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[2023.6] 【映画評】 『怪物』 ⎯⎯ 是枝裕和と坂元裕二。ついに実現した夢のコラボレーションの破壊力。

是枝裕和と坂元裕二。ついに実現した
夢のコラボレーションの破壊力。

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文●あくつ 滋夫しげお(映画・音楽ライター)

 本作は是枝裕和監督の最新作だ。カンヌで最高賞パルムドールを獲った『万引き家族』以降、フランスで『真実』を、韓国で『ベイビー・ブローカー』を、殆ど現地のスタッフ/キャストで制作するという挑戦を続けできたが、本作では映画デビュー作『幻の光』以来の、脚本を人に委ねるという新たな境地に挑んでいる。しかも今迄に何度かの対談等で互いにリスペクトを表明し合い、「もし脚本家と組むなら?」という質問には必ずその名を挙げていた坂元裕二とのコラボレーションだ。今や映画とテレビドラマ、それぞれの世界で常に新作が期待される人気クリエイター同士の、そして二人の熱心なファンであれば誰もが待ち望んでいたであろう、夢のコラボが遂に実現したのだ。

『怪物』  6月2日(金) 全国ロードショー
©2023「怪物」製作委員会  配給:東宝 ギャガ

 映画の冒頭、是枝作品ではお馴染みのアップで切り撮られた足が先を急いでいる。しかし誰の足かは明かされず、その謎が是枝作品には珍しいミステリー要素として残されると同時に、本作を象徴的に彩る “火” と “水” がさりげなく1カットの中で提示される。続いて描写される大規模なビル火災は、やはりこれ迄のフィルモグラフィーには無かったスペクタクルなシーンだ。そして巻き上がる火花の中に “怪物” とタイトルが浮かぶ迄の最初の数分だけで、既に二人のコラボの意味を実感出来て、さらに期待が高まるのだ。

 二人が描く世界には、元々親和性がある。いずれも(坂元作品は特に「わたしたちの教科書」以降)世間の片隅に追いやられた弱い立場の人々の日常に目を凝らし、生きづらさと社会の不条理に向き合いながらも希望を見出そうとする声なき声を丁寧に掬い取り、冷徹な眼差しで社会を見つめてその問題を炙り出す。そしてその先に心の深淵を覗かせ、世間の常識や社会の規範では計り知れない人間の本質を描き、観る者の胸を強く揺さぶるのだ。そんな中で加害者家族やシングルマザー、生活保護、育児放棄、疑似家族、格差社会、赤ちゃんポスト等、既に多くのモチーフが二人の作品の共通項として描かれてきた。

 坂元作品は時期により、いや同時期でも作品毎にスタイルが変わるが、社会的なテーマを扱う近作では大きく2つに分かれる。「Mother」「それでも、生きてゆく」「Woman」「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」「anone」等のシリアスなラインと、「最高の離婚」「問題のあるレストラン」「カルテット」「大豆田とわ子と三人の元夫」「初恋の悪魔」等のコメディタッチのラインだ。是枝作品と相性がいいのは前者であり、本作もそのラインに沿っている。そして坂元特有のウィットに富んだ会話や、そのまま名言になりそうなパンチラインも是枝の深みのある映像にバランス良くまぶされて違和感がないだけでなく、二人の化学反応によって生まれた魅力も存分に味わう事が出来る作品に結実した。

 舞台は湖を臨む地方の町。家からビル火災を見ていたシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、最近小5の一人息子湊(黒川想矢)の異変を感じていた。湊との会話から担任の保利先生(永山瑛太)のモラハラと暴行を確信した早織は学校へ出向くが、校長(田中裕子)や他の教師達の態度は納得のゆくものではなかった。保利先生の謝罪も誠意の欠片もないどころか、湊が同級生の星川依里(柊木陽太)を虐めていると言い出す始末だったが、保利先生は実際に彼らの喧嘩を目撃していたのだ。それでも依里は「湊君は友達だよ」と早織に話し、学校は後日保利先生の暴行を認めて謝罪会見を開く。しかしその記事が地方新聞で大きく報じられ、町に巨大台風が近づく朝、湊と依里は突然姿を消してしまう。一体彼らに何があったのだろうか…?

『怪物』  6月2日(金) 全国ロードショー
©2023「怪物」製作委員会  配給:東宝 ギャガ
『怪物』  6月2日(金) 全国ロードショー
©2023「怪物」製作委員会  配給:東宝 ギャガ

 本作の最大の特徴は、黒澤明の『羅生門』的な同じ事象が視点を変えて3度繰り返される緻密な構成だ。最初は早織、次に保利先生、最後に湊と、視点が変わる毎に物語が書き換えられ、登場人物の別の面が見えてくる。SNS社会では小さな嘘や誇張、忖度、また偏見や勘違いが事実とは違う偏った情報となり、それを信じた第三者が無意識に(または意図的に)流布してしまう。本作を観ているとそんなSNSにも似た思い込みによって真実を見誤り、心の中で登場人物を裁いている自分がいて、誰もが自分にも保利先生を追い込んだ狂気じみた同調圧力と分断に加担する可能性がある、と気付かされて愕然とする。それがこの3章構成によってより鮮明に浮かび上がり、そのまま社会への鋭い警鐘にもなっているという、脚本の見事さに唸らされる。

 同様に学校での早織と校長や教師との対峙には、現代社会への強い怒りが透けて見える。もう笑うしかない学校側の呆れた対応は、まるでここ数年の国会答弁か、不祥事が発覚した企業の謝罪会見のパロディーのようだ。自分の答えを持たないコミュニケーション不全の政治家が、官僚に渡されたメモをそのまま読み上げる言葉には(船場吉兆のささやき女将か!)、一切心が感じられず虚しい怒りが募るばかりだ。本作はこのような断絶を他の関係性の中でも大小の差はあれ描いてゆき、そこに生まれた疑心暗鬼が不穏な空気となり、迫り来る台風と同期するように作品全体を覆ってゆく。

 二人はこれ迄、どの作品でも登場人物を善と悪に割り切ることはせず、善人の中の悪と悪人の中の善を豊かなグラデーションで丁寧に描いてきた。本作では視点の違いがより鮮明に人間の多面性を浮き彫りにするが、特に校長の感情を見せない非人間的な印象が、彼女のエピソードが語られる毎に違ったものへと変化する。そして坂元ファンにとって印象深いのは、校長(その役柄は中学生のいじめと学校の隠蔽を扱った「わたしたちの教科書」の副校長を思わせる)が折る折り紙だろう。まず校長を演じる田中裕子は、坂元の日本テレビ系作品で母親を象徴する存在(同時に是枝と坂元が敬愛する向田邦子作品の常連)だが、特に無償の愛を体現した「Mother」では、田中が折る折り紙が重要な役割を果たし、色も共通する青だ(本作では当然水のイメージでもある)。

 脱線ついでに書き連ねると、坂元作品でお馴染みのモチーフである手紙は、本作では秘めた想いを託した学校の作文として登場する。また「それでも、生きてゆく」で満島ひかりが投球フォームを完璧に真似た野茂英雄投手も、保利先生の台詞で言及される。そして早織が働いているのは「Woman」「最高の離婚」「いつかこの恋を〜」にも登場する(『万引き家族』『ベイビー・ブローカー』にも!)クリーニング店であり、是枝ファンには『誰も知らない』で長女を演じた、当時まだ少女だった北浦愛の成長した姿が見られるのも楽しみの一つだろう。

 現代社会が抱える問題への警鐘や怒りが見え隠れする序盤から、物語が進むにつれてカメラは登場人物の内面に焦点を合わせ、やがて湊と依里の繊細で優しさに満ちた世界へと行き着く。そこで二人は不条理な現実から逃れ、二人だけの世界で星や宇宙に囲まれながら幸せな時間を過ごす。そのスピリチュアルな世界は、坂元が「大豆田とわ子〜」の9話で描いた、有り得たかもしれないもう一つの世界線にも重なるだろう。そしてこの子供たちの純粋で眩い程の美しさは、それを決して理解することのない大人の世界との深い断絶を、より一層際立たせて胸が苦しくなってくる。ある意味、これは是枝=坂元によるフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』なのかもしれない。

『怪物』  6月2日(金) 全国ロードショー
©2023「怪物」製作委員会  配給:東宝 ギャガ

 本作は長野県の諏訪湖周辺が主なロケ地だが、是枝の映画デビュー前のテレビドキュメンタリーで、子供にカメラを向けて演出すること(本作もその1本だ)の原点となった初期作品「もう一つの教育 伊那小学校春組の記録〜」も、長野県の諏訪市と隣接する伊那市の小学校が舞台だ。また是枝にとって初の連続テレビドラマとなった「ゴーイングマイホーム」も、諏訪市や伊那市がロケ地だ。そして永山瑛太(と満島ひかり)が主演し、是枝が坂元作品の中で一番好きだという「それでも、生きてゆく」も、諏訪湖周辺で撮影が行われている。それはおそらく単なる偶然だとは思うが、両者のファンにとって、初めてのコラボ作品がこの地で撮影されたということが、運命のように感じられるのも無理からぬことではないだろうか。

 最後に本作の音について。本作には初めて聞いた瞬間から耳を離れない、とても印象的な音が聞こえてくる。まず冒頭、映像が映る前の黒味の状態から聞こえてくる、何か笛のような音。また放課後の学校に響き渡る、まるで怪物の叫び声のような音。いずれもその後も何度か聞こえてきて、観客に気付きをもたらす重要な音だ。また坂本龍一は本作のために新たに書き下ろした2曲のスコア(他は既存の曲)を、この2つの音の邪魔をしないようにリズム楽器を排し、ピアノとシンセサイザーの柔らかい響きのみで、アンビエントな音響空間として創り上げている。そして最も印象的に流れるのがアルバム『BTTB』に収録されている「aqua」で、まるで本作のために書き下ろしたかのように見事に映像と融合し、観る者の琴線に触れるのだ。奇しくもその曲名の意味は「水」である。

『怪物』  6月2日(金) 全国ロードショー
©2023「怪物」製作委員会  配給:東宝 ギャガ

 本作は先日行われたカンヌ国際映画祭で、脚本賞を受賞している。坂元裕二はその際に出したコメントで、「この脚本はたった一人の孤独な人のために書きました」と述べているが、その脚本は是枝裕和とのコラボレーションを経てこうして1本の映画となり、これから世界中の“たった一人の孤独な人”の胸を打ち、勇気を届けることだろう。そして二人には、今回のコラボを経て進化した各々の作品と、またいつか近い将来に、二人の共作を是非観せて欲しい。

(ラティーナ2023年6月)


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