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[2021.02]連載②音楽が世の中を大きく変えた時代〜1974年、スペインの記憶カタルーニャの「ノヴァ・カンソー」その1

文●本田健治  texto por Kenji Honda 

カタルーニャへ

 1974年といえば、長年続いたベトナム戦争が、世界のメディアの現地報道活発化で大きな反戦運動の高まりをみせ、いよいよ73年のパリ協定によってアメリカ軍撤退、翌年のサイゴン陥落へと最終段階にあった頃。 USAのニクソン大統領がウォーターゲート事件で弾劾され、弾劾決定直前に辞任。フィリピンルバング島で小野田寛郎陸軍少尉が発見され、帰国。彼にとっての太平洋戦争が終わった。立花隆が首相田中角栄の金脈を文春で暴き、田中内閣総辞職…… まぁ、いろいろなことがあった時代だ。将来的には、こんなバカなことも少しはなくなるはず、と思っていたのに、最近の世界の動きを見ても何も変わっていない。ここで書いている問題をイメージするには、香港やミャンマーの事件を想像するのが良いかと思うが、現代の世の中も何も良くなってはいない。他にもアフガニスタン、シリア、リビア等々…、たくさんの紛争、そしてその影には必ず影の大国の権力者の思惑がある。何時になってもこんな悲劇を解決できないのは結局人間の限界なのか、そう思っては終わりだろう。もちろん、あの時期、世界中に間違った戦争や迫害に反対する音楽が生まれ、社会に大きな影響を与え、世界を変えた。しかし、ベトナム戦争の影で日本ではほとんど報道されることのなかったスペインの大きなうねり、自分でもほとんど書かなかった、あの社会が生んだ音楽を少しでも記憶に残したいと思い、このコロナ禍でできた時間でこの原稿を書きはじめている。

1974年、バルセロナ

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 さて、いよいよバルセロナに。そんな74年に、日本を脱出した。勇んでスペインに向かったのに、JAL機がエンジン故障でアンカレッジに8時間ストップ。おかげでパスポートを預け、市内を散策できた。そして、この年に開港したフランスのシャルル・ドゴール空港に降り、ここで1泊させられ、マドリードまでとんだのがコルンビアのアビアンカ航空。手に汗を握る運転を体験したり、長い旅だった……。初めてのスペインで、マドリードを離れ、このバルセロナから始まる旅行はなかなか刺激的だった。マドリードのアトーチャ駅でチケットを予約。日本のJRのレール・パスのようなのが当時のヨーロッパ、スペインでもあって何しろ安かった。しかし、バルセロナ行きの列車では、アラブ風の爺さんと揉めたり、バルセロナに着いて乗ったタクシーにボラれたり、最初から楽ではなかった。で、バルセロナでは、あのベトナム戦争のカウンター・カルチャーといわれた、ヒッピー文化で有名なイビサ島に向かいたかったのだが、3ヶ月先まで満杯と笑われ、その次の田舎のフラメンコのフェスティバルの場所と日程をインフォメーションで聞くがどこも満足な答えがない。後で知ったが、フェスティバルはステージ設備、遊園地まで一緒に移動するのだが、なにしろ1週間単位で遅れたりするから、正しい情報がないのだとか。ソニーの支店でカセット・デンスケのヒューズを手に入れる事が出来てようやく気持ちも落ち着いたが、あの時代の旅は、今では考えられない苦労の連続だった。74年、スペイン、フランコが亡くなる1年前。フランスに亡命していたアーティストたちも、スペインでの活動を開始する前のこと。マドリードで買ってきたリュイス・リャックのLPは良かったが、まだ彼らはフランスに亡命中。

カタルーニャの偉人

 さて、このカタルーニャ、もともと素晴らしい文化とアーティストたちを輩出してきた。チェロのパブロ・カザルスは、スペイン内戦勃発後に亡命し、フランス領カタルーニャのプラードで長らく暮らした。プラードではカザルスが中心となったプラード音楽祭が開催されるようになり、そこで『パセブラ』を作曲している。この旅に出る少し前の1971年の国連総会で、カタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し、日本でも一躍有名になったが、自身を「スペイン人」ではなく「カタルーニャ人」であると述べている。世界的なオペラ歌手のモンセラート・カバリェとホセ・カレーラスはカタルーニャの出身だし、19世紀後半に生まれたエンリケ・グラナドスとイサーク・アルベニスは、スペインの国民学派を代表する音楽家だ。著名なオペラ歌手を輩出している背景には、19世紀前半に設立されたリセウ音楽院とリセウ大劇場の存在がある。そして、毎年大分県の別府市で音楽際を開いている世界的ピアニスト、マリア・マルタ・アルゲリッチはアルゼンチン人だが、祖先は18世紀にカタルーニャから移住している。画家もダリ、ミロがこのカタルーニャの出身だが、当時ややファシスト思想を発言してアンドレ・ブルトンの逆鱗に触れた奇人ダリは別にして、ジョアン・ミロの方は、これから書くライモンをはじめ、音楽家たちとの交流も持っている。

ノヴァ・カンソー「新しい歌」

 さて、まず、リュス・リャックの「レスタカ」。この曲は1939年のスペイン内乱以降、フランコが行ったカタルーニャ語、カタルーニャ文化に対する弾圧的な政策に対抗して「カタルーニャ語による新しいポピュラー音楽」を推進する音楽運動「ノヴァ・カンソー(新しい歌)」のシンボル的な歌。世界の文化人を巻き込んだ「スペイン内乱=市民戦争」がフランコの勝利に終わってから約20年後の50年代に生まれた運動。スペインも、経済的に成長し、国連加入など国際的な評価が上がる中、経済、政治でも弾圧的な事は控え、できるだけ開かれた社会に変わる必要があった時期のことだった。1959年以降、レコード・レーベル、エディグサや、エディシオンという出版社も登場して、禁止されていたカタルーニャ語も、少しずつ話され、印刷されはじめていたという。その代表格がモンセラット修道院が発行した「ジェルナビット」で、その雑誌にリュイス・セラヒマが書いた “Ens calen cançons d'ara(今日のために歌が必要だ)”という記事がきっかけで、沢山の作家や音楽家がこの運動に参加するようになったと言われる。

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△リュイス・セラヒマ foto©europaPress

 音楽運動を引っ張ったのはエルス・セッツェ・ユッチェス(カタルーニャ語で「16人の裁判官」)というグループ。1961年12月19日に、マール広場で最初のコンサートを開いている。最初は市民音楽家たちの集団だったが、以降ライモン、ジョアン・マヌエル・セラート、リュイス・リャック、マリア・デル・マール・ボネ、ギレルミーナ・モッタ、フランシス・ピ・デ・ラ・セラらが加わって更にこの運動を盛り上げた。この運動に呼応するように、スペインでは、ガリシア、バスク、カスティーリャ地方にもこの運動は拡散していくことになった。そして、この運動の中心を担ったアーティストたちは、いずれも、スペインではフランコ検閲体制が厳しくなりフランスにと向かう。スペインからの亡命者達はフランスには迎えられたが、フランスも1939年から44年までは大変な時だ。つまり、39年9月には、ドイツによるポーランド侵攻と、英仏からドイツへの宣戦布告で、ヨーロッパ中が戦火に見舞われた第二次世界大戦勃発の時代。ドイツに対する宣戦布告までは良かったが、1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻で、6月にはフランス軍はあえなく降伏、フランス第三共和政政府が崩壊している。1944年以降にドイツ軍が連合国軍に駆逐されるまで続いた。その経験もあって、60年代半ばから75年にフランコがなくなり、83年にアルゼンチンの軍政が終わるまで、フランスは自由を求めるスペイン、ポルトガル、中南米諸国からのアーティストたちを暖かく迎え入れていたのだ。

 ところで、カタルーニャ語の歌詞対訳は無理と思っていたが、スペイン語、フランス語、英語などの歌詞対訳が掲載されているサイトはいくつかあって、以下が便利。スペイン語、英語のわかる方には画期的なサイトだ。

ライモン

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 ライモン(本名ラモン・ペレゲーロ・サンチス 1940年12月2日生)は、カタルーニャの南、バレンシア州の出身。公用語のバレンシア語はカタルーニャの主要な方言と言われている。
 ライモンは、幼い頃から類いまれな才能を認められて、初等、中等学校で勉強を続けると同時にラジオ局でもアルバイトを続けていた。そのお陰で、当時からジュリエット・グレコやプラターズ、フラメンコのフアニート・バルデリャーマにいたる迄幅広く世界の音楽を良く聴いていた。
 21才で州都のバレンシアに転居。旧哲学、文学部で歴史を学びながら、バンド活動をはじめ、故郷のシャティバに帰る時はいつもバイクで通っていたそうで、その時に彼の代表曲「風に」が誕生した。この曲は「ノバ・カンソー」の最初のヒット曲。62年に、ある文学賞を受賞し、その式の帰りに居酒屋で「ノバ・カンソー」の仲間に出会い、合流する。が、彼らの中のフランス流儀にも、バルセロナのブルジョアジーの色にも染まることはなく、一貫してバレンシアの労働者階級からの世界観を提示していたという。

風に向かって


 63年、まず彼の最初のレコードがEDIGSAから発売され、Al Vento(風に)、Som(私たちは)、A Corps(軍団)と連続で人気になった。特にAl Ventoはバレンシア語での最初のヒットとなった。同年、地中海歌謡祭で、女性歌手サロメと愛の歌「Se’n va anar(行ってしまった)」をカタルーニャ語で歌い優勝。しかし、大きな注目を集めたことで、フランコ政権から数々の検閲や、禁止事項を押し付けられることになった。
 ライモンはこのノヴァ・カンソーから生まれた最初のプロ歌手だったが、以来カタルーニャ語の歌詞は反フランコの色を濃くしていったとされる。カタルーニャ語にこだわった他の歌手同様、やがて、フランスへの亡命を余儀なくされたが、ライモンもリュイス・リャックもパリのオランピア劇場を始め、ヨーロッパの主要国で大成功をおさめるほどの人気を勝ち得ていったのである。

 65年、ライモンはバルセロナで初めて自分一人の、大きなリサイタルを成功させ、ベルギーのルーヴァン大学から招待された。彼の本格的な国際的活動の始まりだった。66年になって、パリ(ミューチュアリテ劇場とオランピア劇場)とドイツで初公演を行なった。翌年にはフランシス・カルコ賞(レコード・アカデミーが授与する最優秀外国人歌手賞)を受賞した。67年には、バルセロナのロメア劇場でのカタルーニャ語による初りサイタルを成功させ、キューバ、スイスでも公演を。68年にも、メキシコ、ドイツ、スイス、キューバと世界に向かった。また71年、フランス、アメリカ、ウルグアイでレコードを発表し、ウルグアイ、チリ、アルゼンチンに至るまで、数百回の公演をこなしている。73年チリで、ビクトル・ハラがピノチェットに殺害されると、翌年「ビクトル・ハラに」を発表、その中でカタルーニャ語バージョンの「アマンダ」を歌っている。

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 75年フランコ亡き後に、バルセロナで、彼の最も有名な「Jo vinc d'un silenci(静かなところから)」を初演。そして、この瞬間からライモンは「抵抗の館」に入らないようになる。77年、バルセロナのスポーツ・パレスで4回の公演を行ったにもかかわらず、彼はコンサートや政党が主催するイベントでの歌を拒否するようになる。77年、92年に来日。15年には、バレンシア州の祝日である10月9日に、前州政府による長年の侮辱の報いとして、バレンシア州政府から高位勲章を授与された。15年と16年に、彼はバレンシアの様々な街でのお別れツアーを行い、2017年5月にはバルセロナ公演を最後に、歌手としての長いキャリアに終止符を打っている。

リュイス・リャック

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 リュイス・リャックは、フランスに最も近いジローナ州の出身で、地主で医師だった父親と、教師の母親の元に誕生。ちなみに曽祖父はスペイン市民戦争を戦った闘士で、その後エンボルダ村で村長をしていた。母親の影響で弟のジョセとギターを始め、4歳でピアノを習う。アメリカで大成功したザビア・クガートがやはりこのジローナの出身だったが、何らかの影響はあったのだろうか。6歳から作曲の真似事をし始め、ソルフェージュや音楽理論を、教師について習ったという。そして、地主で医者の子だからか「私はファシストの子供と呼ばれるような存在だった。ファシズムは何よりも虚偽を拡大することに基づいており、私は虚偽のものをすべて拡大していた。帝国、旗、祖国、国家、義務、命令のような言葉は、情熱的に私を高揚させた」と語ったことがある。
 その後、9才で、ジローナ州のもっともフランス寄りのフィゲラスのラ・サール高校で寄宿生活をはじめる。ここで、弟が作詞した最初の曲「Que feliç era, mare(母との幸せな時間)」を作っているが、その後63年にバルセロナ大学に進み、工学と経済学を学んでいる。
 当初はジャック・ブレル、ブラッサンスらの歌を聴いて、ピアノを弾く普通の青年だったが、バルセロナ大学在学中の68年、このノヴァ・カンソーの運動に目覚めた。同年末、最大のヒット曲「レスタカ」を発表。この曲は完成してから8回目の検閲でようやく承認されたが、その時のタイトルは「昨日(Ahir)」という別名でだったという。翌年には禁止歌になるが、すでに一般の間では人気曲になり、すでに運動のシンボル的な存在にまでなっていた。69年12月13日、カタルーニャ音楽堂で単独公演を行い、最高のシンガーソングライターの一人としての地位を確立。このリサイタルでは、肝心の「L’Estaca」は禁止されていたため、聴衆のみで歌われた。そして、その瞬間から、彼は禁止令と知的迫害の犠牲になってゆく。

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 70年11月、キューバに渡り、フランコの政策を批判するリサイタルに参加し、スペイン大使を退場させた。帰国後、何度か延期された後の12月6日、マドリードのモニュメンタル劇場でデビュー。以来、いずれのイベントも厳しい禁止令につながり、4年間はカタルーニャ地方以外のスペインでは歌うことができなくなっていた。仕事も続けられず、パリへの亡命を決めた。ここで、パコ・イバニェスや、ギリシャの大物ミキス・テオドラキスと親しくなる。

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⇧この風変わりなLPを手に取ると、店員が「今お薦め!」と言うので買ってきた1枚が世界を開いてくれた!

 71年には、「3月13日」、「リクエスト集」、ラブソング「帰還の時」を含むLPをリリース。他にもフランス、アメリカ、ウルグアイでリリースされ、ウルグアイ、チリ、アルゼンチンでツアーも行っている。73年1月21日にパリのオランピアで初めてのリサイタルを成功させ、フランコが死んだ75年になって、バルセロナで活動できることになる。
 75年の新作『Viatge a Ítaca(イタカへの旅)』は、ギリシャのもっとも重要な詩人カヴァフィス(1863 – 1933)のテキストを基にしたもので、それまでのアルバムの中で15万枚のベストセラーとなった。このアルバムでは、ジャズや現代音楽で活躍した元フシオーンのメンバー、マネル・カンプとドラマーのサンティ・アリサとのアレンジでのコラボレーションを開始した。そして、そのコンサートを5月7日から6日間、カタルーニャ音楽堂で開催したが、チケットは発売から24時間後には完売。しかし、このイベントは、5日目にアンコールを禁じられ、逮捕され、警察本部に連行されたことで終了した。その5日目のコンサートでは、アンコールを求める聴衆が20分にわたって拍手を続け、レスタカを大合唱。しかし彼はリサイタルの継続を禁じられ、10万ペセタの罰金を課せられ、8ヶ月以上スペインでの公演はすべて禁止された。
 79年になって、バルセロナのリセウ大劇場で、オペラ関係の歌手以外では初めて歴史的な2回のリサイタルを成功させる。同年、イタリアの音楽評論家の審査員によって外国人歌手に授与される最高の「テンコ賞」を受賞。同賞受賞者には過去にブラッサンス、ジャック・ブレル、レナード・コーエン、トム・ウエイツ、パブロ・ミラネス、エルビス・コステロといったアーティストが名を連ねている。受賞理由は「文化的アイデンティティを主張し、新しいカタルーニャの歌の想像と、進化に粘り強く、普段の活動で貢献した」事であった。84年、評判のアルバム「T’estimo(愛)」を発表、中に「広島の子供たち」という曲が収められた。「広島の子供たち、名前を教えて下さい。ゆっくりと、すべての名前を。もっと貴方の存在感を示して下さい。宇宙の空間を埋め尽くして! 恐怖を知らない平和の名の下に曖昧さはもう無理。レーガン、アンドロポフら老いぼれのハゲタカに対抗して、塹壕を放棄しよう。 時間はほとんど残されていない…」と歌う佳曲だ。日本人、あるいは日本の政治家が身につまされる内容だ。
 85年、7月6日、カンプノウで10万人以上の観客を動員し、オーケストラと共演、生涯でもっとも大規模なリサイタルを翌年にはCBSと契約、ロルカへのオマージュとして、レナード・コーエン、ムスタキ、ドノヴァン、シコ・ブアルキらと共同アルバムにも参加している。

 リュイス・リャックは、2007年、ヴェルジュのコンサートを最後に、40年のキャリアを終了した。15年7月24日、カタルーニャ独立支持者であるリュイスは、カタルーニャ州議会議員に選出され、17年まで在職した。

(肝心のyoutubeページをアップしてませんでした。以下、Lluisのoficialサイトからです。その後少し記事も続いています。)

※Emissió en directe de la segona part de l'actuació de Lluís Llach al Camp Nou davant cent mil espectadors. Diverses personalitats son entrevistades al final per comentar l'esdeveniment i el seu significat.

Data original d'emissió: 6 de juliol de 1985

CONCERT "Lluís Llach al Camp Nou":

00:00​ A l'Estació
03:50​ Amor particular
12:46​ Companys, no és això
19:18​ Lluís Llach parla de Catalunya i els Països Catalans
21:58​ Viatge a Ítaca
33:53​ Lluís Llach amb Mª del Mar Bonet i Marina Rossell
36:24​ Cant de l'Enyor amb Mª del Mar Bonet i Marina Rossell

OPINIONS:

41:53​ Josep M.Flotats
42:03​ Josep M. Espinàs
42:19​ Carlos Tena
42:29​ Josep M. Forn
42:40​ "La Tata"

CONCERT:

44:44​ Laura

OPINIONS:

49:17​ Joan Rigol
49:33​ Lluís M. Xirinachs

CONCERT

49:50​ Mai no Sabré
57:38​ L' Estaca

OPINIONS i FINAL DE CONCERT:

01:03:00​ Maria del Mar Bonet i Marina Rossell i Cant de l'Enyor

00:00​ Presentació concert de la mà del periodista
10:02​ Lluís Danés
10:06​ Marta Payaró
10:30​ Maite Planesas
10:44​ M. Eugènia Darnaculleta
11:06​ Ignasi Sabater
11:33​ Albert Mallol
11:46​ Mònica Terribas
12:01​ Xavier Graset
12:14​ Jordi Baste

14:36​ Lluís Llach entra a l'escenari
19:25​ "Geografia"
24:20​ "Un núvol blanc"

29:28​ Lluís Llach parla de com va començar amb la música

31:30​ "Tinc un clavell per a tu"
35:00​ "Maremar"
44:40​ "Potser el desig"
51:20​ "A poc a poc"

01:01:56​ Lluís Llach parla d'en Salvador Puig Antich i a les víctimes del franquisme a Vitoria l'any 1976

01:03:00​ Sempre queda un fil
01:11:20​ El dia
01:16:08​ Fins quan i per qui
01:22:25 Tendresa
01:31:16​ Jo hi sóc si tu vols ser-hi
01:41:42​ Els meus ulls aquí
01:49:45 Tossudament alçats
02:02:44​ Sabessis bé
02:09:40 Que tinguem sort
02:16:50 Alè
02:22:50 Vida
02:28:02​ Aprendre
02:35:10 Cançó a Mahalta
02:40:05 País petit
02:45:48​ Venim del nord, venim del sud
02:49:40 Amor particular
02:56:00 Ítaca
03:05:25​ Verges 2007

以下、リュイス・リャックの公式チャンネルすべてのアルバムも聴けます。登録して入って下さい。

「レスタカ」は、80年代のポーランドの連帯労働組合運動の代弁者で、シンガー&ソングライター、詩人のヤチェク・カツマルスキーによって、運動の非公式な賛歌として使用された。

 ヤツマルスキーは、共産主義政権を批判し、ポーランド人の愛国的抵抗の伝統を訴えた人物だが、政治的な歌手というよりは詩人としての評価が高かった。04年に咽頭がんで亡くなっている。サラニ97年、フランスのペルピニャンにあるラブビー・クラブの公式な賛歌にもなったし、2011年のチュニジア革命の歌にもなっている。(続く)

(ラティーナ2021年2月)

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