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[2014.04]京谷弘司インタビュー|ティピカ東京、そしてピアソラとの出会い…… 「タンゴの垢」を身につけたマエストロ

文●鈴木多依子 texto por TAEKO SUZUKI

本記事は月刊ラティーナ2014年4月号に掲載された記事です。
◉東京タンゴ祭 2021 スペシャル

現在の日本タンゴ界を支えている4つのグループと歌手たちが出演!
■HP http://www.campeonatoasiatico.com/wp_tf/

■2021年7月2日(金) 16:30 開場 17:00 開演
■料金 ¥4,800 全席指定(税込み)
■会場 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
■出演
京谷弘司クアルテート/小松真知子&タンゴクリスタル/オルケスタ・アウロラ +1/仁詩 BANDA NOVA +1

■ チケット
●ラティーナオンライン
http://latina.co.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=23&products_id=25533

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 京谷弘司は20歳という若さで早川真平とオルケスタ・ティピカ東京にスカウトされ、ティピカ東京の第一バンドネオン奏者として活躍、西塔祐三や志賀清らとともに往年のタンゴ・ブームから日本のタンゴの歴史を築き上げてきた演奏者である。

 毎年ラティーナが主催する「東京タンゴ祭」には、京谷弘司クァルテート・タンゴとして過去4回中3度出演しており、特に昨年の回では全曲京谷のオリジナル曲で挑み、その研ぎ澄まされたバンドネオンの音色と熱情がこもった演奏には強く心を打たれたし、やはり京谷弘司は凄い! と感じたのは筆者だけではないはずだ。片膝に蛇腹をのせて縦横無尽に操る京谷弘司の演奏姿はその場の雰囲気を一変する。これまでに残したCDアルバム2作品『レコルダシオン』(96年)、『モノローグ』(03年)はブエノスアイレスで録音しているし、現場志向の京谷の姿勢が演奏にも滲み出ているのだろう。「タンゴの垢を身につけろ」というピアソラ本人による助言どおり、今日まで日本のタンゴ界を牽引してきたのである。ピアソラがこの世を去ってから20年が過ぎ、タンゴの女王、藤沢嵐子も天国へと旅発ってしまった今、タンゴ界における京谷の存在はますます重要だ。

 さて、来る4月1日に、上野・東京文化会館で催される「東京・春・音楽祭」に京谷弘司クァルテート・タンゴが出演することが決まっている。一昨年の小松真智子とタンゴクリスタル、昨年のオルケスタ・アウロラに続いて初出演となる。その「東京・春・音楽祭」公演を前に京谷弘司本人に電話インタビューを行った。

■タンゴとの出会い

 大阪に生まれた京谷弘司は、六人兄弟の一番上の兄がオルケスタ・ティピカ・オオサカのマエストロとして活躍していたことから、早くからタンゴに触れていた。家にあった兄のバンドネオンに触れてすぐにタンゴの道にのめり込んでいったという。

京谷 20歳のときに、ティピカ東京から声がかかりました。ちょうど東京オリンピックの年に早川真平とオルケスタ・ティピカ東京が中南米公演に出かけ、その明くる年のことです。当時は兄のバンド、ティピカ・オオサカに所属していましたが、私はティピカ東京に入団を決め、同時に上京しました。それからはティピカ東京の解散まで在籍しました。

■ピアソラとの出会い

── 当時はまだピアソラがもてはやされる時代ではなかったと思いますが、どういった経緯でピアソラを知ったのですか。

京谷 ピアソラに関してはまったく時代は逆行していました。大阪時代に兄の楽団メンバーの一人がピアソラ好きで、「プレパレンセ」のコピーを楽団で演奏していたことがありました。それが私がピアソラを知ったきっかけです。もう50年程前になりますが。その後、ピアソラのLPがぽつぽつと出るようになって、新しいLPが出る度に買いあさっていましたね。しかし仕事ではダンスホールでの演奏が主でしたから、ピアソラを演奏する機会は当然のことながらなかった。

── 仕事では古典タンゴ、プライベートではピアソラを聴いていたということですね。

京谷 そのとおり。

── ピアソラを初めて生で聴いたのはいつですか。

京谷 初来日した1982年。ピアソラが初来日したとき、僕と志賀清さんが成田まで迎えにいったんです。アルゼンチン大使館で歓迎パーティーがあって、そこに志賀さんのキンテートが呼ばれて演奏することになっていました。私もメンバーの一人として、緊張しながらピアソラたちの前で演奏しましたね……(笑)。ピアソラの来日中は仕事の合間をぬってはコンサートに出かけました。どういうわけか、有り難いことにピアソラは私のことを可愛がってくださって、私も追っかけのように東京のあちこちに付いて回りました。一緒に食事をしたり、ホテルの部屋に遊びにいったりした楽しい想い出がありますね。

── 生演奏を聴いた時の感想は?

京谷 やはり、衝撃でした。オープニングの第一音から「ピアソラの音だ!」と鳥肌が立ったのを覚えています。

── ピアソラに立って演奏するように言われてから立つようにしていると、タンゴ祭のときにおっしゃっていたのが印象的でしたが、現在まで継承している「ピアソラの教え」のようなものはありますか。

京谷 アドバイスはたくさん受けましたね。リズムについても、「これからのタンゴのリズムは4つに刻むのではなく、3・3・2でやっていけ!」と言われたことがあります。

 今の時代、「タンゴ=ピアソラ」と言われることが多いですが、それについてはどうかなと思う部分もあります。アルゼンチンでは「ムシカ・デ・ピアソラ(ピアソラの音楽)」として1ジャンルで考えていますしね。古典タンゴも素晴らしいし、私も大好きです。フィギュアスケートを見ていても、タンゴの使用曲はほぼピアソラですよね。その点に関しては少し残念です。今までのタンゴはいったいなんだったんだろう……って。ですので、ときどき古典タンゴも作曲してみたりもしています。

── ピアソラが亡くなって20年以上が経ちます。京谷さんと同じように、いまでもピアソラの音楽を聴いて影響を受けたという若い演奏者が世界中にいると思います。彼らにアドバイスを。

京谷 時代が昔とは違います。現場でタンゴに浸るということが出来ない時代ですからね。ピアソラ本人が「タンゴはダンスホールやキャバレーでタンゴの垢を身につけなくてはいけない」と言っていましたが、今はそういう場所はない。今の若者は彼らの捉えているタンゴをやっていくしかないと思いますね。ブエノスアイレスでも黄金時代の演奏家はほとんど亡くなってしまったし、時代は本当に変わったんですね。日本でも寂しいことに当時活躍していたタンゴの演奏家はいなくなってしまった。ですから今はもう若者の時代ですよね。

── ピアソラ以外に大きく影響を受けたタンゴ演奏家は?

京谷 プグリエーセ、トロイロ、フェデリコはよく聴いていました。

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■バンドネオン

 京谷弘司とタンゴ人生を歩んできたバンドネオンはクロマチックと呼ばれる「押引同音式」のバンドネオンである。一般的にアルゼンチンタンゴで使われるディアトニック・バンドネオンが、一つの鍵盤に対し蛇腹を押した時と引いた時とで違う音が出る「押引異音式」なのに対して、京谷の常用するクロマチック・バンドネオンは蛇腹を押した時と引いた時とで同じ音が出る。今では日本のバンドネオン奏者の多くがディアトニック・バンドネオンを演奏してるが、かつて早川真平とオルケスタ・ティピカ東京や坂本政一率いるオルケスタ・ティピカ・ポルテニアではクロマチック・バンドネオンが使用されてきた。京谷が愛用するバンドネオンはまさに早川真平から受け継いだという。

京谷 いつかはディアトニックへと思って楽器は持っていたんですが、やはりずっと演奏活動で忙しくしていましたし、オルケスタ内でも重要なポジションでしたので、チェンジするタイミングがなかったですね。初めて手にした兄のバンドネオンもクロマチック、そしてティピカ東京に入ると早川真平さんのバンドネオンもやはりクロマチックだった。早川さんがお亡くなりになる前に、そのバンドネオンを生前贈与というかたちで私が受け継ぎました。そのバンドネオンは今でも愛用しています。

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早川真平とオルケスタ・ティピカ東京(バンドネオン真ん中が京谷)

■藤沢嵐子との想い出

── 残念ながら藤沢嵐子さんが昨年にお亡くなりになりました。京谷さんにとってはどういったお方でしたか。

京谷 私がティピカ東京に入った時代は、雲の上の人でした。藤沢さんといえば、近寄りがたいような威厳もありましたね。でもずっと一緒に活動させてもらっていると、関係が打ち解けるといろんな楽しいこともありました。音楽のことではありませんが一番よく覚えているのは、藤沢さんの六本木のご自宅にお邪魔した時のこと。明日がコンサートという日でした。藤沢さんが「今からステーキ食べにいこう!」とおっしゃって、近所のステーキ屋に行くことに。藤沢さんは本当に肉食派で、大事なコンサートの前日は必ず肉をたくさん食べる方でした。その時も300グラムのステーキを3枚ペロリと平らげて、平気なお顔をされていましたね。僕ら男どもは2枚で目一杯だったのに!(笑)そういうことを今でも思い出します。今頃天国でくしゃみしているかもしれません(笑)。

 志賀さんのレコーディングに誘って頂いて初めてブエノスアイレスに行った時のことです。その時は藤沢嵐子さんがピアニストのベリンジェリにアレンジ譜を頼んでいるので、帰りに持って帰ってきてほしいと頼まれていて、ベリンジェリにも会いました。ホテルで待ち合わせをし、ホテルのロビーにあったピアノと志賀さんのバイオリン、そして僕のバンドネオンでそのアレンジ譜をチェックしたこともありましたね。

■京谷弘司クァルテート・タンゴ

── 京谷弘司クァルテート・タンゴでの活躍が主ですが、四重奏への拘りがあるのでしょうか。

京谷 四重奏以上の編成はほとんどないですね。四重奏の編成がもっともプレイヤーの自由度が出せる形ではないかと思っています。バンドネオンの私とピアノの淡路七穂子は固定で、バイオリンは会田桃子や吉田篤、コントラバスは田辺和弘や東谷健司にお願いしています。

── 淡路七穂子さんは、京谷さんのまさに右腕といった存在です。彼女のピアノの魅力について。

京谷 23年前くらいでしょうか。たまたま彼女と演奏する機会があったんです。その頃のクァルテートは専属のピアニストではなく、いろいろな人に頼んでいて、ちょうど私はピアニストを探していました。淡路さんはタンゴの演奏経験が無かったにも関わらず、素晴らしいピアノのタッチでタンゴの雰囲気を持っていました。それでタンゴをやってみないかと声をかけたのが始まりです。それ以来ずっと一緒にやってもらっています。

── 昨年のタンゴ祭では全曲オリジナルを披露されていましたが、これまでに作曲されたオリジナル曲は合計何曲くらいなのでしょう?

京谷 いえいえ、私は作曲家ではありませんから(笑)。自作したのは今現在までに6曲くらいでしょうか。でも実は今、作曲中のものがありまして。その楽譜を前にして今電話しながら考えていますよ(笑)。

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 4月1日は「フェリシア」「ジーラ・ジーラ」「パリのカナロ」の古典曲からピアソラの「アディオス・ノニーノ」「ブエノスアイレスの夏」、そしてもちろん京谷のオリジナル曲も披露する。

京谷 私が信頼する演奏メンバーに、歌は藤沢嵐子さん直系の柚木秀子さんが一緒ですので、楽しみにしております。観客の皆様には華やかなタンゴの時代の雰囲気を味わっていただければ嬉しいです。


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『レコルダシオン』

(KRS-1954 / 1996年)

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『モノローグ』

(KRS-040508T / 2003年)

(月刊ラティーナ 2014年4月号掲載)

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