[2023.4]【連載タンゴ界隈そぞろ歩き ②】 春に聴くタンゴ~AI にも聞いてみた
文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura
今年の桜はずいぶん早い。これが公開される頃にはソメイヨシノの開花もずいぶん北上して、青森あたりか北海道か。東京は八重桜が盛りを迎えているだろうか。そんな春爛漫のこの季節、今回のそぞろ歩きのお題も「春に聴くタンゴ」にしてみた (南半球のブエノスアイレスは今は秋だが、我々が体感している季節の方を選んだ)。
とはいえ実のところ、そんなお題を立てても私自身の持ち合わせている知識だけでは大したものは出て来ない。普段なら地道に (と言っても主にネット検索で) いろいろ調べるのだが、今回はちょっと試してみたいことがある。
AI に聞いてみよう
人工知能 (Artificial Intelligence, AI) の研究機関である OpenAI が開発した ChatGPT という人工知能チャットボットが注目を浴びている。様々な問いに対して非常に自然な言語で回答し、まるで人間と会話しているかのような体験をもたらしてくれるサービスである。既に IT 関連の調べ物で試してみて結構使い物になったので、今回のお題についても聞いてみることにした。もしかすると今後の執筆活動が劇的に楽になるかもしれない、等という邪な思いも抱きつつ…
以下、AI の回答は毎回変わるので同じ質問をしても同じ回答が返るとは限らないこと、OpenAI は ChatGPT の回答の正確さについては保証しない旨を予め述べていること (→ Introducing ChatGPT の Limitations のセクション参照) をご了承の上読んでいただきたい。
まずは前提知識の確認から。
アルゼンチンタンゴのことはよく知っていますか?
まずまず無難な回答だろう。ではいよいよ本題。
では、アルゼンチンタンゴの中で春の季節にちなんだ曲や春にぴったりな曲はありますか?
おやおや、これはかなり残念な回答。作者の名前もその読みも、曲の内容も間違いだらけだ。
2と3の作者は違いませんか?
全然ダメだ…。e-magazine LATINA に誤情報を載せたままにするわけには行かないので訂正しておこう。
“Primavera Porteña” (ブエノスアイレスの春) については作者は合っている。ポルテーニャ (男性型はポルテーニョ) はブエノスアイレスの別名というより「ブエノスアイレスの」を表す形容詞。もしくは名詞として用いるなら「ブエノスアイレスの人」の意味。春にふさわしいタンゴと言って差し支えないとは思うが、春を歓迎する歌詞は付いていないし (器楽曲だ)、明るく軽快なメロディーとも言い難い。
“Chiquilín de Bachín” (バチンの少年) はアストル・ピアソラ作曲、オラシオ・フェレール作詞。「バチン」はブエノスアイレスにあったステーキレストランの名前で、そこに出入りする貧しい花売り少年のことを歌った曲である。詞に季節を限定するような内容はなく、春に関係づけるのは無理がある。ついでに言えば誤って挙げられた作詞家 Homero Manzi の読みはオメロ・マンシである。
“Margarita Gauthier” (マルガリータ・ゴティエ、椿姫) はホアキン・モラ作曲、フリオ・ホルヘ・ネルソン作詞。タイトルはアレクサンドル・デュマ・フィスの小説「椿姫」の主人公の名前で、歌詞も同小説をモチーフにしている。語られるのは亡くなった恋人への想いであり、それを「春の恋」とまとめることには些かの抵抗はある。もっとも、椿が重要なアイテムであるところは一応春に関係あると言えなくもなく、柔らかく優美なメロディーであることも間違いではない。誤って挙げられた作曲家 Abel Fleury の読みはアベル・フレウリ。
その後もこちらから訂正を入れたりしながら、もう少し有用な回答を引き出そうと試みたが無駄だった。日本語によるタンゴの情報が少ないのではないかと、機械翻訳を駆使して英語やスペイン語で問いかけてもみたが、予想に反して日本語と大差ないレベルの回答だった。
AI 時代に向けた希望と絶望
楽をしようという邪な期待は打ち砕かれ、むしろ訂正の手間がかかってしまった。とはいえ、タンゴに関する物事を調べて書くという仕事はまだまだ AI には置き換えられる状況にはないという意味では、ひとつの希望と感じられたのもまた事実である。
と同時に、AI が Web 上の大量の文章から学習した知識に基づいて動いているということを考えると、裏を返せばタンゴに関する Web 上の文章が AI の知識を充足させるには不足しているということを意味する。試しにジャズや J-POP について同様の質問をしてみると、パーフェクトではないもののタンゴよりは遥かに意味のある結果が得られるので、AI が音楽の情報を扱えないわけではない (興味のある方は試してみて頂きたい)。英語やスペイン語で質問してもダメだったので言語の問題でもない。私の感覚ではタンゴもそれなりの情報量があると思うのだが…この程度ではダメということか。
別に AI に学習してもらわなくても結構、人間が良質の情報を粛々と提供し続ければ良いのだ、という考え方もあるだろう。しかし、この20年ほどの間に起きた変化、すなわち多くの人にとって何かを調べるということは Web 上で検索する (=ググる) ことと同義になった、という現状を思えば、これから何年かの後には何か知りたいときには AI に質問することが普通になるのはまず間違いない。そして得られた回答はしばしば他ならぬ人間によって引用され、拡散される。「マルガリータ・ゴティエ」の作者はアベル・フレーレスである、という情報がホアキン・モラ作曲、フリオ・ホルヘ・ネルソン作詞という情報をかき消してしまうかもしれない。
念のため付け加えると、私自身 AI に関して決して否定的な訳ではない (というか、私の本業はほぼその分野である)。適切な対象について適切に問いかければ極めて有用な会話が成立し、多くの情報が得られる。おそらく今後は情報の正確性も重視されるように改良が加えられ、知識が不足していることに対しては平気で間違った回答を返す代わりに「わかりません」と言えるようになるだろう。そして不足している知識に関しても学習が進むに違いない。願わくばその学習の対象が、AI による誤った回答の拡散でないことを…。
改めて春に聴くタンゴ
おっと、思わず遠回りしてしまった。やはり地道に自分で探さなければ (と言っても Web 検索だが) ということで、Todotango.com や tango.info といったサイトでタイトルに primavera という語が含まれる曲を探し、その中で音源にアクセス可能なものをまとめてみた。以下古いものから順に並べてみる。
Amor y primavera 恋と春 (Émile Waldteufel) / Eduardo Arolas y su orquesta típica エドゥアルド・アローラス楽団、1917年録音
クラシックからのアレンジ曲。フランスのワルツ王エミール・ワルトトイフェルの1880年の作品 "Amour et printemps" をバンドネオン奏者エドゥアルド・アローラスが取り上げたもの。後年フランシスコ・カナロも録音している。Primavera 春 (Julio De Caro, Ismael R. Aguilar, Jerónimo Martinelli Massa) / Julio De Caro y su orquesta típica フリオ・デ・カロ楽団、1925年録音
デ・カロによるそのものずばりの「春」。歌詞も付いてはいるがここでは歌われていない。Primavera 春 (Eduardo Bianco) / Orquesta típica Bianco-Bachicha ビアンコ=バチーチャ楽団、1927年録音
これも「春」だが上とは別の曲。パリに渡ったアルゼンチン人バイオリン奏者エドゥアルド・ビアンコとバンドネオン奏者フアン・B・デアンブロッジオ "バチーチャ" の連名楽団による演奏。Cancion de primavera 春の歌 (Agustín Magaldi, Pedro Noda) / Agustín Magaldi , Pedro Noda アグスティン・マガルディ、ペドロ・ノダ、1927年録音
タンゴとフォルクローレで絶大な人気を誇ったアグスティン・マガルディとペドロ・ノダのデュオによるバルス。Noche primaveral 春の夜 (Bernardino Terés) / Francisco Canaro y su orquesta, canta Francisco Amor フランシスコ・カナロ楽団、フランシスコ・アモール歌、1940年録音
この当時のカナロ楽団には管楽器も効果的に使われている。リズムはバルス。Catorce primaveras カトルセ・プリマベーラス (Eduardo Pataro Conte, Julio Plácido Navarrine) / Rodolfo Biagi y su orquesta típica, canta Jorge Ortiz ロドルフォ・ビアジ楽団、ホルヘ・オルティス歌、1942年録音
タイトルの意味は「14歳の春」だろうか。ビアジ楽団らしい小気味良い演奏。Primavera porteña ブエノスアイレスの春 (Astor Piazzolla) / Astor Piazzolla y su quinteto アストル・ピアソラ五重奏団、1970年録音
一気に時代が飛んでピアソラの「四季」シリーズより春。これはさすがに AI も知っていたが、四季の中では一番知名度の低い曲だろう (個人的には好きなのだが)。Algo sobre la primavera アルゴ・ソブレ・ラ・プリマベーラ (Daniel Ruggiero) / Quasimodo trio クアシモード・トリオ、2004年録音
タイトルの意味は「春についての何か」といったところか。作曲者ダニエル・ルジェーロはオスバルド・プグリエーセ楽団で活躍した名バンドネオン奏者オスバルド・ルジェーロの息子で、彼が率いるトリオによる演奏。Romance de primavera 春のロマンス (Victor Lavallen) Ryota Komatsu 小松亮太、2005年録音
バンドネオン奏者ビクトル・ラバジェンのバルス。これを収録している小松のアルバム『バンドネオン・ダイアリー』のライナーによればラバジェンが書いたのはメロディーだけで、アレンジはフアン・カルロス・スニーニが担当。
バルスが多いのは、やはり春のロマンティックな気分に合っているのだろう。一方ピアソラやルジェーロにとっては、春はロマンスよりも狂おしさや気怠さの季節なのだろうか。
春のひと時のお伴に聴いていただければ幸いである。
(ラティーナ 2023年4月)
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