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[2021.02]『春江水暖〜しゅんこうすいだん』新人監督、驚異のデビュー作は 今年のベスト10確実の三代にわたる家族の物語。

文●圷 滋夫(あくつしげお/映画・音楽ライター)

 “春江水暖” とは「春に河の水が暖かくなる」という意味で、このタイトルからも、本作の影の主人公は舞台となった中国の杭州市富陽区に流れる大河、富春江だと言いたくなる。なぜなら映画の序盤では富春江の説明が入り、終盤には富春江の歌が朗々と歌われ、最後のカットもロングショットで捉えた富春江の姿だ。そして何より一年を通した物語の中で、季節が巡るごとにゆったりと流れる富春江の川面が映し出され、そこにはその季節を表す花鳥風月が添えられ強い印象を残すからだ。

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 しかし同時にこの美しい自然と対比するように、富陽はアジア競技大会の開催を控えた都市として再開発が進み、古くなったビルやマンションが無情にも壊されてゆく光景が浮かび上がる。そんなアンビバレントな環境の中でも人々は慎ましやかに日々を送り、その営みの中で起こるドラマと深い心の襞が丁寧に綴られてゆく。

 物語は年老いた母の誕生日を祝うため、4人の息子とその家族や親戚が集う祝宴から始まる。ところが母は挨拶の時に脳卒中で倒れて入院、認知症の症状も現れ介護が必要になってしまう。しかしレストランを経営する長男は借金で困窮し、漁師の次男は結婚する息子ヤンヤンに新居を買う予定で、離婚してダウン症の息子カンカンと二人暮らしの三男は博打で負けて借金取りに追われ、建物の解体作業をしながら気ままな独身生活を送る四男は全く頼りにならない。こうして兄弟は、いきなりお金と介護の問題に直面することになってしまう。そして長男の妻は娘のグーシーに家のためになるお見合いを無理やり勧めるが、本人は好きな人との自由な恋愛と結婚を求め、母娘の間に亀裂が生じる……。

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 監督のグー・シャオガンは1988年生まれの新鋭で、本作が長編劇映画第一作となる。物語に中国の歴史と文化、伝統的な生活様式を巧みに取り入れ、ヴィジュアルも監督自ら “現代の山水絵巻” と呼ぶ山水画と映画を見事に融合させた独自のスタイルで、その優雅で穏やかな映像は巨匠の風格さえ感じさせ、これがデビュー作というのは本当に驚くしかない。実際2019年のカンヌ国際映画祭では批評家週間のクロージング作品に選出され、その後も東京フィルメックス審査員特別賞を始め、様々な国際映画祭で多数受賞を果たしているのだ。

 新人監督で一地方を舞台に設定するという意味では、近年世界的に注目を集めるビー・ガン監督(『凱里ブルース』『ロングデイズ・ジャーニー』)や、惜しくも若くして自死したフー・ボー監督(『象は静かに座っている』)、そして新人ではないがディアオ・イーナン監督(『薄氷の殺人』『鵞鳥湖の夜』)などの斬新な映像スタイルで知られる中国の監督たちと比較されることも多いだろう。しかしむしろ家族の人間模様を描くという点では小津安二郎や台湾時代のアン・リー、移り行く時代と都市に絡めたドラマという点ではエドワード・ヤンやジャ・ジャンクー、そしてスクリーンからたちのぼる重厚な空気感はテオ・アンゲロプロスの作品までも思い出させる。

 そしてシャオガン監督が創り出す映像には絵画だけでも、文学だけでも、音楽だけでも成し得ない、あらゆる要素が融合した総合芸術としての映画だからこそ味わえる、愉悦の瞬間が何度も訪れる。その白眉と言えるのが、陸を行くグーシーと河を泳ぐ恋人ジャンのどちらが早いかを競う場面だろう。二人は別々に移動しながら再会し、その後ギリギリで駆け乗った船が出発する迄の10分が、まるで絵巻物を広げるような横移動の1カットで延々と続くのだ。その再会迄は二人の仲が遠ざけられる現状を暗示し、その後は将来を予見しているようで思わず息を呑んでしまう。この長回しの途中でグーシーが語る、高校時代に演劇部で賞を獲った公演名が「壁を越えて」というのも、いかにも象徴的ではないだろうか。

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 他にも樹齢300年の楠木を軸に、高低差と時間差のツイストするようなカメラワークで2組のカップルを別々に追った長回しのカットにも痺れるし、驟雨が降り始める瞬間を奇跡的に捉えた光景と、川面を打ち付ける突然の雨音にも驚かされる。また徘徊する祖母の鼻歌を引き継ぐように奏でられる、カンカンの素朴で明るいハーモニカの音に乗せて、降りしきる雪がパトカーの青と赤の光にきらめく美しい夜の光景にも、切なく胸を締め付けられる。

 本作は先に述べたように様々な伝統を取り入れながらも、描いているのは行き過ぎた資本主義に翻弄され、切実な介護の問題に思い悩む市井の人々という、極めて現代的なテーマだ。さらにグーシーとジャンの二人によって親世代との結婚観と家族観の違いが浮き彫りになり、それぞれの秘めた葛藤や揺れる想い、そして様々な愛の形(男女を含め親子や兄弟、友愛など)が見えてくる。またジャンが書く小説が、ミステリーに見えて環境問題を訴えるというのもいかにも今的だろう。

 しかし登場人物の中で最も進歩的に見えるルル(グーシーの親友)でさえ、家族から自由になっても会社に縛られ、少しずつ自分が幸せではなくなっているという状況は、中国だけでなく日本の社会に対しても強烈なメッセージを投げかけているのではないだろうか。ルルがグーシーと歩く山水画を模して造られた庭園の向こうに、都市開発のための大きなクレーンがそびえ立ち工事の大きな音が鳴り響いている、まるで山口晃が描く都市のような光景は、なんと皮肉なことか。

 そんな本作の現代性をより強く印象付けるのが、中国のカリスマ的なミュージシャン、ドウ・ウェイによる、中国の伝統楽器を含むアコースティックな響きの中にバランスよくエレクトロニクスも融合したスコアだろう。80年代のドゥルッティ・コラムのような繊細でミニマルなソロ・ギターからオルタナティヴなバンド・サウンド、昨今のポストクラシカル的なアンビエンスに時折ノイジーなエフェクトも織り交ぜて、センス良くモダンなサウンドトラックを創り上げ、様々なイメージを喚起することに成功している。

 最後に、シャオガン監督が細部に施した仕掛けを読み解くのも、本作のお楽しみの一つだろう。例えば小学校の先生であるグーシーが、子供たちに教える歌の歌詞「銀河を進む白い船の上にはキンモクセイ」は、グーシーが高校で演じた劇の台詞「まるでお盆に流す紙の船のように」を経て、グーシーの大好きだった祖母が書き記した「鬼節(お盆)に数千と河に流し星座のようになる紙で作った灯籠(※要約)」に繋がる。そして「キンモクセイ」は、次男の船の上でヤンヤンが飲むキンモクセイの花から作る桂花茶に繋がり、ヤンヤンが態度で示すことが出来なかったグーシーへの共鳴を表しているのかもしれない。また兄から「まだ子供同然で役に立たない」と思われている四男は、序盤で子供たちの中に一人混じってバスケを楽しんでいたが、終盤で兄弟4人が揃ってバスケをしている姿は、四男の成長を示しているようにも見える。

 本作は最後に「一の巻 完」と出てくるが、これについて監督は「三部作の第一作で、二作目の舞台は長江で2022年に撮影が始まる予定」と述べている。もしこの計画が実現すれば、最終的にはトリロジーともサーガとも言える壮大な物語になることだろう。その日を信じて、再びもう一つの主人公となるはずの河に思いを馳せながら、じっくり待つこととしよう。

◼️ 圷 滋夫 (あくつ しげお)
映画/音楽ライター
映画配給会社に20数年勤務後フリーに。音楽は主にジャズ、南米、アイルランド、アフリカ関連を執筆。

(ラティーナ2021年2月)

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