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[2021.11]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史⑧】日本の敗戦と移民社会

文●月野楓子

 10月は沖縄と移民の結びつきを知るのには特別な月であった。というのも、10月30日は「世界のウチナーンチュの日」であり、関連するイベントが目白押しで、1日に複数のイベントが重なることもあるほどの充実ぶりだった。ペルー出身の歌手・アルベルト城間さんや沖縄出身のタレント・りゅうちぇるさんといった著名人・有名人が出演するトークイベントから、国内外の沖縄にルーツを持つ一般の人々が参加するイベント、関連する映画の上映や講演会など、実に多くの企画が行われた。人々は自分の移民にまつわる体験や沖縄への思いを語り、あるいは「海外県系人」として居住国の文化を紹介し、交流を楽しんだ。

 また、同じ時期、沖縄を深い関わりを持つ三人のアーティスト(アルゼンチン出身の歌手・大城クラウディアさん、宮沢和史さん、夏川りみさん)によるコンサートツアー「沖縄からの風」が沖縄からスタートし、MCではウチナーンチュの日についても触れられた。そして、来年の今頃は「第7回 世界のウチナーンチュ大会」が開催され、各国から沖縄にルーツを持つ世界中の人々が「母県」沖縄に集まることになるだろう。

 「沖縄移民の始まり」の回でも書いたように、沖縄から海外への移民は1899年、ハワイから始まった。それから120年以上の時が経ったが、意外なことに、「世界のウチナーンチュの日」が制定されたのは2016年のことである。

 制定の働きかけに尽力したのは、他でもない沖縄にルーツを持つウチナーンチュであった。沖縄に来たことで自らのルーツへの思いを深めたアルゼンチン出身の比嘉アンドレスさんと、ペルー出身の伊佐正アンドレスさんがこの日の制定について名護市の市議会に陳情を行い、その後、市議会から沖縄県議会へ意見書が提出され、全会一致で採択されたという。

 沖縄は歴史的に多くの移民を送り出してきたが、「世界のウチナーンチュ」として関心を集めるようになったのもまた、時代を経てのことであった。それはひとつには、沖縄にとって移民という現象が1970年代初頭まではリアルタイムに行われていたことにあり、ときに家族の、あるいは地域の複雑な記憶として残っていることにある。そこにあるのは苦労と成功の物語だけではない。

 移民をめぐる様々な出来事は、時間が経ったり、日本の経済的な地位が上がったり、マイノリティの存在が可視化されるようになるにつれて個人のルーツやアイデンティティが重視されるようになったりといった社会状況の変化に伴い形を変えた。「沖縄移民は国際交流の先駆け」という新たな意味づけを沖縄側が発信するようになり、海外移民社会もこれを歓迎する形で、「世界のウチナーンチュ」は前面に出されるようになっていった側面があるように思う(もちろん個人のルーツへの想いを軽んじているわけではない)。

 移民への「評価」が変化していく中で県の記憶として思い起こされたのは、海外在住のウチナーンチュによる沖縄に対する支援であった。戦前では、移民による海外からの送金は沖縄県の歳入の3割(多い時には6割)を占めていたし、戦後は故郷の復興のために各国の沖縄移民社会が沖縄を支援する活動を行っている。今回は、沖縄から離れたところで沖縄戦を「経験」した在亜(亜はアルゼンチンのこと)沖縄移民社会の様相をみていこう。


戦後の変化

 戦争はさまざまな変化を移民たちの間に引き起こしたが、中でもとりわけ大きな変化となったのは日本への帰国に対する考え方であった。アルゼンチンに暮らす沖縄移民の多くは、首都ブエノスアイレス及びその郊外に暮らしていた。彼らは金を稼いだら故郷へ帰るつもりであったが、日本の敗戦によって想定は修正せざるを得ず、「出稼ぎ」から「定住」への志向が強まった。中でも米軍が上陸し、激しい地上戦が行われた沖縄出身の移民は、帰国を望んでも故郷は帰ることのできる状況になかった。

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