[1997.7]間もなく初来日する北東部パライーバ州出身の若きスターに問いかけてみた…… シコ・セーザル、音楽以外の世界を語る
文●岸和田 仁
国際電話で確認したアポイントの時刻、午後2時ピッタリに、サンパウロのシコ・セーザルの事務所を訪ねた。マネージャーと話しているうちに、シコ本人に当方の訪問時間がきちんと伝わっていないことが判明。リハーサル優先ということで、やむなくアポを6時に仕切りなおす。まあ、ブラジルではよくあることゆえ少しもびっくりしなかったが、当方のスケジュールはたちまち修正を余儀なくされ……。
彼の音楽に関するインタビューは本誌96年11月号に掲載されているので、今回は “音楽以外” のことについて彼との対話を試みた。
シコは典型的なノルデスチーノ(北東部出身者)の体型で、背も高くないけれど、その “外見” からは想像出来ない(失礼!!)知性の持ち主であり、対話しながらその人品骨柄に強く惹かれるものがあった。
シコ・セーザル現象がブラジルで広まって2年あまり、我々が彼の来日を心待ちしているように、彼も訪日を楽しみにしている。寿司も刺身も全てOKという “隠れ日本ファン” の彼が日本で何を “発見” するか、これもまた面白い研究テーマとなりそうだ。
── ジョズエ・デ・カストロ(レシーフェ出身の公衆衛生学者・地理学者)の名著『飢えの地理学』(邦訳『飢餓社会の構造』)によれば、セルタゥン(奥地)人の主食はトウモロコシとミルク(牛乳かヤギ乳)の組み合わせであり、これは沿岸サトウキビ地帯での食事パターンよりは「合理的でバランスのとれたもの」だ。それはともかく、トウモロコシから作るクスクスはセルタゥンを代表するものだが、あなたの2枚目のアルバム『クスクス・クラン』というネーミングはどうやって生まれたのか。
シコ・セーザル(以下C) 『クスクス・クラン』というのは、アメリカの白人人種主義団体「KKK(クー・クラックス・クラン)」 ヘのパロディだ。実を言うと、この名は、ぼくのアルバムが出る前からあったのだ。リオに住むぼくの友人(パライーバ出身)は、アイデアマンの作曲家で…… もっともアイデア倒れで終わってしまって具体化に至らないことが多いけれど(笑)……彼と電話で雑談していた時、「パライーバ擁護運動」でも作ろうか、その運動団体のタイトルは「クスクス・クラン」なんてどうだ、と言ったんだ。全くの冗談半分だったんだけれど、彼の住むアパートには守衛などノルデスチ出身者が多く、パライーバ以外の例えばセルジーペ州出身の人には入会金を払ってもらったらどうか、なんて話していたんだ。それがマジなことになって、アルバムのタイトルになったという次第さ。クー・クラックス・クランは差異の抹殺、全面否認、白人種以外の絶滅を意味するが、クスクス・クランが求めるところはその正反対だ。すなわち人種的差異の容認だ。例えば、ぼくのバンドのメンバーをみても、日系人もいればスペイン系もドイツ系もいるし、一人は日系とイタリア系のミックスだ。こうした人種の多様さがあるから面白いのだ。
── あなたの出身地パライーバについて話してほしい。パライーバというとブラジルの最貧州の一つで、沿岸地方でも奥地でも飢えている人が大勢いるとか、現職州知事が元知事をピストルで撃ったけれど殺しそこねたとか、そんな類のニュースばかりでマイナス・イメージのみが広まっている。でも歴史をちょっと振り返ると、政治家ではエピタシオ・ペソアやジョゼ・アメリコ・デ・アルメイダ、文学者ではジョゼ・リンス・デ・レゴ、あるいは経済学者のセルソ・フルタードなど著名人、有名な人材を輩出している州でもある。あなたのパライーバ観は?
C パライーバは、植民地時代のカピタニア制の遺制というか、昔から続く少数の支配層(大土地所有者、サトウキビ農園主)が今でも政治を牛耳っている。だから、政治的には保守的な土地だけど、文化面では音楽でも演劇でも文学の分野でも、活動は今も活発である。それからカンピーナ・グランヂ(州内第2の大都市)の工業技術レベルは相当高い。一言でいって、平均的なパライバーノ(パライーバ出身者)は自分の故郷を愛している。また、パライーバはブラジルの最東端に位置しているので、観光業者のキャッチフレーズではないが、南米で一番最初に「日の出る(太陽が生まれる)」ところだ。だから、沿岸地方の人たちであれ、ぼくのようなセルタゥン人であれ、お天道さまと人生・生活は密接に結びついている。この太陽との関係性は、音楽でも文学でも演劇でもはっきりしている。
── 私がかつて住んでいたペトロリーナでの体験だが、隣人の子供と露天市に出かけた時、コルデル文学の小冊子を見つけた(※コルデルとは、ヨーロッパ中世の口承文芸の歴史を継承する、ノルデスチの大衆文学)。その時、その子供いわく「マンガ小冊子の古本を売っているよ」と。彼の両親は中産知識層に属しているが、このような例を見るまでもなく、新しい世代にセルタゥンの伝承文化が継承されていないように思えるが……?
C そんなことはないと思う。 ぼくの故郷カトレー・ド・ホーシャでは、ヘイザード(植民地時代から続く大衆芸能)やヴィオレイロ(ギターの弾き語り)などの伝統文化は今でも残っている。生き残るためにしぶとく抵抗していると言えるかもしれないが、コルデルについて言えば、代表的な出版人ジョゼ・デ・ソウザ・レアゥンが面白い試みを実行中だ。これまでの手作り印刷(木刷)のよさを継承しつつパソコン編集をやりはじめており、インターネットによる情報発信も行なわれている。大げさかもしれないが、いわば技術革新によって文化の地方分権化がおきているわけで、日本の沖縄文化、あるいはアフリカのセネガルの文化がコルデル文化と相互に交通しあうということがおきている。例えば、日本の折り紙とか茶道がインターネットを通じてブラジルの奥地へ流れ、セルタゥンからコルデルなどが流れだすようになっているのだから。まあ、アメリカ文化の影響力は計り知れないところがあるけれど、北米のカルチャーを単に受け入れるだけではないのだ。「周辺」がその文化を「中心」へ発信するようになっているのだ。
── 今度はあなたのジャーナリスト時代について。実を言うと、私もパライーバの州都ジョアン・ペソアに3年間住んでいたが、その時地元紙『オ・ノルチ』とか『ウニアゥン』を毎日読んでいたので、私なりに懐かしさというか特別の思いもあるが……『オ・ノルチ』時代の活躍というか、サンパウロでの仕事も含め何かエピソードでもあったら……。
C ぼくのジャーナリスト人生は82年から92年まで合計10年で、パライーバが2年、サンパウロが8年というところだ。『オ・ノルチ』では学生時代の見習い期間から働いたが、レポーターであったから、サツ回りから科学者へのインタビューまでなんでもやったよ。特に “傑出” した仕事はなかったなあ。88年にサンパウロへ出てきて、アブリル出版(ブラジル最大の雑誌出版社)のファッション月刊誌『エリ』で編集や校正をやったし、新聞に音楽批評を書いたりもしていたんだ。
── あなたが書いた記事の中で、これは面白いというものは?
C 音楽批評ではエヂソン・コルデイロとかいろいろ書いたけれど、フォーリャ・ダ・タルヂ紙に書いたノヴェーラ(TV連続ドラマ)『パンタナル』のサウンドトラックについての音楽評が結構評判になったよ。
── 『パンタナル』か。ハダカ・シーンが多くて視聴率を稼いだマンシェッチ局のノヴェーラだった。クリスチーナ・オリヴェイラが主演女優でセルジオ・ヘイスが出演していたので、ノヴェーラ嫌いの私もよく見たけれど、やっぱりハダカのせいか(笑)。
C そう、世界最大規模の湿原パンタナルの自然、エコロジーとヌーディズムで売ったノヴェーラだった(笑)。
── オ・ノルチ紙も属している「ディアリオス・アソシアードス」グループは、パライーバが生んだ逸材アシス・シャトーブリアン(愛称シャトー)が作りあげたものだ。かつてブラジルのマスコミ界に君臨していたシャトーについては、フェルナンド・モラエスの浩瀚な評伝(全736ページ)が3年前に出版されているが、同じ故郷出身で同じマスコミ界で働いたあなたはどうみるか。
C F・モラエスの本は読んだよ。本当に面白く、興味のつきない本だった。シャトーは、あらゆる意味においてパイオニア精神に満ちた挑戦者であった。自分のやりたいことはがむしゃらに遂行し、大統領であろうが誰であろうが恐れず立ち向かっていった男だ。
── ブラジル中の新聞、ラジオ(それから放送が始まったばかりのテレビも)を傘下におさめ、1940年代から50年代にかけて一大マスコミ王国を作りあげただけでなく、パウリスタ大通りにあるMASP(サンパウロ美術館)も彼が創設したものだし……。
C そう、マスコミだけでなく文化芸術全般から政治まで影響力を持っていた。
── もう一つ、ジャーナリストについて。ポレミックな話題をまき散らしながら最近急死したパウロ・フランシスについては?
C 彼は軍事政権時代左派インテリ論壇を代表していたパスキン紙を中心に、サヨク的といわれる記事を書いていたが、右派(軍政支持派)ばかりでなく左派への批判も展開したものだからあちこちから攻撃されていた。でも後になって反動的になっていき、ロベルト・カンポス(元大蔵大臣)支持者に変節していったのだ。それにノルデスチーノ、黒人への差別意識を露骨に表現するのが彼のやり方だ。
── 彼にとっては、日本人も差別の対象だった……。
C そう、そのとおりだ。
── まあ、彼は大学教育を受けておらず、彼の広汎な知識は全て独学・読書によるものだ、というのはなかなか興味深いけれども。さて、少しは音楽のことに関しても話していただこう。シコ・サイエンス、彼もまた最近不慮の死をとげてしまったが、彼は自分自身を「ノーミソ付き泥ガニ」(頭脳ある泥ガニ?)と自称していたけれど、あなたはあなた自身をどう自己命名するか。
C うーん、弱ったなあ(笑)。そう、「世界と共にあるブラジル人」といったところかなあ。我々の世代というと、ノルデスチではシコ・サイエンス、レニーニ、ゼカ・バレイロ、南部ブラジルではカルロス・カレカ、マウリシオ・ペレイラ、アンドレ・アブジャンブラといったアーティストたちだが、皆ブラジルの現実にも「ブラジル人であること」にも常に意識を持っていて、世界にコミットしているからだ。こうしたあり方は初期のカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタらにも共通していたけれど、ブラジルや世界の現実に批判的関係を紡ぎだしていたいのだ。
スタジオの中は暑かったので、屋外のベンチに横並びにすわってのインタビューとなった。終了したのは夜の8時近かったので、帰路につくバンドの仲間たちは皆我々の前を通ることとなるが、「じゃあ、またあした」の挨拶も全く自然でこちらもつられて “参加” してしまった。こんなところでも、シコの飾らぬ人柄を感じた次第。
日本に戻ってからコルデル文学の研究書を読み返していたら、シコの生まれ故郷カトレー・ド・ホーシャ出身の凶悪な牛泥棒の話が出ていて、思わず苦笑いしてしまった。同じ田舎町から大悪人も生まれれば、MPBの担い手となるミュージシャンも生まれるのだ。
(月刊ラティーナ1997年7月号掲載)
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