちが集まる「Niceto Club」を根城にして活躍するニコ・ソリンのグループでバンドネオンを弾き、「アディオス・ノニーノ」のロック版を発表して大人気になったのが、ニコラスだ。

 ニコ・ソリンもボストンの音楽院で真面目な音楽を勉強してブエノスアイレスに戻り、ワールド系ならどんなスタイルもこなすが、特にこのアディアス・ノニーノはおかげでジャンルや世代を超えて人気になった。生前のレオポルド・フェデリコや、今や頂点にいるマルコーニも絶賛する名バンドネオン奏者。

 ピアノのアドリアン・エンリケスは、あのマルチな才能で大活躍をする天才ミュージシャン、ペドロ・アスナールのピアニストを2年間務めていたり、タンゴ界ではエミリオ・バルカルセやビクトル・ラバジェンなどと共に、エスクエラの第5世代。マヌエル・デ・ファリャ高等音楽院の教授も務めている。繊細な美しいタッチが特徴で、ブエノスで彼の指導を受けてきた日本人も数多い。

 今回初来日したエリザベス・リドルフィは、ウンベルトの妹で、アルゼンチン国立管弦楽団のソリスト。やはり、イタリア、オランダ、ドイツ、ロンドンで研鑽を積んで帰国した才女。

 ベースは、本当は彼らが長く行動を共にしてきたマルティン・ケレディアンが来日する予定だったが、実は来日の少し前に急死してしまった。その日は、録音の日で予定時間に現れないので行って見ると、一人住まいの彼は、そこでひっそりと亡くなっていたそう。そこで、急遽呼びかけに応えてくれたのが、今や何度も個人的にも付き合ってきたコロールタンゴの愛称ポポ、マヌエル・ゴメス。彼はコロールタンゴの演奏の無いいときは、沢山の楽団から声がかかる人気者だが、日本行きなら、と何とかやりくりしてくれて来日してくれた。

 歌手のバネッサ・キロスは、1993年にカルロス・ラサリ率いるフアン・ダリエンソ楽団で初来日。プロとしてのデビューもその時だったという。この日も、ここで歌うことの喜びを満面に表して、非常に中身の濃いタンゴを満喫されてくれた。2002年にはマエストロ、パブロ・シーグレル(ピアソラのピアニスト)に抜擢され、ホセ・アンヘル・トレージェスとともに世界各地でアストル・ピアソラのオペラ『ブエノスアイレスのマリア』の主役を演じ、セステート・マジョールとともに「タンゴ・パシオン」、ミゲル・アンヘル・ソト率いるTango×2に参加するなど、常に最もスポットを浴びるところで活躍している。

 ダンス陣は、ガスパル・ゴドイとカルラ・マソリーニのカップルが、ウルグアイのモンテビデオとブエノスアイレスを股にかけて活躍中だが、現在ウルグアイを拠点にウルグアインタンゴ界をも更に活性化すべく情熱を傾けている。昨年後半からは、それぞれがなかなか集まることはできない状態が続いていたが、そんな心配を全く感じさえない、逆にいつもよりも完璧なショーを見せてくれている。

 ダンサーについては、2003年の第1回タンゴダンス世界選手権の第一回のステージ世界チャンピオン、ガスパル・ゴドイのカンパニーの3パレーハ。これはまた、時期を見て映像も掲載したい。

 それにしても素晴らしいキンテートが発進してくれたものだ。とにかく、各会場に着いたらすぐにステージに向かい、直前まで熱く意見を交わし合う、そんな熱さを、この1ヶ月持ち続けている、素晴らしいグループだ。2月25日には青山でグラン・ミロンガをやる。何人かのダンス・ファンが「彼らの音楽では踊りにくそう」と言ったと言うが、大丈夫、ミロンガではミロンガなりのレパートリーも演奏も考えて用意しているそう!また、そのミロンガでも、今度のステージの見所はしっかり見せてくれるので、タンゴ・ファンならば必ず満足できるイベントになると思う。特に、日本のタンゴ界は、踊るファンと演奏のファンが別れているようだが、このクラスのアーティストたちの演奏は、ブエノスアイレスでもそう滅多に聴ける物ではないだけに、是非お勧めしたい。 (了)

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