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[1982.07]連載② アストル・ピアソラ物語 〈放浪の時代〉

この記事は中南米音楽1982年7月号に掲載されたものです。
アストル・ピアソラは、1921年3月11日生まれ。ピアソラの生誕100年を記念し、当時の記事をそのまま掲載いたします。
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文●高場将美

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1 大学講堂……革命の第一歩

 パリの音楽教授ブランジェ女史に自分の音楽を教えてもらったアストル・ピアソラは、バンドネオンを手にした。
 ブエノスアイレスにいた時から、タンゴに絶望した4年ほど前から弾いたこともなかった。でも、なんとなく棄てることができずにパリへバンドネオンをもって来たのだった。ブランジェ先生に言われるまでもなく、ピアソラの音楽はタンゴに、バンドネオンの中にあった。これを運んできたのは、きっと本人の意識下に、強いきずなが感じられていたのだろう。
 1年の留学を終えて、アルゼンチンに帰る直前のピアソラは燃えた。親友バラリスや、フランチーニなどを仲立ちにして、今までに目をつけた音楽家に手紙を書いた。——すごい楽団をつくるぞ。力を貸してくれ。
 そして12曲も作曲して、フランスのレコード会社に売りこみ、3つのレーベルで16曲を録音した。『プレパーレンセ』が受けたので、フランスではピアソラの作品は商売になることが解っていた。編成は、どのレコードも、ピアソラがわざわざ持ってきたバンドネオンを弾き、他はフランス人の弦セクション。ひまがあれば、やはりフランスに留学していたピアニスト、ラロ・シフリンも参加した。ラロは30年代末にアルゼンチンに帰ってガト・バルビエリやロドルフォ・アルチョウロンとバップ・ジャズのグループで活動し、8年にはバップの創始者ディジー・ガレスピーのオーケストラで作曲家およびアレンジャーとなって、アメリカに定住する。たくさんの映画、『スパイ大作戦』などのTVドラマの音楽監督としての現在の地位はよくご存知だろう。
 ピアソラは、自分を発見させてくれたパリへの感謝をこめて、フランスの古いシャンソンをモチーフにした『チャウ・パリス』や、ヴェルサイユ宮殿をイメージにもつ『インペリアル』を作曲した。南スペインの血をもつフランスのタンゴ人マルセル・フェイジョーなどの作品も録音した。
 ……ブエノスアイレス国立大学法学部講堂。良い音楽(すなわち消費材でなく安かろう悪かろうでもない音楽)がそこにある、というのが30年代なかばのブエノスアイレスの愛好家の一致した意見だった。
 アストル・ピアソラの《ブエノスアイレス8重奏団》はそこにデビューし、リサイタルをシリーズにして開いた。偉大なメンバー ——アストル・ピアソラ(第1バンドネオン、主な編曲)/最初はパンセラ、ほどなくレオポルド・フェデリコ(第2バンドネオン)/フランチーニとバラリス(バイオリン)/アティリオ・スタンポーネ(ピアノ)/マルビチーノ(エレキギター)/ブラガート(チェロ)/フアン・カルロス・バサジョ(ベース)。これはタンゴの伝統的な6重奏団にエレキギターとチェロを加えたものだ。
 ピアソラは言う。
「パリにいるとき、私はたくさんのモダン・ジャズのグループを見て聴いた。その中に、 ジェリー・マリガン8重奏団があった。……あの即興演奏をやるときの個人的なよろこび、ひとつの和音をつくるときのグループの熱意、要するに今まで私がタンゴの音楽にも音楽家にも見たことのないものだった。
 この経験の結果として、私に《ブエノスアイレス8重奏団》のアイディアが生まれた。タンゴを、例の単調さから救うことが必要だった。和声的にも、旋律的にも、リズム的にも、美学的にも。要するに、タンゴがひとを熱狂させるようにすること、聴き手も弾き手も退屈させないこと。それでいて、タンゴでなくはならないで、どんな時よりも音楽であること」
 ピアソラは、彼の偶像であるバルダロ楽団のピアノ奏者パスクアルの作品『場末』の編曲を最初に書いた。のちには、このアレンジは古くさいと言ったが。
 メンバーも作品を提供した。フェデリコの『ネオタンゴ』(のちに『カブレロ』と改題)、バラリスがかつてJ・カナロ楽団で日本へ行ったあとで作った『アノネ』、マルビチーノがジャズギターでせまる『タンゴロジー』。そして、ピアソラのライバルのひとりだったサルガンの『ア・フエゴ・レント』、ピアソラがパリで世話になったグラネの代表作『アイデ』、大先輩デカロとその時代の作品。そうそう、フランチーニの『秋のテーマ』も初演された。

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 ピアソラ34歳、聴衆の中心は21歳ぐらい。ひとつ下の世代は熱狂し、同世代より上の人は、これはタンゴじゃない、ジャズじゃないかと怒った。ギターは酒場の歌手を伴奏していればいい、それがどうしてジャズのエレキギターなのか!
 20年前からタンゴの異端児だったアスル・ピアソラは、本当の革命をはじめた。民衆のパトロンであった、貧しいものの神ペロン大統領が失政で、国外に追われた年に。
 55年。
 分岐点。

2 映画館……タンゴからの逃避

 反響はすごかった。妻であり支柱だった偉大なヒロイン、エビータをガンで失い、ついに自分はスイス銀行への預金をたよりに逃亡したペロンの残した混乱と相まって、ピアソラの音楽(彼はタンゴだというのだ)はアルゼンチンとウルグアイを震わした。ピアソラは政治とはまったく関係せず、たとえば2年ほど前にエビータ追悼でロングランされたタンゴ・ミュージカル『モローチャの中庭』でトロイロのひきいたオーケストラの編曲者だった。
 アストル・ピアソラは、仕事の報酬をもらえれば何でもやるし、自分のやりたい音楽ならば何ももらわない。
 せまくて広いタンゴ界に大論争をまきおこした《ブエノスアイレス8重奏団》のほかに、ピアソラはフランス流のストリング・オーケストラをしたがえた録音もした。ピアソラはタンゴ歌手の90%以上は音痴だから嫌っているが、なかでもまず気に入ったホルヘ・ソブラルに少し歌わせて。この弦セクションには、フランチーニではなく、バラリスを第1バイオリンにした。
 でも、ジャズっぽい8重奏にも、クラシカルな弦楽オーケストラにも、ピアソラは飽きてしまった。例の病気、タンゴに飽きたのだ。
 というより、自分を認めてくれない世の中と闘うのに疲れたのだろう。《ブエノスアイレス8重奏団》も、シンフォニック・オーケストラも、前衛きちがいの若者と、伝統きちがいの熟年が、反対方向に同じように騒ぎたてたわりに、レコードは売れず、コンサートは少なく、時に国立放送のラジオに出るくらい。少ないレコードを買う人間は外国にしかいない。たとえばディジー・ガレスピー。
 ピアソラは、映画音楽に逃げる。映画自体もすばらしい『にがい茎』。ピアソラはうれしかった。パリへ行く前に映画の音楽をつくったけれど、それはいい加減なもので、スクリーンのサッカー選手の靴先とピアソラの作品はなんの関係もなかった。こんどは映像と音がひとつのものになっていた。
 もう、経済的に、どんな編成の楽団ももてなくなって、ブエノスアイレスには逃避所がなくなって、ピアソラはニューヨークへ逃げる。
 タンゴはピアソラを棄て、アルゼンチンの若者は、映画館を出たらピアソラの名を思い出さなかった。

3 キャバレー……死の舞踏

 少年時代のすべてをすごした街ニューヨークへ、アストル・ピアソラはただ逃げこんだわけではない。じつは新しい仕事ができるという、甘い約束を信じて、希望をもって出かけたのである。妻もふたりの子供も連れて行った。
 ところが仕事なんかなかった。
 ブエノスアイレスでは、好きなことをやり、思いきり暴れ、異端者と呼ばれ、批判されることもすばらしい刺激であり興奮剤だった。あの《ブエノスアイレス8重奏団》や弦楽オーケストラは、 ジャズの即興と現代の最先端の音楽をタンゴの中に呑みこんだ、若さの総決算であった。勇気と自信にあふれていた。
 それが3年たって、新しい活動のための広い世界をもとめてニューヨークに来てみたら、アストル・ピアソラは流れ者の、食いつめたラテンアメリカ人のひとりにすぎなかった。
 ピアソラ自身のいう「わが人生最悪の3年間」がやってくる。
 子供のころ遊んだ街角を家族にみせて思い出にふけっているうちに、すぐにお金がなくなった。
 昔の父親の知人をたどって、暗黒街のボスにも仕事を世話してもらった。日本の音楽界でいう「拾い」の仕事だ。ラテン系の歌手のためのアレンジ、ほんの短期間ウォルドーフ・アストリア・ホテルのダンスバンドのリーダー、レコード1枚録音。それからエレキギター、バイブ、ピアノ、ベースのクインテットを作ってジャズ(?)クラブに出た。LPも録音し、これはジャズ・タンゴである、すなわちJT、これこそタンゴの生きる道と人には語った。JTはアルゼンチンの芸能誌にも紹介され、そのころの『中南米音楽』の海外ニュースでも期待をこめて伝えられている。だが、他人には偉そうなことをいっても、ピアソラ自身がJTなんか信じていなかった。「JTのレコードがアメリカでは売れずよその国で発売されなかったのは、神のご慈悲だ」と後年ピアソラは言う。
 アルゼンチンのモダン・バレーをやっている女性アナ・イテルマンは、ピアソラの音楽の現代性に共感したひとりだ。56年のピアソラの『タンゴ・バレー』組曲 (録音は64年)や、次の年の『現実との3分間』は彼女のために作られた。そのイテルマンが、食うためにショーのバレー団をつくって、プエルトリコの首都サンフアンのデラックスなリゾート・ホテル《フランボヤン》に出たとき、ピアソラも加えてもらった。
 その次に、男性ダンサーのフアン・カルロス・コーペス ——彼はこのジャンルの第一人者で、現在は並ぶものないスターだが—— のタンゴ・バレー団の、プエルトリコとニューヨークのラテン・クオーターでの豪華クラブ出演に加わった。
 この時のコーペス舞踊団のステージの宣伝写真にピアソラも姿を見せている。古典タンゴなんか死んでしまえと言ったピアソラが、帽子をアミダにかぶってくわえ煙草、首にスカーフを巻いた昔のヤクザ者の恰好で、ガス灯にもたれてバンドネオンを弾いている。なにが革命児だよ!
 フォルクローレの踊りの大物エル・チュカロ ——彼もアルゼンチンでは第一人者、もっとも尊敬されている人だ—— のバレー団がニューヨークに来たときも、ピアソラが音楽監督をした。やせても枯れても最高のアーチストと組んでいたことはたしかだ。でも芸術性の質の高さを別にすれば、アーチストの名前はニュヨークでは知られていないし、出演場所もラテン租界のキャバレーやナイトクラブ。今日のブエノスアイレスで観光客向けのダンス・ショーをやっているのと変わりない内容を大がかりにしただけだ。
 ガウチョが拍車のついた靴で床をふみ鳴らしてマランボを踊り、山の娘がハンカチを優雅に振りながらサンバを踊り、一転して20世紀はじめのブエノスアイレスの酒場のミロンガ、やくざ者に扮したピアソラが女の子を口説く。
 ニューヨークの《シャトー・マドリード》(ラテンのショーでは最高級の店である)に仕事のあとでやってきたアルゼンチンの事業家マトラフ氏は、半信半疑で目をこらして見ていて、やっぱりあのバンドネオン奏者は、ピアソラだと確信した。ショーが終わるやいなや、《ブエノスアイレス8重奏団》に熱狂したことのあるマトラフは、ピアソラをつかまえた。
「あなたは何をやっているんですか!ここはあなたのいるところじゃない」
 ピアソラだって、そんなことは解っていた。でも自分の音楽をどこへもって行ったらいいのか、どこで食べていけるのか。 キャバレーの踊りの伴奏で、少しずつ死んでいくだけだった。

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4 心の国……ノニーノ

 どん底のアストル・ピアソラの唯一のなぐさめは作曲だった。ニューヨークにいた地獄の時代に、彼のテーマとなったのは、ボルヘス(そのころはまだフランスやイギリスでもあまり知られていなかった)がタンゴ神話の世界を描いた詩的な物語り『ばら色の街角の男』である。草原とぬかるみと石だたみの同居するブエノスアイレスの場末を舞台に、ナイフに生きて死ぬ男たちを描いたこの散文詩に、ピアソラは少しずつ音楽のイメージを付けていった。(この作品は6年後のアルバム『エル・タンゴ』で初めて完成して録音される)
 故郷であるはずのニューヨークで、ピアソラの打ちのめされた魂をかろうじて救っていたのはブエノスアイレスのタンゴ伝説の世界だった。
 59年、アストル・ピアソラ(38歳)は大ショックを受けた。自分のすべてを作ってくれた人、父親ノニーノが死んだ。
 ほとんど赤ん坊のアストルをニューヨークに連れて来た人、アストルが6歳の誕生日をむかえた日から彼への愛情と期待だけをつづる日記を欠かさずつけていた父、アストルにボクシングとバンドネオンを習わせた男。アストルにデカロのレコードを聴かせ、ガルデルに手製の木彫り像をとどけさせたイタリア二世のアルゼンチン人。
 暗闇に落とされたアストルは、あまりに打撃が大きかったので、ほどなく極端に心が澄んできた。浄められた心で、美しい永遠なるものにひかれて『アディオス・ノニーノ』を書いた。
 拾いの仕事で、がんばってお金を作った。生まれて初めて貯金をした。
 家族と共に、ブエノスアイレスへ帰れるように。

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(中南米音楽1982年7月号掲載)


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