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[2021.12]アルゼンチン・ニュース : ピアソラ・キンテートのギタリスト、オスカル・ロペス・ルイス逝く!

文●ラティーナ編集部

 アストル・ピアソラのキンテート、オクテートなどのギタリストとして、約25年間にわたって活躍したオスカル・ロペス・ルイス氏が12月24日金曜日、ブエノスアイレスで亡くなったという悲しい報せが入った。

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 娘のアレハンドラ・ロペス・ハスカレビッチは22日、自身のFacebookアカウントを通じて、「父の健康状態が危機的であることをお伝えします。4度目の敗血症で集中治療室に入院し挿管されていたのですが、治療に反応せず、命が細ってきています。祈るしかありません」と、現在危篤状態にあるとの説明に、音楽仲間や多くのファンが心配していた。しかし、24日になっても反応することなく、サナトリオ・グエメス病院で、60年以上にわたるギタリスト、作曲家、プロデューサーとしての素晴らしい生涯を閉じた。83歳だった。

 オスカルは、1938年3月21日ラプラタ市で生まれ、10代の頃、ギターをアントニオ・シノーポリとレオン・ビセンテ・ガスコンに正式に師事した。その後、彼は「モダン派」に仲間入りする。伝統派との「軋轢」が地元ジャズの水を分けていた頃、ロペス・ルイスはレコードを聴きながら、ステージでポップを演奏することで修行を積んだ。1954年に「ジャズ&トロピカル」で活躍したトニー・アルマンド・オーケストラのエレクトリック・ギターでデビュー。ジャンルを超えた数々の音楽のプロジェクトに参加するようになったのはこの頃からだった。

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 1960年以来、25年にわたってピアソラと活動を共にし、キンテート・ヌエボ・タンゴ、コンフント9、オクテート・アストル・ピアソラ等で活躍したが、他にジャズやポップス、クラシックの世界でも、ギタリストとして、また作曲・編曲家として、文字通りジャンルを超えた幅広い活躍をした音楽家だった。ピアソラとの活動が輝きすぎて他の彼の幅広い活動はあまり紹介されることがなかったが、もともとアルゼンチンのポピュラー音楽界の中での彼の長く優れたキャリアは、兄のホルヘ・ロペス・ルイス(ベース)の影響を受けながら、いつもジャズとリンクしていた。生涯を通じて色々なグループやオルケスタと共演...ラロ・シフリン、ガトー・バルビエリ、セルヒオ・ミハノビッチ....タンゴでも革新的なレオポルド・フェデリコ、オスカル・アレマン、ディノ・サルーシ、エラディア・ブラスケス、チコ・ノバーロ、エドゥアルド・ネグロ・ラゴ....。

 また、1967年から69年にかけてはあの著名なトローバ・レーベルの音楽監督を務めて、エンリケ“モノ”ピレガス、アストル・ピアソラ、チコ・ノバーロ、オラシオ・フェレールなど、アルゼンチンの並外れた才能をもつ音楽家たちの貴重な録音に明け暮れた。

ホルヘ

⬆︎兄のホルヘ・ロペス・ルイス

 ピアソラがヨーロッパ・ツアーから帰国し、マルビチーノがキンテート・ヌエボ・タンゴからの脱退を告げ、新しいギタリストを探していた時に、兄のホルヘがピアソラに弟オスカルを紹介した。初めてキンテート・ヌエボ・タンゴで演奏したオスカルは、後日その時のピアソラとの出会いについて、

「2つの音を聞いた瞬間、私はワールドミュージックの偉大な芸術家の前にいるのだと気づき、それを心から楽しむことができた。あの頃の日々は無上の喜びだった」

ピアソラ財団が生誕100周年を記念して紹介したビデオの中で、こう告白している。

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 こうしてピアソラのインスピレーションを受けたギターワークは、コンフント9やオクテート・ピアソラでも共有し、彼がピアソラから受けた個人的体験について3冊の本「ピアソラ ¡ロコ! ¡ロコ! ¡ロコ! 天才と一緒に働き、走り続けた結果」(最後のものは2018年初めに発売)に収めている。「ピアソラは他のミュージシャンの50年先を行っていた。彼と一緒に演奏することで控えめに言っても、最も新しい、最も貴重な文化の創造に貢献しているという実感を味わうことができていた」と言っている。

 ピアソラとの経験以外でも、彼は多くの仕事をこなしてきた。映画の世界ではフェルナンド・アジャラ『Primero yo』、へラルド・ソフォビッチ『円卓の騎士』『ドールズ・ゴー・エドバン!』など約20本の作品の映画音楽を作曲しているし、ペペ・シブリアン・カンポイ、エンリケ・ピンティ、アントニオ・ガサラの演劇や、マイポ劇場、アストロス劇場での35のレヴューのためにオリジナル音楽を制作してきている。

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⬆︎妻のドナ・カロルと

 オスカルは、1966年に歌手のドナ・カロル(2020年死去)と結婚、54年間仲睦まじい人生を送ってきた。彼女との交際のきっかけも、カロルの仕事をしていた兄のホルヘから「TVの仕事で、ギタリストが怪我をした。すぐ来てくれないか?」という1本の電話だったという。当時はピアソラのキンテートで演奏していたが、この仕事で一気に近づいた2人は、当時ラテンアメリカ中で絶大な人気を誇った「ロス・シンコ・ラティーノス」の仕事をも断ってまで、妻カロルの仕事を優先した....という話はかなり有名。

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 日本には1982年、ラティーナが初招聘したピアソラ・キンテートでやってきた。当時はパブロ・シーグレルが一番若いメンバーで、オスカル・ロペス・ルイスは、ステージ上では静かな方だが、実は和声とかアレンジに、ピアソラからも随分意見を聞かれたそうだし、ステージ裏では世界中の劇場の音響技師たちにピアソラ音楽の理想的な劇場での音作りについて教えてきたように、劇場内のサウンドは彼を中心にまとめられていた。サウンド面でピアソラが一番信頼していた存在だった。


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 ピアソラも、オスカルをはじめピアソラに拘わった音楽家達にとっても、実際に世界的に大きく日の目を見て、それなりの扱いを受けることができたのは、ピアソラ最後の数年だったと思う。まさにピアソラの「闘い」の生涯をずっと付き合ってきたと言って良い。

 ピアソラ音楽を支えてきた巨星がまたひとつ落ちてしまった。当初、古いタンゴファンが一番嫌った音楽がピアソラで、エレキ・ギターはその中でも一番口撃された楽器だった。しかし、ピアソラ音楽ではいつもオスカルのギターが重要な土台を奏でてくれていたし、生涯かけて新しい世界に挑戦し、完全勝利したギタリストとしてずっと記憶に残されるのは間違いない。空の上でまた果てしない冗談の言い合いでも続けて欲しい。        合掌

(ラティーナ2021年12月)




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